鄭在貞教授が見る日韓歴史共同研究(1)2014/01/01

 鄭在貞さんは韓国の典型的な歴史学者として、日本でも割とよく知られた人です。彼の著した歴史書が日本語に訳されており、また古田博司さんや鄭大均さんなどが彼のことを取り上げてきました。彼をインタビューした記事が『週刊朝鮮』2283号(2013年11月25日)にありました。まずはどのような人物なのかから訳します。

鄭在貞(62)ソウル市立大学教授(国史学)‥‥2009年から2012年まで東北アジア歴史財団で2期理事長を勤めた鄭教授は共同歴史教科書に立ち塞がる難関が何かを誰よりもよく知っている人物。2001年と2007年に出帆した1、2期韓・日歴史共同研究委員会にすべて幹事として参加し、日本の歴史学者たちと韓・日の歴史の争点について討論し、共同報告書を出した経験がある。(『週刊朝鮮』2283号 34頁)

 日韓歴史共同研究委員会が作られた経緯について、鄭さんから見ると次のようになります。

「1993年の河野談話以後、7種類の日本の中学校教科書がすべて慰安婦問題を記述し始めるや、安倍など自民党の強硬右派議員たちが‘歴史教科書が間違って書かれている’と声を高めて、これによって‘新しい歴史教科書の集い’のようなものが作られ、歴史歪曲の波紋を引き起こした扶桑社教科書に続いたということです。2001年、扶桑社の教科書が検定を通過するや、1998年に日本を訪問して小渕恵三総理と韓日パートナーシップを宣言した金大中大統領は非常に当惑しました。東アジアの平和のために努力したことがノーベル平和賞を受賞した理由であったという状況から、金前大統領はどうやってでも日本との歴史葛藤を解決しようとして、そこで出てきたアイデアが韓・日歴史共同研究委員会です。」(36頁)

 鄭さんはかつての日韓歴史共同研究員会の韓国側幹事を務めた方で、日本の歴史教科書問題を韓国の意向に沿って解決しようという意図がありました。その時はそれがうまくいかなかったのは周知の通りですが、それでも最近韓国の朴大統領が日韓中の三国で共同歴史教科書作成しようと提案したことに対し、鄭さんは高く評価しました。

鄭教授は韓・日関係が最悪の局面の状態を迎えている状態で、朴大統領が共同歴史教科書のイシューを取り上げたこと自体は望ましいことだと評価した。朴大統領は去る11月14日に開かれた国立外交院設立50周年の記念国際学術会議の開会式の祝辞で「私は東北アジアの平和協力のために先ず域内の国家が東北アジアの未来に対する認識を共有せねばならないと考えます。」と、韓・中・日の共同歴史教科書発刊を提案した。これに対して日本も去る11月15日、下村博文文部科学相の記者会見を通して「大歓迎」という立場を明らかにした。(34頁)

 このように朴大統領の提案を高く評価する理由は、鄭さん自身が日韓共同研究の再開に向けて、この1年の間に日韓両国間で動いていたからと思われます。

去る5月と7月に日本を訪問し、外務省と総理府の核心関係者に会って、3期韓・日歴史共同研究委員会再開の可能性を打診して帰ってきた鄭教授は「日本の雰囲気が変わった」と強調した。「韓・日歴史共同研究委員会1、2期の活動に参加していた日本の学者たちは大体に‘共同研究をしてみて何をするのか?’という反応が多かったです。韓国の学者たちに会ってみたら‘ケンカばかりして疲れる’という言葉だったと日本政府側に話しましたよ。しかし昨年の秋から雰囲気が変わりました。韓・日関係が悪化しながら、特に歴史問題で韓・日関係が膠着状態に陥いるや、歴史問題がこのように両国関係の足の引っ張り合いをするようになるのかという懐疑が日本でも起き始めました。その結果、歴史共同研究を始めて、出口を探そうという意見が台頭した状態です。」(34頁)

 「昨年の秋」は2012年のことですから、李明博大統領が8月に竹島を直接訪問したり、天皇の謝罪を求める発言をしたりして日韓関係がかなり緊張した直後で、日本国民の韓国に対する感情が急速に悪化し始めた頃です。その時に鄭さんが「歴史問題がこのように両国関係の足の引っ張り合いをするようになるのかという懐疑が日本でも起き始めました。その結果、歴史共同研究を始めて、出口を探そうという意見が台頭した状態です」と言います。こういった「懐疑」「出口を探そうという意見」を鄭さんに話した日本側の人物は誰なんでしょうねえ。