ある在日の体験談2006/12/01

>私が中学1年生の時、ハラボジ(祖父)が亡くなりお葬式がありました。喪主であるアボジ(父)は一世のですので、当然の如く朝鮮人丸出しの葬儀をしました。次の日、私が学校に行ったときの教室の空気たるや、あれは忘れる事も出来ません。通名(日本名)で生活をしていた私はその時以来、朝鮮人という事がばれてしまいました。まさにこれが「チョンバレ」です。約一年後、我が家はその街を離れました。>

 在日一世は通名を名乗りながらも朝鮮人であることを隠さなかったということです。自らの民族性を隠すという性向は、1950~1970年代に成長期を過ごした二世以降の世代の特有の現象です。彼の体験談はこれを裏付けるものです。  在日が自らの民族性を隠すというのは、一部であって全部ではありません。

>「在日」の指紋押捺反対運動は、何も指紋押捺という一般的な意味における問題性を指摘しているのではありません。  15才の子どもが、5本の指にベットリ黒い墨を塗られて一本、一本、ただ、ポンと押すのではなく、側面から白い紙の上に載せて、次の側面までゆっくり回転させながら押していくのです。親指の次は人差し指、その次は中指、薬指、そして小指、白い紙に押捺している所を想像してみてください。そういうリアリティーから、「指紋押捺反対」という声を上げたのです。>

 これには重要部分に間違いがあります。「15才」と「5本の指」です。実際は14才で、左手人差し指の一本指だけです。つまりこの体験談には元々リアリティはないにも拘わらず、彼は指紋押捺反対の運動に加わったということです。なお彼自身は間違いを認めました。  私は拙論第47題にあるように、この運動に疑問というか胡散臭さを感じていました。従って彼の間違いの体験談は、私には参考になるものでした。

博多せんしょう2006/12/07

 『国立歴史民俗博物館研究報告124集』に島村恭則さんの「朝鮮半島系住民集住地域の都市民俗誌」という論文が掲載されています。福岡のいわゆる朝鮮部落を詳しく調査研究した労作です。

 そのなか(206~207頁)に、戦後の闇市から発展した大津町商店街が1987年に住宅改良・再開発事業に伴い消滅し、同年に完成した「博多せんしょう」に店舗を移したとあります。   この「せんしょう」を論者は、「鮮商」の意であると解説しています。そして前後の文脈から、彼はこの「鮮」を朝鮮の略称と考えているようです。   しかし、この「センショウ」は千代商業協同組合が経営するものですから、おそらく「千商」であって、「鮮商」ではないと思われます。従って勇み足的な解説と考えられます。 http://capella.fukunet.or.jp/member/sensho/

 それはともかく、この論文は朝鮮部落を本格的に調査したもので、このような研究は寡聞にして知りません。私とは一部に見解を異にするところがありますが、かなり興味深いものですので、多くの方に読まれるようお勧めします。

何故国籍欄は朝鮮のままなの?2006/12/13

>ところで、彼等の外国人登録原票(と言うのか?)への国籍記載は「韓国」或は「大韓民国」或は「朝鮮」である。「北朝鮮」、「朝鮮民主主義人民共和国」というのはない。(という。オッサン全ての実物を見たことが無い。伝聞だ) > 疑問①  以上は正しいですか?

 正しいのですが、より正確にいうと「韓国」「朝鮮」の二種類だけです。

> しかし国籍欄が「朝鮮」と言うのは、これいかに。 > もしそうなら、おかしいではないか。 >朝鮮と言う名の国家は無い。なのに国籍欄に存在しない名が記され、当然、彼等の外国人登録証明書にも「朝鮮」と記載されている> > 疑問②  どうして日本政府がこんなことをほおって置くのか?

 外国人登録上の国籍欄にある「朝鮮」は地域名であって、国家名ではありません。最初(1947年の外国人登録法の施行時)は北朝鮮も韓国も建国していませんでした。そこでこの国籍欄には地域名として「朝鮮」だけが記載されました。この位置づけは今でも生きています。

>もう一方の当事者である在日朝鮮人(外国人登録原票の国籍欄を朝鮮のままにしている人)で、自らを北朝鮮の在外公民 としている人、北朝鮮の人民会議(というのか?)の議員もいるではないか、は何故、「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)国籍であると主張しないのか? >疑問③ それなら、何故国籍欄を「北朝鮮」と記載することを日本政府に要求しないのか?

