古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(6)2014/04/01

韓国では、併合条約は強制されたもので、不義不当であり、ゆえに不法無効であると言いつづけている。 無効では勿論ないが、かりに無効だとすれば、かえって困ることになるのではないか。 下関条約以降、今日までずっと独立国だったということになる。 さすれば、当時の大韓帝国の主権であった王権は一体いつ消滅したのか。 民権にいつ移行したのか。 二十七代の王、純宗が1926年に逝去する。子の李垠は戦後まで王宮に帰らなかったので、純宗の死と共に王権は消滅したのである。 大韓民国が民権をもってスタートするのは、1948年の建国以降であるから、それまでの22年間、主権の空位が生じてしまう。(98頁)

 これに関しては私も4年ほど前に論じたことがあります。

大韓民国臨時政府樹立は、日韓併合合法が前提だった http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/06/13/5158377

 日韓併合条約が不法無効であるという主張では、大韓帝国皇帝が有していた主権は大日本国天皇に譲与されていないことになります。 だったら大韓帝国の主権は一体どうなったというのかについては、韓国の歴史学者は次のように主張します。

これは大韓帝国の滅亡について君主である隆熙皇帝が主権を放棄したものと見て、君主が放棄した主権は国民が継承せねばならないとした(韓シウン・檀国大学歴史学科教授)

 韓教授は、日韓併合条約で大韓帝国の純宗(隆熙皇帝)は主権を放棄したから、主権は国民が持つことになり、1919年に上海で成立した大韓民国臨時政府が主権者国民の意思を体現したとしているのです。 しかしこの主張では、日韓併合条約で大韓帝国皇帝が自らの主権を放棄したことを認めることになりますので、併合条約が完全に不法無効とはなりません。 もし条約を不法無効とするなら、大韓皇帝の主権は継続しており、従って朝鮮総督府はもちろんのこと、上海の大韓民国臨時政府は勝手に「政府」を名乗っているだけの正統性のない存在になるからです。 

 つまり韓国の研究者は日韓併合条約について不法で無効だと言いながら、その考えを貫徹するのではなく、別の場所ではこの条約の中にある皇帝主権放棄は有効だという矛盾した態度を示しているのです。

 これと同じような矛盾は、在日韓国・朝鮮人の歴史の記述にも出てきます。 1952年のサンフランシスコ条約によって日本が独立した時、在日韓国・朝鮮人が有していた日本国籍が「剥奪された」という主張が展開されています。 しかしこの「日本国籍剥奪論」は在日がかつて日本国籍を有していたことを認めるものです。 そしてこの日本国籍を有することになった根拠は日韓併合条約ですから、国籍剥奪論は日韓併合条約が合法的に成立したことを前提にした主張です。

 一方韓国では、日韓併合が不法無効であるから朝鮮人が日本国籍を取得したことはなく、ずっと朝鮮(あるいは韓国)国籍であったという主張になります。 つまり「併合条約不法論」では、朝鮮国籍を維持してきたので「日本国籍の剥奪」はあり得ないのです。

 「日本国籍剥奪論」を主張する在日は、本国の「併合条約不法無効論」との矛盾に気付いていないのでしょうか。 それとも知っていて頬かむりしているのでしょうか。 そこのあたりが分からないところです。

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(7)2014/04/05

車は西洋文化が流入するまではない。 木を曲げる技術がなかったからである。だから李朝には樽もない。 液体を遠方に運ぶことすらできなかった。(86頁)

曲げ物の技術がなく、車輪も樽もない。(93頁)

 樽は長方形の板をにカーブを持たせ、これを10~20枚くらい並べて箍(たが)を締めて作ります。 これは板を削ってカーブをつけることが多く、木を曲げて作る例は少ないようです。 日本では江戸時代以降に盛んに作られました。 酒樽、醤油樽、肥樽などに使われます。 しかし朝鮮史では樽は出てこず、液体を溜めるには陶器を使います。

 車も朝鮮史ではなかなか出てきません。 古田さんは木を曲げる技術がなかったから車が作れなかったといっておられるのですが、これがどうも理解できません。 おそらく誤解しておられるものと思われます。

