金達寿さんの父が渡日した理由2006/12/24

 ちょっと古いですが、故金達寿さんの著書『わがアリランの歌』(中公新書 昭和52年)に、彼の父親が渡日した事情が書かれてあります。なかなか興味深いものなので、紹介します。  金達寿さんについては http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%81%94%E5%AF%BF 参照。

「私は三、四歳のころ(金さんは旧暦1919年生まれ)‥‥父はそのころなにをしていたかというと、もっぱら馬山通いばかりしていた‥‥  朝鮮里数では二十里、日本里数にすると二里の八キロさきにあった馬山は人口三万ほどの都会で、そこには妓生組合、すなわちその妓生たちとあそぶ妓楼があって、父はほとんどそこに入りびたりとなっていたのである。いわゆる遊蕩で、しかも父にはいつも四、五人の取巻きたちがついてまわっていたという。‥‥  父は家にいることがあっても、私は父の働く姿を見たことがなかった。‥‥  要するに父は、残った田畑をも一枚二枚と人手にわたしながら、遊蕩三昧だったのである。‥‥  やがて父は、『青田買い』の日本人高利貸からも金を借りるようになった‥私が四、五歳のころはじめて見た日本人というのはその高利貸しで、彼は徳田なにがしというものだった‥‥  彼が来て帰ると、私の家ではそのたびに大きな紛乱がおこったからである。祖母や母が泣き叫ぶなかを、軒下に積まれた籾俵が積み出されるだけではない。ときには何人かの黒い服を着た役人がやって来て、家の柱や、家財道具の箪笥にまで赤い紙をベタベタ貼っていったりした。  いま考えると、それが郷里におけるわが家の終わりであった。‥‥  いよいよ一家離散ということになったわけだ」(6~9頁)

 金達寿さんの父親は自ら身を持ち崩し、家族までも悲惨な目にあわせた結果、渡日せざるを得ないことになったわけです。決して日本の植民地政策の結果ではありません。