朝鮮人の暴食2007/01/17

 ヨーロッパ人による李朝時代の記録に、朝鮮人の暴食の性向が報告されています。シャルル・ダレ『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫 金容権訳)では、次のように書かれています。

「朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持ちも、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。  朝鮮人は、常に食べる準備をしている。機会があれば手あたり次第に食うが、それで十分だとは決して言わない。‥‥ いつもの食事時がくれば、さながら二日も前から飢えていたような食欲で食膳につく。‥‥  労働者一人の一回の食事量は、ふつう米約一リットルで、炊けば大きな丼にたっぷり一杯はある。しかし、それだけでは彼らの腹を満たすのに十分ではなく、多くのものは、可能でさえあれば、三,四人分の食事を平らげてしまう。九人分や十人分の食事を食べても何ともないと言っている人さえいる。‥‥  果物が出されるとき、例えば桃や瓜の場合、もっとも控えめな人でさえも、皮もむかないでまたたくまに二十個や二十五個は食べてしまう。  もちろん、この国の人びとが、いま述べた分量を食べているというのではない。すべての人が、いつもそれを食べる準備をととのえており、そんな機会に実際にぶつかれば、食べてしまうのだろうが、しかし彼らは、そんな機会にありつくには、あまりにも貧しすぎる。‥‥」(273~274頁)

 イサベラ・バードの『朝鮮奥地紀行1』(平凡社東洋文庫 朴尚得訳)では、次のように書かれています。

「私は中台里で、また多くの場所で、朝鮮人の極度の大食を指摘する機会を得た。朝鮮人は空腹感を満たすためにではなく、満腹感を享受するために食べる。‥‥  大食に関しては、全ての階級が同じである。食事の大きな値打ちは、質ではなく量にある。幼い頃からの朝鮮人の人生の目的の一つが、胃袋に可能な限り多くの収容力と弾力性を持たせる事にあるのである。だから、一日四ポンド(1.8㎏)もの米で、不快な思いを感じないのかも知れない。  安楽な環境にいる人は食事のあいまに酒を呑み、大変な量の果物、木の実、そして菓子を食べる。それにも拘わらず、あたかも一週間も飢えに苦しんでいたかのように、今にも次の食べ物に掴みかかろうとしている。‥‥  私は朝鮮人が食べごたえのある肉を、一食に三ポンド(1.36㎏)以上食べるのを見たことがある。“一人前”にしては多い量を、朝鮮人が三人前、四人前さえも食べるのを見るのは、珍しいことではない。」(249~250頁)

 このような朝鮮人の暴食の性向は、百年前の李朝時代だけでなく、現在の北朝鮮からの脱北者にもそれがあります。彼らの脱北時の生活を記した本の中に、しばしば出てくるのです。例えば、最近の韓景旭『ある北朝鮮兵士の告白』(新潮新書)に次のような記述がありました。

「中国に来たばかりのとき、彼が茹で卵を一度に六十個も食べたことがあると、台所に立っていた奥さんが恥ずかしそうに言った。」(4頁)

 北朝鮮は李朝時代の再来なのでしょうか。  それにしても、この暴食は一体何なのでしょうか。  野生動物は常に飢餓状況にありますから、目の前に食料があるとすぐさま腹いっぱいに食べる、いわゆる食い溜めをするものなのですが、これに似ているように思えます。