『言葉のなかの日韓関係』(4)2013/04/13

 小倉さんは、韓国人が尹東柱の詩について 「(自分の解釈が)この『序詩』に対する大韓民国的な『正答』であると威圧的かつ声高に主張」 「『道徳的正答』という暴力的な概念をふりまわして、それ以外の解釈や思考を威圧したり排除したり」(19頁)すると指摘し、 「(尹東柱の)言葉を特定の政治的・道徳的立場に本質化して吸収することは、詩への冒瀆」(23頁)と厳しく批判しました。http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/11/6774088

 韓国人がそのように解釈するのは、「そもそも学校の国語の時間にそのように教えられているので、ほかの解釈は排除されてしまう」(19頁)からです。

 ところで韓国では詩というものに対して日本とは違う考え方を持っていることを、この『言葉のなかの日韓関係』のなかにある金貞禮「なぜ韓国人はハイクに魅かれるのか」という論文が論じています。金貞禮さんは日本の俳句と韓国の詩を比較して、次のように記しています。

(俳句が)ひたすら『今ここ』に咲いた花やさえずる鳥たち、向こうの山を越えていく雲を、それほどまでに繊細に描く詩歌が、この世にあることが驚きだった。‥‥‥何故、このように単純で、時代状況と無関係な詩歌が、これほどまでに多くの人々から愛されているのか。‥‥‥潜水艦に酸素が足りなければ、いちばん先に気づいて鳴くカナリア、その鳥の鳴き声が船の中の人々を目覚めさせるように、詩人とは時代の空気の中に酸素が足りないとき、その状況を詩によまなければならない。まさに詩人とはそうあるべきだと固く信じていた私にとって、俳句の中の花と木々はあまりにもなじみのないものであった。俳句は、イデオロギー志向的で、詩と詩人の社会的責任が強調される、韓国の詩の存在様相からは遥かに遠い対極点にあったのだ。」(183~184頁)

 韓国では、詩というのは「イデオロギー志向的で、詩と詩人の社会的責任が強調される」のです。これを読んで、ああ成程そうだったのかと思いました。韓国ではどんな文学作品であっても、すべからく社会的意味を持たなければならないような論調があり、私には花鳥風月あるいは人間の喜びや苦悩を描いた作品はそのまま素直に読めばいいものなのに、どうして社会的主張が込められているはずだとして読み込もうとするのか?と違和感を持つことが多かったのですが、そういうことだったのかと納得した次第。

 植民地時代(日帝強占期)の朝鮮人文学には優れたものも多いのですが、今の韓国では親日派=民族の裏切り者の作品として読んではならぬとタブー視されるのは、こういう事情があるからなんでしょうねえ。

 逆に尹東柱が韓国で高く評価されるのは、その詩が優れていることだけでなく、彼が第二次大戦中に日本の官憲に逮捕されて、日本の敗戦=朝鮮の解放前に若くして獄死し、解放後の民族対立に巻き込まれなかったという経歴からなのでしょう。この経歴のゆえに「民族抵抗の詩人」「悲劇の詩人」「純粋な抒情の詩人」「端正」「けがれのない」「清潔」「知的」というような、歯の浮くような賛辞が連なるわけですねえ。

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