在中韓国人は「新鮮族」2008/06/07

 中国には20年ほど前に韓国と国交を樹立して以来、多くの韓国人が居住しています。  この在中韓国人は第二次大戦以前より暮らす朝鮮族とは違う身分になります。彼らは、この旧来の朝鮮族と区別して「新鮮族」と呼ばれることを知りました。 http://www.onekoreanews.net/past/2008/200806/news-seiji02_080604.cfm

 新鮮族の「鮮」は、明らかに朝鮮の略称です。日本ではこれを差別語とされて、タブー視される言葉となっています。しかし、中国では堂々と使われており、韓国人もこう呼ばれることを受け入れています。

 日本で「鮮」を使うと、差別と闘う団体から、悪質な差別事件と糾弾されたものでした。  日本では差別語だが、中国では差別語でないという論理になるのでしょうかね。

(参考)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuyondai

コメント

_ マイマイ ― 2010/02/20 10:41

  「差別語」考まで迷路にはまったような感覚で読ませてもらいました。差別と闘う運動団体についてはよくわからないのですが、「差別語」に過敏に対応した時期を通過して現在があるのかなと思います。状況を考えなければなりませんが、「団体」の周辺がもつ功罪の「罪」の存在を感じます。よって主張されている内容にうなづけるところは多いです。
  1980年代、学校に在籍していたのですが、事務職員が「北鮮」または「南鮮」ということばを使ったということで問題にする学生がいて、事務職員の発言を非難するポスターが学内に貼られました。ほとんどの人にとってすでに「死語」に近いことばでした。どう考えてもやりすぎで、対応がすばやいのでマニュアル化されているようないやな印象を持ちました。
  で、「鮮」ということばについて独断で大雑把に考えてみました。
  仮に李氏朝鮮時代に自らの国号を「朝」ということばで略す慣習があったとしても、戦前に歴史用語としての「日朝」は存在しなかったように思います。あの時代の日本側の意向(当時の国家体制としては「朝」を使いたくない)が働いて「日鮮修好条規」のように「鮮」が使われ、それ以降も使われるようになったと私は今のところ考えます。但し、朝鮮側のこだわりはわかりません。
  「戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索」(朝鮮近代史を研究されている水野直樹氏が運用責任で作られたデータベース)で「全鮮」「北鮮」「南鮮」で検索するとそれぞれ20数件ヒットします。中には「全鮮人」ということばもあります。参考までに「北朝鮮」は2件、「南朝鮮」は9件です。日韓併合をへて植民地行政が始まって、朝鮮半島全域を表現することばの略称として「鮮」が採用されています。主に日本の為政者、軍部、マスコミでしょうか。
  それまでに歴史的に国号の略称として使われていたとしても、36年間の植民地時代に両民族は、「鮮」は日本の領土になった朝鮮半島の略称であるという新しい記憶を共有することになりました。「鮮」自体は蔑称ではありません。戦前の台湾は「台」、満州は「満」、支那は「支」です。文字数が制限される新聞記事の見出しとして「鮮台」「鮮満」「満鮮」「鮮満北支」という組み合わせも登場します。
  「北九州」「南九州」と同じような感覚で「北鮮」「南鮮」が地域を表すことばとして使われていて、たいていの朝鮮人は目にすることもなくこだわりもなかったと思えます。
  次に戦後について考えます。
  大分県に住む在日朝鮮人一世(総連の幹部)が「戦中・戦後の五十年史」を綴って自費出版した本を持っています。その中に「朝鮮・韓国関係大分合同新聞記事年表」があるので見出し記事を追って考察してみました。
  やはり1945年8月15日を境にしてマスコミの対応は速いです。「半島人」「半島出身者」は消え、ほとんど「朝鮮」「朝鮮人」「在日朝鮮人」「在日本朝鮮人」「日朝」になっています。朝鮮人が日本から朝鮮に帰ることを「帰鮮」ということばでも表現しています。「北鮮」ということばは「領土であった朝鮮半島北部」という意味で日本人に関する記事として登場します。たとえば「北鮮脱出報告書」「北鮮からの最後の引揚げ」などです。まだ独立国家ができていない混乱期で、日本の領土であった土地という意味合いで使っている傾向にあると思います。
  しかし1948年8月に「大韓民国」、9月に「朝鮮民主主義人民共和国」ができました。自民族の国家を創りました。かつて「領土であった朝鮮半島」の略という記憶を持つ「鮮」ということばで、日本人が新生国家を指して語ることはデリケートな問題が生じると思います。やはり良識ある人ならば感覚的に控えると思います。
  ただし領土であった朝鮮半島の南部、北部を思い出などで語るときはかまわないと思います。たとえば「あの頃北鮮の○○に住んでた」という感じで、けっこう戦後まもない頃の庶民生活の中では使われていたと想像します。
  しかしマスコミも日本人引揚者の報道をしなくなるし、庶民生活も別の関心に移り次第に消えていき、「韓国」「北朝鮮」に切り替えていったと思います。「北鮮」「南鮮」ということばにノスタルジアを持ちながら、「韓国」「北朝鮮」ということばに切り替える作業をしないまま、生を終えた人もいたと思います。「北鮮」「南鮮」ということばを見たり聞いたりしたことがない人は、もちろん「韓国」「北朝鮮」です。仮に頑迷に「北鮮」「南鮮」ということばに固執する人がいても、その人の寿命とともに消えていく運命だったと思います。
  次に在日に焦点をあてます。
