在日は日本の「豊かさ」を直感した ― 2007/04/01
>(なぜ朝鮮人は母国に帰還しなかったか。)これも答えは簡単だ。日本が豊かだと考えていた朝鮮人が多数いたし、事実そうだったということである。>
終戦時の日本は、空襲や原爆によってほとんどの都市が壊滅状態でした。社会基盤の多くが破壊されてしまいました。 一方、朝鮮は空襲をほとんど受けておらず、社会基盤は残っておりました。
従って戦後は、朝鮮は日本より物理的な「豊かさ」において、はるかに有利な状況だったのです。 にもかかわらず、在日朝鮮人たちは解放された祖国よりも日本のほうが「豊か」と考えたのは何故なのでしょうか。
これは、朝鮮人たちは朝鮮半島に残っていた「豊か」な条件を活かすだけの社会体制を構築できないだろう、 日本人たちは日本列島においてその条件が不十分にも拘わらず、生産基盤を復興させるだけの社会体制を再構築することができるだろう、 在日朝鮮人たちはこのような民族性の違いを知っていたのではないか、と考えています。
「豊かさ」は物理的条件ではなく、社会を構成する人間の質だと思います。 この違いが出てくるものは何か?に関心があるところです。
角川『平安時代史事典』にある盗用事例 ― 2007/04/07
阪神大震災の3ヶ月ほど前に、神戸で50年以上も生活してこられた在日朝鮮人一世のおばあさんから、長年使ってこられた「砧」の道具をいただきました。これを契機に砧についての資料を集めて研究を重ねました。 こういった時にまず最初にすべきこととして、「砧」が各種『事典』『辞典』でどのように説明されているかを調べました。 その際に次のような事例を見つけ、驚きました。
『平安時代史事典』(角川書店1994)629頁
「【砧 きぬた】 きぬいた衣板の略で、織物を織り上げたのち、織機からおろしたままでは堅くてなじまないので、織目をつぶして柔らかくし、つやを出すためにする作業、またはその道具。碪とも書く。砧仕上げともいう。一般に石や木の台の上に折り畳んだ布を置き、木槌で何回もたたく。これは麻・木綿の織物に対してなされ、絹では円棒に織物を巻いたのち、両端を軸受けに置き、回転させながら木槌で打ちつやを出す。砧は、当初たたき洗いとして洗濯のため各地に使われていたが、擣衣と呼ばれている中国の砧仕上げ法が日本に伝わり、平安時代には打衣として紅・濃き紫の綾を砧で打った。 史料『類苑』産業部二。 [中村太×]」 (伏字あり)
ところがこれの9年前に発行された百科事典に、次のような説明がありました。
『日本大百科全書 第6巻』(小学館1985)616頁
「【砧 きぬた】 きぬいた(衣板)の略で、織物を織り上げたのち織機から下ろしたままでは、堅くてなじまないので、織り目をつぶして柔らかくし、つやを出すために使われる道具。これを使ってする作業を砧打ち、または砧仕上げともいう。一般に石や木の台の上に折り畳んだ布を置き、木槌を使って何回もたたく。これは麻・木綿に使われ、古くは弥生時代の遺跡からこの目的に使用されたと思われる木槌が出土している。また絹では円棒に織物を巻いたのち、両端を軸受けに支えて、回転させながら木槌で打ってつやを出す。また砧は、たたき洗いのための洗濯の道具として各地で使われている。現在では砧仕上げと同じく打布機か、ベビー・カレンダーを使い、同じような風合いを作り出す方法がとられている。 〈角山幸洋〉」
読んでいただければお分かりのように、400字足らずの説明文のうち三分の二は一字一句変わりません。 執筆者が同じならいざ知らず違いますので、これはいわゆる盗用になります。発行年代からして、前者が後者を盗用したものと推定されます。
「砧」と渡来人とは無関係 ― 2007/04/14
東京の世田谷区に「砧」というところがあります。これについて、砧が渡来人がもたらした文化と考え、それが地名になったと考えている人が多いようです。 しかしそこは、明治22年に喜多見・宇奈根等5カ村が合併した時に「砧村(きぬたむら)」と命名された地名です。 古代どころか江戸時代さえも遡ることができません。 従って朝鮮からの渡来人とは全く関係のない地名であることは断言できます。
砧は、日本では源氏物語に出てくるし、中尊寺所蔵の絵画(12世紀)や伊勢名所絵巻(13世紀)にも描かれるもので、千年以上の歴史を辿ることができます。
しかし、朝鮮半島では19世紀末の日清戦争頃のヨーロッパ人の旅行記に出てくるものが最古で、百年ほどの歴史しか辿れません。
砧は日本では資料が古くまた豊富ですが、朝鮮では近代以前は皆無と言っていいものです。
「砧」という文字を見て渡来人を連想するというのは、こじつけ妄想です。
なお木製の横槌を「砧」という人がいますが、これについては渡辺誠名誉教授が間違いであると明確に指摘しておられます。
東郷茂徳が名前を変えた理由 ― 2007/04/21
東郷茂徳は太平洋戦争の開始時と終戦時の外務大臣で、戦後東京裁判でA級戦犯として懲役20年の判決を受け、その2年後に病死しました。後に靖国神社に祀られて今にいたっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3
