『韓国・朝鮮史の系譜』(4) ― 2013/05/10
李氏朝鮮は1897年(明治30年)に中国の清朝から独立し、「大韓帝国」となります。これについて、『韓国・朝鮮史の系譜』は次のように論じます。
1897年、朝鮮王朝は「光武」の年号を制定し、その国号を「大韓」と改め、元首の称号を「大君主」から「皇帝」に格上げした。‥‥このときはじめて「皇帝」と称することで、中国清朝からの独立・自主を内外に誇示したのである。 皇帝号の採用に伴って、その国号は二字(朝鮮)から一字(韓)へと格上げされることになったが、このとき採択された「韓」――「大韓」の「大」は単なる修飾語――という国号には、古の「三韓」から連綿と続いてきた朝鮮民族(韓民族)の民族意識・領域意識が凝縮して込められているのである。(230頁)
国名が一字か二字かで国の格が違ってくるというのは、この本で初めて知りました。なるほど、中国の歴代王朝の国名は漢字一字であり、周辺の国々――中国から見て夷狄の国の国名は漢字二字ですねえ。この違いが国家の格差を意味するというのは、今まで気付きませんでした。「日本」という国名は、中国から見ればそれだけで格下の国となるようです。
ところで高句麗・百済・新羅の「三韓」意識を持つ朝鮮民族(韓民族)は、この古代三国の領域が自民族の領域であるという意識を持つことになります。ここで問題になるのは高句麗です。高句麗は朝鮮半島北部と現在の中国東北地区(満州地方)を支配していたのですから、満州は元々わが民族の領土だという考えになります。
中国と韓国の間では、いわゆる「高句麗論争」の火花が飛んでいます。『韓国・朝鮮史の系譜』では次のように説明しています。
中国吉林省の「延辺朝鮮族自治州」――かつての「間島省」の領域――に対して韓国・朝鮮に人々が抱いている伝統的な領土意識(潜在的な領有権の主張)は、近年、端なくも「高句麗論争」という形をとって世間の注目を集めることになった。‥‥‥(中国では)今日の中国は「漢族」および「五十五の少数民族」によって構成される「統一的な多民族国家」である。その中国の今日的な立場から見て、過去における高句麗人・渤海人などの周辺異民族の活動を広義の「中華民族」の歴史のなかに組み入れよとした‥‥(韓国では)高句麗・渤海の歴史を「中国史」に編入しようとする策謀の一環であるとして、とりわけ韓国の側から強い反発を惹き起こすことになった。(258~259頁)
高句麗史を我が韓国史の一部だと考えることは、高句麗の領地は我が領土であるという考えに繋がります。
1990年代でしたか、韓国のソウルに「満州は我が領土」という看板がハングルで掲げられていました。中国との国交樹立後、中国朝鮮族の人が多く訪韓することになります。彼らはハングルが読めますので、この看板を見てビックリ。外交問題になることを恐れた韓国はこの看板を下ろしたという話を聞いたことがあります。
また中国東北地区(満州地方)にある博物館には、「韓国人お断り」がかなりあったようです。韓国人たちがこの博物館を見学すると、ここは我が韓国の領土だということを大声で話すからです。中国朝鮮族は韓国語を理解できますので、彼らの話を聞いてビックリ。来館禁止にしたということでした。今もそうなのかどうかは分かりませんが。
『韓国・朝鮮史の系譜』はこの高句麗論争を次のように評しています。
高句麗・渤海の歴史をいかに位置付けるか‥‥歴史学の立場からいうと、高句麗は高句麗であって、それ以外の何物でもない。したがって、後世のナショナリズムに基づくいわゆる「高句麗論争」は、近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争といわざるを得ないのである。(260頁)
これは真っ当な評価です。高句麗は高句麗であって、中国でも朝鮮(韓国)でもない、とするのが歴史学では正解でしょう。
しかし当事者は熱くなっていますから、韓国のマスコミは中国の歴史に対して「妄言」「妄説」といった厳しい言葉を使っています。韓国は満州を我が領土とすることを本気で考えているのですかねえ。昔の歴史を語る時、自分の歴史観だけが正しく、他の立場から見た歴史観は「妄言」と見えてしまうような偏狭性は困ったものです。
【拙稿参照】 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/22/1812668 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/09/28/3787613