  「朝鮮」という意味は「朝が鮮やか」という本来は美しいものなのに、蔑称にされてしまったと残念そうに語る姜在彦先生の講演を若いころ聞いたことがあります。朝鮮人と共存する日常で、手っ取り早く勝利を得る最後の切り札として「朝鮮人」ということばを戦前・戦中そして戦後も使う子どもも大人もいました。在日一世・二世ならば、みな「朝鮮人」ということばを浴びせられた苦い思い出は持っているはずです。笑い話にできるような心境に達した人でも「苦い」ことには変わらないです。
  戦後まもない頃、闇市なしでは誰も生きれないような時代、「反社会的な行為」をする民衆の中に在日朝鮮人もいました。目立ったかもしれませんが、「多かった」と表現する判断材料は持っていません。それ以降とにかく生きていく手段をなくして犯罪に走る人や信じるイデオロギーに理想を求め具体的に行動をとる人もいました。この頃の新聞には「犯罪」としての印象を強く残す記事とともに「朝鮮」ということばが多数使われていたと想像します。「犯罪」から遠くにある在日朝鮮人にとって、さらに「朝鮮」ということばに敏感にならずにはおれない状況があったと思います。もちろん在日側に責任はあります。こうして在日朝鮮人は「朝鮮」という表現は好まず、また心ある日本人も「朝鮮」ということばを使うことが失礼になると思う人も出てきました。伝聞や報道を通して、「朝鮮」ということばに「蔑み」だけでなく「犯罪性」も日本社会は記憶したということです。
  戦後の日本社会では朝鮮半島で独立国家ができるまで「北鮮」「南鮮」ということばを朝鮮人に関しては使用しないで、「朝鮮」や「朝」ということばに統一されていたように思います。あくまでも傾向性を語っています。
  日本社会では「朝鮮」は口にしにくいことばでした。「大韓民国」ができると「韓国」を積極的に使う人たちが出てきました。北朝鮮に帰属意識を持つ人たちは「朝鮮」を使います。このあたりから日本社会では「朝鮮」ということばに「蔑み」「犯罪性」+「共産主義イデオロギーへの同調」という意味合いを記憶するようになりました。
  「北朝鮮への帰国事業」が在日にもたらした影響は大きいです。「北鮮」ということばは親を含めて周囲の人もこの事業の話題の中で時折使っていたような気がしますが、たいていは単に「北」といっていたように記憶しています。『キューポラのある町』という本をめくっていると、「北鮮」ということばが「北朝鮮」を指すことばとして清清しい心情で使われている事実を後になって発見して、「北鮮」ということばの使用に矛盾があることは感じていました。
  はっきりいえることは、この「帰国事業」の周辺あたりで「北鮮」ということばが復活してきたということです。「南鮮」は「北鮮」の対語として後で出てきたと思われます。それで誰が復活させていったかということですが、断定はむずかしいです。戦後からこの事業までの新聞報道を丁寧に見ていけばヒントは出てくるかなと思いますが。あえていえば、「帰国事業」に反対する行動をとった団体の周辺ではないかと考えます。プラカードなどで字数の制限を受けて、「朝鮮」ということばを避けたい心理が働いて「北鮮」と誰かが使い始めた。こんなもんではないかと思います。
  ただ政治舞台の周辺でも使われているし、「五十年史」にも著者は「北朝鮮」と同じような感覚で気軽に使っています。もちろん「北朝鮮」ということばが一番多く使われていますが、「蔑み」「犯罪性」「共産主義イデオロギーへの同調」から自由になって使用できる「やわらかな」ことばとして日本社会が積極的に受け入れ、みんなが安心して使い始めたと推測します。私は「北鮮」ということばを使ったことはありませんが、このことばから「北の大地」にも似た「やさしさ」を感じとれます。 
  やがてポスターのように字数の制限を受けないような場でも「北鮮」が使われ始めたあたりで、別の意味合いが一人歩きし始めたという感じがします。たとえば「北鮮帰還」です。「帰国事業」の終焉とともにこのことばも社会的に「死語」になったということでしょうか。
  つまり「北鮮」は社会的な良識が働いて死語になりつつあるときに、偶然復活し、関連はあるけれど別の意味を持ったことばとしてある期間生き、また死語になったという稀な経験をしています。ちょっとミステリーみたいですが、こう考えると納得できます。
  ただ先に紹介した事務職員の発言も復活したことばから得た可能性が大きいと考えると、悲しいものがあります。問題に「する側」と「される側」にずれがあるような気がします。 
  「新鮮族」ということばに関しては、日韓と中韓では共有している記憶が違うということで理解できます。戦前の「全鮮定期大会」を「全国定期大会」と言い換えては、当時のムードは伝わってきません。よってどうしても時代を振り返るときに「鮮」を使うことはあっても、これから略称としての「鮮」を単独に新たに使う場を想定することは私はできないのですが。「ポンセン」「麗初鮮末」は「日韓」「日米」と同じようにフェアな使い方です。
  最後に日本ではかつて「糾弾されたものでした」というようなことはあっても、もう過去のものになっていると信じています。
  若い頃、中国人留学生から中国語を日本人が輪になって学ぶ場に近いところにいたことがあります。雑談になったようです。年配の女性が「むかしシナは……」と語り始めて、別のちょっと若い女性が「失礼ですよ。今はシナっていいませんよ」と中国人留学生を気遣って話しを中断させました。みんなの前で指摘されたこともあってでしょうか、年配の女性は「わたしらのころはシナっていったんです」と納得しませんでした。ちょっとぎくしゃくした雰囲気になったことを思い出します。年配の女性は「シナ」ということばから別のことばへの切り替えをする機会がなかったというだけのことです。若い女性の発言をきっかけに、私のように「シナ」がどうして現在使えないことばかを考えた人は、輪の中にもいたと思います。

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