35年前も変わらない在日の状況 ― 2011/01/10
ちょっと古い本だが、本田靖春『私のなかの朝鮮人』(昭和49年10月 文芸春秋)という本のなかに、筆者がニューヨーク支局勤務時代の思い出として、アメリカに長く在住する在日2世研究者が、最近来米した在日2世の若い女性留学生に、韓国留学生のパーティ(ほとんどが本国から来た学生たち)に誘った時に語った話を記している。
>今晩、みんなにあなたを紹介することになると思うけど、あなたはソウル生まれだということにしておきますからね。知っている通り、ボクも、東京の生まれだけど、ここではソウル生まれということにしてあるんです。話を合わせるようにして下さい>
>だって、私、神戸の生まれですもの。どうしてソウル生まれにならなければいけないんですか>
>韓国は身分上の差別がきびしいところで、僑胞(在日)と分かると、ソサエティにいれてもらえないんです。戦争前に徴用とか徴発で強制的に日本に連れてこられたわれわれの親たちは、ほとんどが貧しい下層階級だというわけなんです。本国からここ(アメリカ)へきている人たちは、全部といっていいくらい、上流階級の出身ですからね。身分が違うんですよ>
著者は「日本の差別からのがれ、やっと朝鮮人として生きようと一歩を踏み出した彼女にとって、祖国の人々が築き上げたもう一つの差別に突き当たるとは、思いもしなかった衝撃だったのである」と記し、さらに彼女から次のような言葉を聞く。
>私‥‥家でも日本語だったから、韓国語もほんの片言なんです。ずいぶん言われたんです。‥‥"お前の韓国語はいったいなんだ。日本人みたいじゃないか。韓国人なら韓国人らしく、ちゃんとした言葉を話せ”とか‥‥。だいたい韓国人なんか何だっていうんですか。世界のイナカ者じゃありませんか。自分たちに都合のいいことだけしか知らされていない。‥‥私たちの方が、あの人たちよりずうっと進んだ教育を受けているし、世界のことだって、ずうっとよく知っている。バカにしてやりたいのは私たちの方です。‥‥私は日本で生まれて、日本の学校へいって、日本語しか話せず、日本の友達しかいないんですよ。韓国人とはつき合ったことがないし、韓国にだって一度もいったことはないんです。‥‥>(以上、126~130頁)
もう35年以上も前の本ですが、在日の状況は変わっていないなあ、と感じました。
(参考)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuudai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuichidai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai
1970~80年代の韓国民主化連帯闘争 ― 2011/01/16
1970~80年代、祖国に関心を持つ在日韓国人の若者たちが「韓国民主化闘争」を担っていました。金光敏さんという方は、この当時のことを次のように回想しています。
>1980年当時、韓国では長く続いた軍事独裁政権に対しての民主化闘争が光州を始め全国に広がり、その闘いの壮絶さは日本にも伝えられました。私達在日コリアンの学生は、祖国の統一を自己の解放と位置づけ、韓国民主化闘争を日本で支援し闘っていたのです。>(『こぺる』(2009年12月号 11頁)
ここで彼は自覚していたのかどうか分かりませんが、「祖国の統一を自己の解放と位置づけ、韓国民主化闘争を‥‥闘っていた」というのは、北朝鮮の「南朝鮮解放路線」に沿った考えです。
北朝鮮は、南に人民革命政権を樹立して祖国を統一しようとする明確な路線(;南朝鮮解放路線)を有していたのですが、人民革命政権樹立の第一歩が「韓国の民主化」だったのです。
確かに当時の朴政権や全政権などは、民主的とはとても言えるようなものではなかったし、軍事政権と言われても仕方のない面もありました。従って民主化運動は当然あるべきものだったのですが、これに北朝鮮が関わろうとしたところに、問題の複雑さがあります。
在日は朝鮮総連=北朝鮮と接触する機会が多いものです。何も関係ない人だと思ってお付き合いしてみたら総連の人だった、というような経験が少なくなかった時代です。そんな在日が韓国の民主化に関心を示すとしたら、当然北朝鮮の影を疑われるものでした。
本人は北とは何の関係もないと主観的に考えていても、また総連から指示されたことはないと言っても、その思想信条そのものが北に沿うものであった、ということです。そして総連も、そのような在日の簇性(雑草のように群がり生えること)を促進し、その中から見込みのあるものを包摂するべく活動していたということです。
1970~80年代はそういう時代だったのです。