この東郷が明治15年に生まれた時は「朴 茂徳」という名前で、5歳の時の明治19年に「東郷茂徳」となったことは有名です。名前から分かりますように、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津藩に拉致された朝鮮人陶工集団の子孫です。
なぜ名前を変えたかについて、日本社会からの厳しい差別のまなざしを避けるために、他家への入籍・分籍という戸籍操作によって日本式の名前に変えざるを得なかった、という説が流布しています。この通説については、明治19年ごろに既に朝鮮人差別があったということになり、ちょっと不思議と思いながらも、そんなものだろうとも思ってもいました。
ところが萩原延寿『東郷茂徳 伝記と解説』を読みますと、名前を変えたのはそのような理由ではないことが記されており、成る程と納得しました。
東郷の故郷の苗代川は、上述の歴史的経緯をもった陶工人の村で、ほとんどが朝鮮姓でした。彼らは気位が高く、薩摩藩では士族と同等の扱いを受けていたと考えていました。ところが、明治5年の壬申戸籍作成の際に、彼らは平民身分とされてしまいました。これに対して「士族編入之願」を繰り返し願い出ましたが、すべて却下されました。何とか士族になろうとして、没落士族から「士族株」を購入して戸籍を変え、「士族」身分と記載されるようになった、という経緯でした。
西南戦争後の鹿児島は貧窮士族が多く、士族株の売買が可能だったのです。 「朴」家は明治19年に「東郷」家と名前を変えました。それは民族差別ではなく、江戸時代から続く身分差別に起因するものであったということです。
通説は疑ってかかるべし、という教訓を改めて得ました。
歴史の三分法論 ― 2007/04/28
> 1。ヨーロッパ以外にはうまく当てはまらない。 > 「アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式」という発展段階は日本史以外にはうまく当てはまりません。 > 中国は「封建的」がなかったがゆえに、自立的に近代ブルジョア的生産様式にいたらず現代に至っています。とすると、中国は古代以前、古代、近代の3区分になるのでしょうか?タイ王国なら、それですむと思うのですが。 > 古代が長すぎませんか? > イラン、イラク、トルコ、エジプトなど中東地区も同様に考えるべくでしょうか?
このマルクスの発展段階説は、拙論で論じましたように全人類史的=全世界史的に見た歴史であって、個々の地域や民族の歴史ではありません。 従ってヨーロッパ諸国でもそれぞれの国での歴史でも当てはまらず、ましてや日本史にも当てはまらないでしょう。
>2.そもそも、古代以前を「アジア的社会」というのは用語として適切ではないでしょう。奴隷制は経済的制度というより、異民族の戦争によると思います。 > インドのカーストはアーリア人の征服により、先住民を最下層のスードラとしたのが始まりと、バラモンの経典には出ています。 > 南米のインカ以前の考古学的遺物にもいけにえとしての奴隷らしきものが見つかってます。奴隷制社会とか、世界史に通じる用語がないのでしょうか?
「アジア的」については、拙論で論じていますように、19世紀ヨーロッパの認識です。それが現在にも通用するものかどうか、また地理的認識を歴史上の概念の言葉に使うことが適切かどうかは、それぞれの研究者の意見です。なお「アジア的」は奴隷制より以前の段階として設定されています。
>3.何を持って古代というのか?古代以前と区分する指標がよくわかりません。 > 古代以前の開始は農耕の開始を持って歴史の開始と見ることができますが、古代と、中世の区分が見えません。西欧ではローマまでを古代としてますが、中国で似たような例を探すと、秦漢王朝までを古代とするか、隋唐王朝までを古代とするか分かれるところでしょう。 > 東ローマは西ローマ滅亡後も続き、古代なのか?中世へ入るのか? > インド史ではアラブ進入以前をもって古代の終わりとしていますが、根拠は知りません。日本史では鎌倉時代から中世とする様ですが、ここに社会進歩はあるのでしょうか?
これは個別の歴史をよく勉強して、ご自分の意見を作ってください、としか言いようがありません。私の意見は書きますと長くなります。拙論で大雑把に論じておりますので、お読みください。
(参考)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigodai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokudai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuudai
> そもそも歴史は社会科学なのでしょうか?という疑問があるからでしょうが、 > 辻本さんの歴史区分を教えてください。
拙論で「私は「西欧中心の発展段階説」が正しさを有していると思っている」と論じている通りです。西欧で発生した資本主義・民主主義・法治主義を最高到達点として考え、これに至る過程を全世界史としてとらえる見方です。この説が個々の地域史や民族史にそのまま当てはまらないということは上述しました。