ハングルは「偉大な文字」か? ― 2013/05/24
ハングルは「偉大な文字」の意だという説がかなり広がり、定着しているかのようです。
ハングルは15世紀に「訓民正音」として制定・発布されたのですが、女子供が使う文字だということで「諺文(オンムン)」とも呼ばれてきました。これを「ハングル」と名付けたのは朝鮮の言語学者である周時経(1876~1914)と言われていますが、それを確認した人はいないようです。ハングルについて最新の研究成果を分かり易く解説した野間秀樹『ハングルの誕生』(平凡社新書 2010)においても、
現在広く用いられているこの<ハングル>という名称は、近代の先駆的な朝鮮語学者であった周時経(1876~1914)が名づけたものと言われる。(22頁)
ここで「‥と言われる」と書かれているように、確認されていないことを示しています。つまりこの方面の研究が進んでおらず、周時経の「ハングル」命名説は、根拠が不明確な情報と言わざるを得ない段階です。さらに野間さんは、続けて次のように記します。
「ハン」は「偉大なる」、「クル」は「文字」あるいは「文章」の意、「ハングル」は「偉大な文字」の意である。‥‥「ハン」を「大韓帝国」の「韓(ハン)」とする説も有力である。(22頁)
野間さんは、ハングルは「偉大な文字」だという説を断定的に書いていますが、その直後に「ハン」が「韓」であるという説も合わせて書いています。どうやらハングルは「偉大な文字」説と「韓の文字」説の二つがあって、野間さんは「偉大」説に傾いておられるようです。
今比較的世間に流布している説として、「韓」という漢字自体に「偉大」の意味があるのだというものがあります。従ってハングルは「韓の文字」であり、「偉大な文字」だというわけです。しかし「韓」に「偉大」の意味があるというのは、どの漢字辞典を見ても出てきません。
また「ハン(한)」は하나(一つ)の連体形で「一つの」という意味だから、そこから「唯一の」「二つとない」更には「神聖な」「偉大な」という意味になったという説もありました。私も一時それを信じたことがあったのですが、どうも納得できません。
最近になって矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(塙選書 2012)の184~185頁に、清朝の乾隆帝(在位1735~95)による次のような考察を見つけ、「韓」が「偉大」の意味になったのはこの皇帝の考えからではないかと思うようになりました。
「三韓」の命名については、ただ「辰韓・馬韓・弁韓」と列記するだけで、その語義を詳らかにしない。思うに、当時の三国には必ずや三人の「汗」があって、それぞれ一国を統治していたのであろう。[ところが]歴史家たちは「汗」が君長の称号であることを知らず、ついに同音の「韓」字を以て誤訳してしまったのである。(『欽定満州源流考』巻首、諭旨)
乾隆帝は、本来は王や酋長を意味する「汗」であったのが、「韓」という表記に間違って使われたものと推測しました。「汗」は、例えばモンゴル帝国の「チンギス汗」のように「偉い人」なのですから、「汗」それ自体に「偉大」という意味が含まれているのです。また「汗」と「韓」は、中国語でも朝鮮語でも「han(ハン)」で同音であることも間違いの一因と考えたのかも知れません。
「ハングル」とは「韓の文字」あり、「偉大な文字」の意味だとする俗説の淵源は、この辺りにあるように思えます。
乾隆帝の説はとても信じられるものではありませんが、中華帝国の皇帝が唱えたのですから、大きな影響があったと思われます。朝鮮人には、おそらく耳触りの良いものに聞こえたのではないかと想像します。
【追記】 北朝鮮では、ハングルは韓国の「韓の文字」という説を採用し、これは自分たち「朝鮮」の存在を否定するものだとして、「ハングル」ではなく「チョソングル(조선글―朝鮮の文字)」と呼んでいます。