 北は、自国が朝鮮の唯一正統性を持つ国家であると考えています。その国家名(略称)は「朝鮮」であって、「北朝鮮」ではありません。従って彼らが「北朝鮮」の記載を求めることはあり得ません。

朝鮮人学校閉鎖令2006/12/18

>コリアンの民族学校の一部は、日本学校の校地・敷地に立てられたとの事ですが・・・・。> >この手の話はネット上で良く拝見しますが、いまだに具体的な内容を見た事がありません。> >「一部の民族学校は、日本学校の校地に建てられた」という話が本当になるならば、どこの民族学校がそれに当たり、民族学校が建てられる以前は何という校名だったのか(即ち、日本学校だった頃の校名)、一例なりともお答え頂けるでしょうか? > http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuyondai

 ご質問の件ですが、その資料を引用します。

 『大阪連絡調整事務局 昭和二十三年四月 “執務月報”第二号』 『大阪市史史料第十四輯 占領下の大阪』(大阪市史編纂所 昭和60年1月)15頁

 「一月廿四日附の文部省の“朝鮮人設立学校の取扱”に対する指示があったので、この問題に関し大阪府教育部は軍政部係官と協議の結果、軍政部側では日本人関係学校の建築物を利用している朝鮮人学校は即時閉鎖を命じる‥‥  大阪府としては、三月十六日附で大阪市及府下の関係係官に対し各公立中小学校の校舎を朝鮮人学校へ貸与する新契約及再契約又は契約期間の延長は認めない様手配方指示を出したが、さらに二十三日附で大阪市内朝鮮師範学校、大阪府下西能勢及多奈川朝鮮初等学校に対し三十一日限り閉鎖方を勧告した。‥‥  軍政部側としては絶対に閉鎖せしめるとの意向である。」

 大阪で一番最初に閉鎖を指示された三つの学校名が列挙されています。  この中で西能勢は西能勢中学校、多奈川は多奈川小学校と思われます。大阪市内朝鮮師範学校はどこなのか、分かりません。

金達寿さんの父が渡日した理由2006/12/24

 ちょっと古いですが、故金達寿さんの著書『わがアリランの歌』(中公新書 昭和52年)に、彼の父親が渡日した事情が書かれてあります。なかなか興味深いものなので、紹介します。  金達寿さんについては http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%81%94%E5%AF%BF 参照。

「私は三、四歳のころ(金さんは旧暦1919年生まれ)‥‥父はそのころなにをしていたかというと、もっぱら馬山通いばかりしていた‥‥  朝鮮里数では二十里、日本里数にすると二里の八キロさきにあった馬山は人口三万ほどの都会で、そこには妓生組合、すなわちその妓生たちとあそぶ妓楼があって、父はほとんどそこに入りびたりとなっていたのである。いわゆる遊蕩で、しかも父にはいつも四、五人の取巻きたちがついてまわっていたという。‥‥  父は家にいることがあっても、私は父の働く姿を見たことがなかった。‥‥  要するに父は、残った田畑をも一枚二枚と人手にわたしながら、遊蕩三昧だったのである。‥‥  やがて父は、『青田買い』の日本人高利貸からも金を借りるようになった‥私が四、五歳のころはじめて見た日本人というのはその高利貸しで、彼は徳田なにがしというものだった‥‥  彼が来て帰ると、私の家ではそのたびに大きな紛乱がおこったからである。祖母や母が泣き叫ぶなかを、軒下に積まれた籾俵が積み出されるだけではない。ときには何人かの黒い服を着た役人がやって来て、家の柱や、家財道具の箪笥にまで赤い紙をベタベタ貼っていったりした。  いま考えると、それが郷里におけるわが家の終わりであった。‥‥  いよいよ一家離散ということになったわけだ」(6~9頁)

 金達寿さんの父親は自ら身を持ち崩し、家族までも悲惨な目にあわせた結果、渡日せざるを得ないことになったわけです。決して日本の植民地政策の結果ではありません。