「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す2013/09/10

 韓国の国史辞典では、「三韓」は馬韓・弁韓・辰韓とのみ説明されており、高句麗・百済・新羅の三国が「三韓」であったことには触れていません。また高麗が「三韓」を自称していたことにも触れていません。その理由はよく分かりませんが、『日本書紀』にある三韓関係記事(神功皇后の三韓征伐や、三韓からの朝貢など)を否定しようという意図があるのかも知れません。「三韓」に関する朝鮮側資料を集めてみました。

・扶余隆墓誌(永淳元年682年)  「気は三韓を蓋い、名は両貊に馳す」               (なおこれは唐に帰順した百済王族の墓誌である。従って中国側資料と言うべきものかもしれない。)

・『三国史記』新羅本紀 神文王12年(692)条   「一統三韓」

・『高麗史』太祖15年(891)5月条   「西京の地力に憑って三韓を平定し」

・『高麗史』睿宗18年(1122)の遺詔   「三韓を奄有すること十有八歳」

・高麗が発行した通貨  「三韓通宝」「三韓重宝」

・『朝鮮王朝実録』世祖3年(1457)3月条 「東国礼学文物の盛はただ渤海を称して、三韓はこれを与らず」

 以上は「三韓」が馬韓・弁韓・辰韓ではなく、高句麗・百済・新羅の三国を総合して言い表していることを示しています。高麗が自らを「三韓」と称するのは、高句麗・百済・新羅の三国を正当に継承したと自任しているのは明らかです。  また中国側資料にもありますので、中国史の概説書のなかで朝鮮半島に関わる部分で「三韓」が出てきます。例えば中公文庫『世界の歴史⑥ 隋唐帝国と古代朝鮮』(2008年3月)では、

・「三韓(朝鮮三国)と倭からの留学僧を指導し教授するために」(23頁)

・「平壌にみやこする高句麗は、三韓のなかで随一の大国であり、南の新羅と百済に圧迫をくわえていた」(208頁)

 また沖縄では「万国津梁の鐘」(1458年)の銘文のなかに

「鍾三韓之秀」(三韓の秀を鍾め)

という文言があります。年代からすると、高麗を引き継いだ李氏朝鮮になるでしょう。当時の沖縄は日本ではありませんでしたが、朝鮮とは交流がありました。その朝鮮を「三韓」と呼んでいたのです。

 朝鮮半島に成立した国家および民族を「三韓」と称することは、東アジアでは古代より共通していたと考えていいでしょう。

【拙稿参照】

「三韓」は朝鮮でも使っていた  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

『韓国・朝鮮史の系譜』(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932