 古田さんは「車輪」と書いていますので、車体ではありません。 車輪には「車軸(ハブ)」と外側に丸く一周する「輪(リム。輪木とも言います)」と車軸と輪を放射状に繋げる「輻(スポーク)」からなります。 日本では古代から貴族が乗った牛車があり、江戸時代以降は大八車がありますので、車の歴史は相当古いものです。 なお関西では大八車はなく‘ベカ車’で、車輪には輻(スポーク)がありません。 何枚かの板を並べて固定した円盤を作って車輪としました。

 しかしこの大八車やベカ車の製作に「木を曲げる技術」が必要だったのかのどうかというと、そんなことはありません。 大八車の「輪(輪木)」は五あるいは七枚(奇数)の細工した部材を組み合わせて作るのであってわざわざ木を曲げて作らないし、「輻」は真っ直ぐでなければなりません。 ベカ車も当然木を曲げることはありません。 つまり車輪の製作には木を曲げる技術は必要ないということです。

 次に古田さんは木を曲げる技術のことを「曲げ物」としておられます。 曲げ物は檜もしくは杉の木を数ミリの薄い板にして曲げるもので、日本では奈良時代から確認され、平安時代以降現在に至るまで盛んに作られた日用品です。 桶として使われ、絵巻物に多く描かれているので、形や使い方がすぐに分かるものです。 井戸枠にも使われましたので、遺跡の発掘調査でよく出土します。 曲げ物は方言では「わっぱ」「めんぱ」とも言います。

 このような曲げ物は車の製作とは関係ありません。 ここは古田さんの間違いと言わざるを得ません。 なお朝鮮では曲げ物はないのは確かなようです。 これは木を曲げる技術ではなく、おそらく薄い板を作る技術がなかったからと思われます。 なぜなら薄い板さえ作れれば、後は刻み目を入れて曲げるだけですから、そう難しくないからです。

 ところで今流行りの嫌韓雑誌記事のなかで、日本では江戸時代に大八車があって、まるで流通手段となっていたかのような発言がありました。 特に李朝には車がないことと対比して、我が日本の自慢として溜飲を下げるようです。

 実は、江戸時代に車(大八車やベカ車)はそれ程普及していません。 なぜならこれで橋を渡れなかったし、道には急坂や段が多くて通れなかったからです。 江戸時代の橋は木製ですから、非常に傷みやすいものです。 特に大八車のようなものが通ると、傷みが激しくなります。 だから奉行所は車で橋を渡ることを禁止しました。 また急坂や段のある道は、車で運送するには非常に不便です。

 橋を渡れず、急坂や段を越せない車は行動範囲が限られますので、流通の主役にはなり得ませんでした。 江戸時代の陸上輸送手段の主役は、やはり馬であり人でした。

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8)2014/04/09

李朝社会には村境もなければ、荘園台帳の一冊もない。 あるのは、流民の集まる粗放な同族中心の村と、所有権のない荒蕪地ばかりである。 当時は唯物史観が邪魔してそんなこともよく分からなかった。‥‥(九州大学の朝鮮史研究室で)ある日、李朝に荘園台帳がなぜないのか皆で議論になったことがある。 ある者は「戦火で焼かれてしまったのでは?」と答えた。 この人は今東大で朝鮮史を教えている。別の者が答えた。 「寒いのでオンドルにくべてしまったのではありませんか」。 この人も某大学で教授をしている。だが真相は荘園台帳自体がなかったのである。 なぜならば、古代社会だったからだ。(193~194頁)

 ここは古田さんのいう通りです。 朝鮮史と日本史を比べてみて特徴的なのは、荘園資料だけでなく、日本では小さな村でも庄屋さん(あるいは名主)の家に大切に保管されているような村方文書資料さえも朝鮮にはないということです。

 荘園資料や村方文書は、その荘園や村の行政に関する記録です。 例えば領有権や境界争い等のトラブルが生じたときは幕府の問注所や奉行所などで裁判することになるのですが、その時に関係資料を持っていなければ勝てる訳がありません。 また不当に年貢を取り立てられないために、年貢量の決定や年貢決済に関する記録資料も重要です。 だから各荘園や村では、自分たちの権利・義務に関係する資料を大切に保管してきたのです。 そしてこれが日本の歴史研究に貴重な史料となっています。

 ところが朝鮮の李朝時代は、このような自分たちの村を守ってきたという記録がないのです。 何故ないのかといえば必要なかったからです。 何故必要なかったのかといえば、自分たちの村を守るという考えがなかったからです。 李朝時代に守るべきものは自分たちの宗族(男系血縁共同体)であって、村という地縁共同体ではなかったからです。 李朝時代の村は宗族の単なる集まりにしか過ぎません。 宗族(血縁共同体)を越えて村(地縁共同体)で団結することはあり得ない社会だったのです。 つまり村単位で自分らを守るという発想が元々なかったのです。

