在日コリアンと本国人との対立2011/11/20

 最近発行された『日本の論点2012』(文芸春秋)を購読。

 710~713頁に、梁石日さんの「南北の相克を乗り越える鍵は、在日文化のさらなる創造にある」と題する論文が掲載されています。

 私には疑問のある部分がありますが、それはともかく、在日の現状を記すなかで、本国人との断絶というか、対立があるところに興味が引かれました。

「(東京の)大久保通りと職安通りにいくつもある狭い通り‥‥韓国の飲食店が並び、休日もなると日本の若い女性が飲食にくるのである。飲食店のオーナーも韓国からやってきた者が多く、日本の若い女性たちは、いわば韓国のソウルあたりの飲食街を散策しているような気分になる‥‥二〇年ほど前から職安通りに面した場所で飲食店を営んでいた七〇歳くらいの女店主は、『‥そのころは店が数えるほどしかなかった。ところが今では、韓国からきた連中にみんな取られた』と嘆いていた。この女店主は、自分の経営している周辺は自分の縄張りと思っていたのに、その縄張りを韓国から来た、いわゆるニューカマーたちに土足で踏み込まれたと嘆いているのであった。」(711頁上段~下段)

「昔から暮らしている旧在日コリアンと、数年前から日本にきて生活しているニューカマーとの間には、ほとんど交流がない。」(711頁下段)

「旧在日コリアンはニューカマーを上からの目線で見ているところがあり、逆にニューカマーは旧在日コリアンを、母国語を知らない日本人化した人間として見ているところがある。」(712頁上段)

「在日コリアンが韓国に旅行した場合、韓国語が話せない在日コリアンに対して、韓国人なのに、なぜ韓国語ができないのか?と問われる。そこで在日コリアンは深く傷つき、そもそも在日コリアンとは何か、という歴史的な経緯に対してまったく無知な本国の韓国人に強く反発する。韓国が日本の植民地になったのは誰の責任なのか。その根源的な問いを不問にして、在日コリアンを母国語もろくに話せない非民族的な存在であるかのようにみなす言説は容認できないのが、在日コリアンの立場なのである。」(712頁上段)

「在日コリアンは、いわば歴史のはざまに産み落とされた子供のようなようなものである。その子供が親を求めて彷徨しているのだ。そのことについて本国や組織の人間はほとんど理解していない。(712~713頁)

   このように、梁さんの所論には在日コリアンと本国人との対立について、かなりの分量を割いています。

 在日が、自分たちは韓国人であると名乗るなら、本国の人から、だったら何故韓国語ができないの、という疑問は自然だと思うのですが、梁さんによれば、それは歴史を知らないトンデモナイ言説となるようです。

 梁さんの言う「歴史」を在日が知っていれば、民族の言葉を勉強しようとする熱意は大きくなるはずですが、梁さんによれば在日はどんどん韓国語を忘れていきます。民族にとって極めて重要な言葉がこんな状況ですから、標題にあるような「在日文化の創造」とは一体どういうものなのでしょうか。

 梁さんが論じる「在日文化」とは、国籍は韓国・朝鮮でありながら本国人とは断絶し、中身は全くの日本人が創る文化と言えるようです。彼らの自民族文化へのまなざしは、日本人が異民族文化である韓国文化を見る目と変わりなくなります。

 そして韓流ブームで韓国文化に関心を寄せる日本人が非常に多くなりましたが、こういった人に「在日文化」を宣伝しても、異文化ではなく、日本文化の一つとして捉えられることでしょう。

 本国からも日本からも違いを持った「在日文化」が果たして成立するのか、疑問とするところです。

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