『韓国・朝鮮史の系譜』(2)2013/05/04

 朝鮮史上で「三韓」といえば、1世紀から5世紀頃にかけて朝鮮半島南部にあった「馬韓」「弁韓」「辰韓」を指します。

 現在の大韓民国の国名である「韓」はここに由来します。だから、何十年前かに「韓国」か「朝鮮」かで北朝鮮と韓国が対立した時代、北が「韓というのは朝鮮半島南部だけを言うもので、朝鮮全体を表す名前ではない。これを使うということは、分断を固定化するものだ。」という理屈で、「韓国」の使用に反対したものでした。

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuurokudai

 当時は、これを正しいと思って信じていました。ところで『日本書紀』では、馬韓・弁韓・辰韓ではなく、高句麗・百済・新羅を「三韓」と表現しています。これは日本だけの勝手な呼び方とばかり思っていました。

 ところが数年前に高麗(10~14世紀)では、自国を「三韓」と呼んでいることを知り、我が無知を恥じました。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

 貨幣史の本を見ても、高麗は「三韓通宝」「三韓重宝」という銭貨を鋳造していることが分かります。

 ところで『韓国・朝鮮史の系譜』では、この「三韓」についてかなり詳しく論じられており、非常に参考になりました。

三韓とは「馬韓・辰韓・弁韓」を指すが‥‥‥本来「三韓」とは別個の存在であった高句麗は、朝鮮半島への南進を契機として百済・新羅と激しく対立したため、いつしかこの鼎立する「三国」を併せて「三韓」とも呼ぶようになった。‥‥‥高句麗の「三韓」への編入によって生み出された「三国」の歴史像‥(34頁)

前近代の中国・朝鮮・日本では、高句麗・百済・新羅の三国を「三韓」と呼ぶことの方が一般的であったことは覚えておいてよい (58頁)

この三国が新羅に統一されると、いわゆる「三韓」の領域は一つとなり、「三韓」の民は一つとなって、ここにはじめて「朝鮮民族(韓民族)」の基礎が確立した。(67頁)

統一新羅の末期には「後百済」の甄萱、「泰封(後高句麗)」の弓裔など、地方の豪族が割拠したが‥‥王建が「高麗」を建国し(918年)、新羅・後百済を併合して朝鮮半島を再統一した(936年)。この王建による「後三国」の統一のことを、史料では一般に「三韓の統一」と称しているのである。(69頁)

 これでやっと高麗が自国のことを「三韓」と称している訳が分かりました。高麗は、自分が高句麗・百済・新羅の三国を受け継ぐ国だという認識があって「三韓」と称していたのです。朝鮮半島南部だけに成立していた馬韓・弁韓・辰韓とは関係ないということですねえ。