 だから道や水路が壊れたから村を挙げて修理しようなんてことは、李朝時代にはありませんでした。 農民は自分の耕す田んぼだけに水が引ければいいだけ、或いは自分が使う道があればいいだけですから、その部分だけを自分で修理します。 また村の人がみんなで参加する祭礼(日本では秋祭りや盆踊りなど)も、李朝時代にはありませんでした。 祭りというのは各宗族がやる祭祀だけです。

 そして宗族だけが重要でしたから、これに関する記録は残ることになります。 先祖を顕彰し血統を証明する「族譜」、財産を子供たちにどのように相続させるかという「分財記」などがそれです。 このように中世朝鮮の地方史には官公文書を除くと、日本のような村方文書がなく宗族文書だけがあるという状態なのです。

 日本では中世の「荘園」の成立以来、江戸時代には「村」となって現在に至るまで地縁共同体が続きました。 村(地縁共同体)は複数の家(血縁共同体)で構成されます。 村人は自分たちの村を守るために、つまり村の団結のために必死の努力をします。 だから壊れた道や水路は村人みんなが参加して修理するのです。 隣村との境界争い・水争いなどのトラブルや年貢納入決済などには、村人たちは団結して対処します。 村全体の繁栄が自分の家の繁栄に繋がることを分かっているから、村の権利を守るために必死の努力をするのです。

 ここで最初に引用した古田さんの文を見てください。 李朝時代に荘園台帳がなかったのは、地縁共同体が成立していなかったから荘園台帳を作成する必要がなかった、ということです。 また村境がないのも、地縁共同体としての範囲を定める必要がなかったからです。 男系血縁共同体である宗族のみが重要な李朝社会では地域全体の利益を考えることはなかったのですから、地域の記録・文書を作成すること自体がなかったのです。

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9)2014/04/14

 日本と朝鮮の中世社会の比較について、封建制に絞って簡単に分かり易く概説します。 ちょっと極端にモデル化していますので実際とは違う部分がありますが、大まかなイメージをつかむにはいいと思います。

 日本の封建領主は、江戸時代では各「藩」の「大名」と言っていいでしょう。 大名は、自分の領民が豊かになれば年貢が増えて我が藩の財政も豊かになることを学びました。 だから領民が豊かになって年貢をきちんと納めることが出来るように、各村へ水を配給するための水路の整備や川の堤防建設など、いわゆるインフラ構築事業をしました。 また藍や塩などの地方特産物の生産奨励もしたりしました。

 領国経営といって、小さいながらもいわゆる殖産興業政策を実施していたのです。 藩が繁栄するということは、領民の経済活動が活発で生活も豊かだということです。 ですから大名と領民は共に生きる存在となります。つまり地域社会が生まれたのです。

 しかし朝鮮の李朝時代には、このような封建領主や地域社会がありませんでした。 中央(朝廷)から牧使や郡守が任命されて各地方に派遣されるのですが、両班(貴族階級に相当する)がこの職に就くためにはかなりの費用(賄賂と同じ)が必要です。

 そして一旦牧使や郡守になると、この費用を取り返すために、そして更には自分を頼ってくる親戚連中のために、赴任先で領民から租税をたくさん取り立てねばなりません。 任期は数年ぐらいです。 その間に出来る限り稼いで蓄財せねばなりませんから、領民に対して苛斂誅求することになります。 日本の大名のように殖産政策を施したら租税が増えて自分も得するというような発想はなかったのです。

 領民も心得たもので、自分が豊かになっても租税として取り上げられるだけですから、最初から必要最小限の生産だけにしてしまって、より豊かになろうとする工夫・努力を放棄します。 つまり苛斂誅求されても、もうこれ以上取られるものがないという生活スタイルをするわけです。 李朝時代の農村社会はこのようなイメージをしても差し支えありません。

 李朝時代はこのように地縁共同体が成立せず、また封建領主もいませんでした。 ということは中世=封建社会にも至らなかった時代という意味で、「古代社会」と言って間違いありません。 古田さんは次のように記しています。

明治時代に朝鮮を調査した経済史学者の福田徳三は、マルクスの影響を受けていなかったので、李朝末期の朝鮮を見て「まるで平安の藤原時代のようだ」と言った。極めて正しい判断だったのだが、戦後のマルクス主義者の朝鮮研究者は、それは差別だ、偏見だと排撃し続けたのだった。     私は若い頃から彼らとは接触せずに朝鮮史研究を始めたのだが、研究すればするほど福田徳三の見解に近づいていく(190頁)

 李朝社会が古代社会であったとする古田さんの説は正解です。 なお古代社会といってもギリシア・ローマ時代の奴隷制ではなく、そのより以前の段階である「アジア的」古代社会です。 封建制どころか奴隷制にも達していなかったのです。これについては、後日説明します。

 ついでに、拙稿では現在の北朝鮮が「アジア的古代社会」であると論じました。15年前の論考ですが、今でも正しいと思っています。

 「現代に残る古代国家」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachidai

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(10)2014/04/20

 古田博司さんはマルクスの歴史観を次のように説明します。

マルクス唯物史観のシェーマ(図式)など独断論なのだが、長い間多くの学者たちに信じられてきた。 世界中が、同じ経済発展の図式を踏むという、実に荒唐無稽な学説だった。     いわく、古代オリエントのような総体的奴隷制から、ギリシア・ローマのような奴隷制へと進み、その経済制度が内部の生産力によって突き崩され、ヨーロッパのごとき封建制に移行し、さらにその僻地のイングランドで資本制が芽生え、それが世界中に広がり、搾取の体系からやがてプロレタリアートが立ち上がり、ブルジョア階級を倒して社会主義を作り上げる、といったものだった。     なんでこんなものを信じたのか。だが、かつて信じていた証拠として、今でも世界史教科書の配列順は古代オリエント、ギリシア・ローマ、ヨーロッパの諸王国、資本主義の順になっているではないか。13世紀にクスコ王国が出現し、15世紀から16世紀にかけて古代インカ帝国がペルーで栄えたが、これは一体どこに入るのか。入りようがない。(189頁)

 これは古田さんが大いに誤解しているところです。 マルクスの歴史観はヘーゲルを受け継いでいるのですが、マルクスもヘーゲルも「世界中が同じ経済発展の図式を踏む」とは言っていません。 マルクスやヘーゲルが説いたのは「歴史発展段階説」で、当時の資本主義社会をそれまでの全人類史の最高到達点として、原始時代からそれに至るまでの段階を設定したものであって、時間的経過とは関係ないものです。 だから各民族・各国家が奴隷制→封建制→資本制という順番で歴史が進むという考えではありません。 「段階」という言葉が誤解を生むなら、「ランク」といった方がいいかも知れません。

 例えば文字のある社会と文字のない社会とでは、どちらをランクが上と考えるか。 あるいは貨幣のない国と貨幣が通用する国とでは、ランクが高いのはどちらか。 法律・経済・福祉・科学等々社会全般においてこのように比較していけば、その社会のランクの高低が自然と現れるものです。

 人類の誕生から現在に至るまで、別に言えば原始時代を最初のランク、そして資本制を最後に到達したランクとして、これまで人間が体験してきた社会にランク付けを行なったのがヘーゲルやマルクスの「歴史発展段階説」です。 従って各国・各民族がこの段階を、時間の順序を追って経験するというものではないのです。

 つまり奴隷制のギリシア・ローマがその後封建制になったとは言えないし、資本制のイングランドがその以前に奴隷制や封建制を経てきたとも言えないのです。 マルクスの唯物史観は、人類史上に出現した社会を奴隷制・封建制・資本制の三つにランク分けすれば、奴隷制は古代ギリシア・ローマ、封建制は西ヨーロッパ、資本制はイングランドが典型的であったという歴史観です。

 「古代オリエント」とはギリシア・ローマの奴隷制よりも低い段階で、マルクスが生きていた当時の中国やインド等に見られた社会を指します。 「アジア的」と言うこともあります。さらにこのアジア的より低い段階は原始社会となります。

 吉本隆明は、サルから人間になった最初の段階である「原始的」と中国・インドのような「アジア的」との間に、もう一つ「アフリカ的」段階を入れたらどうかと提起したことがあります。 確かに原始社会と中華・インダス文明との間には大きな隔絶がありますから、そのような段階を設定した方がいいかも知れません。 とすれば人類史は、原始的・アフリカ的・アジア的・奴隷制・封建制・資本制の六段階となります。

 古田さんは、インカ帝国はどの段階に相当するのかと問うておられます。 「原始的」よりは高い段階であるのは確かですが、貨幣がなく奴隷売買がなかったようですから「奴隷制」よりも低い段階と言えます。とすると「アジア的」なのか、或いはそれより低い「アフリカ的」なのか。 それとも思い切って「インカ的」なるものを新たに設定した方がいいのか、という話になります。 なお一方では古田さんは李朝とインカ帝国とが同一段階だったと説きます。

李朝は、いわば世界が中世期の頃に、古代国家として発生したインカ帝国に近い存在として特筆される。(93頁)

朝鮮中世経済史で有名な横浜国立大学の須川英徳教授‥‥その須川氏に、長い間秘めていた直感を恐る恐る聞いてみたのである。 「あの、ちょっと怒らないで聞いてほしいのだけれど、李朝ってインカ帝国に似ていないかな?」  須川教授は怒ることも、躊躇することもなかった。  「うん、実は僕もそう思う」と、即答だった。(196頁)

 古田さんは一方ではインカ帝国はどの段階にも入りようがないと言いながらも、他方ではアジア的段階に入るとしていますので、矛盾していると考えられます。

 ちなみに日本の江戸時代は、各藩の大名を封建領主と言っていいものだし、蘭学や和算学など近代社会を準備するだけの学問が発達していましたから、西欧の中世=封建制に相当すると考えられます。 日本はギリシア・ローマのような奴隷制を経ることなく、近代=資本制の直前段階である中世=封建制に到達していたと言えます。 このように既にその段階になっていたのですから、明治時代になって近代社会にスムーズに移行できたのです。

 逆に中国や朝鮮は封建制に至らず、はるかそれ以前のアジア的段階にとどまったまま、いきなり資本制に巻き込まれたのですから、近代社会への移行がスムーズにいかなかったのです。

【拙稿参照――15年前の論考です】

「歴史の発展段階説」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigodai

(続)「歴史の発展段階説」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokudai

「階級闘争」考    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanadai

「古代国家論」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainidai

忍び返し2014/04/26

 お城の石垣について、古田博司さんが「忍び返し」を誤用していることを論じました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/19/7248342

 最近出た『歴史通』(WAC)2014年5月号で、黒鉄ヒロシさんが書いた「(ッたく}イガンヂルよ、あの国は」のなかに、この誤用をそのまま受け継いでいることを知りました。

忍び返しの石垣     朝鮮の城は石垣がまっすぐなんですが、忍び返しというカーブを描いた日本風の城を、秀吉軍はつくっていますね。 そんなひまあったら、どんどん進軍していけばいいのにと思っていたんです。 そこに李朝でひどい目にあっている朝鮮農民が集まってきてしまったというんです。 いかに日本に余裕があったかの証左です。 もっとも例によって韓国は、忍び返しの石垣は朝鮮にもあったから、それは朝鮮軍の城だと言い張っているようですが(笑)

 先に論じましたように、日本の城の石垣には「忍び返し」はありません。 もしあるとしたら、石垣の上に建てられた櫓か土塀をちょっと石垣の外にはみ出させて、槍先のような刃物を下に向けて多数並べるものです。 これなら石垣をよじ登る敵は、この「忍び返し」が邪魔となって更に上に行くことが出来ません。

 しかしこういった「忍び返し」は石垣ではなく、櫓や土塀に付属するものです。 今韓国にある倭城(日本風のお城)は、建築物はすべて破却されて石垣だけが残っている状態ですから、「忍び返し」があるわけがありません。 豊臣軍が朝鮮で「忍び返し」付きの城を築いたかどうかは実際の資料がなく、不明と言わざるを得ないのです。

 黒鉄さんは「忍び返しというカーブを描いた日本風の城」 「忍び返しの石垣」と書いていますから、古田さんの誤用をそのまま受け継いだようです。 垂直ではなく、末広がりになっている日本の城の石垣は登りやすく、敵侵入には脆弱です。 だからよじ登ってくる敵を撃退する装置が別に必要になります。 一つは「石落とし」であり、もう一つは下に向けて刃物を並べた「忍び返し」です。

 日本の城の石垣はその城を長く維持するためのものであって、実戦的なものではありません。