古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8)2014/04/09

李朝社会には村境もなければ、荘園台帳の一冊もない。 あるのは、流民の集まる粗放な同族中心の村と、所有権のない荒蕪地ばかりである。 当時は唯物史観が邪魔してそんなこともよく分からなかった。‥‥(九州大学の朝鮮史研究室で)ある日、李朝に荘園台帳がなぜないのか皆で議論になったことがある。 ある者は「戦火で焼かれてしまったのでは?」と答えた。 この人は今東大で朝鮮史を教えている。別の者が答えた。 「寒いのでオンドルにくべてしまったのではありませんか」。 この人も某大学で教授をしている。だが真相は荘園台帳自体がなかったのである。 なぜならば、古代社会だったからだ。(193~194頁)

 ここは古田さんのいう通りです。 朝鮮史と日本史を比べてみて特徴的なのは、荘園資料だけでなく、日本では小さな村でも庄屋さん(あるいは名主)の家に大切に保管されているような村方文書資料さえも朝鮮にはないということです。

 荘園資料や村方文書は、その荘園や村の行政に関する記録です。 例えば領有権や境界争い等のトラブルが生じたときは幕府の問注所や奉行所などで裁判することになるのですが、その時に関係資料を持っていなければ勝てる訳がありません。 また不当に年貢を取り立てられないために、年貢量の決定や年貢決済に関する記録資料も重要です。 だから各荘園や村では、自分たちの権利・義務に関係する資料を大切に保管してきたのです。 そしてこれが日本の歴史研究に貴重な史料となっています。

 ところが朝鮮の李朝時代は、このような自分たちの村を守ってきたという記録がないのです。 何故ないのかといえば必要なかったからです。 何故必要なかったのかといえば、自分たちの村を守るという考えがなかったからです。 李朝時代に守るべきものは自分たちの宗族(男系血縁共同体)であって、村という地縁共同体ではなかったからです。 李朝時代の村は宗族の単なる集まりにしか過ぎません。 宗族(血縁共同体)を越えて村(地縁共同体)で団結することはあり得ない社会だったのです。 つまり村単位で自分らを守るという発想が元々なかったのです。

 だから道や水路が壊れたから村を挙げて修理しようなんてことは、李朝時代にはありませんでした。 農民は自分の耕す田んぼだけに水が引ければいいだけ、或いは自分が使う道があればいいだけですから、その部分だけを自分で修理します。 また村の人がみんなで参加する祭礼(日本では秋祭りや盆踊りなど)も、李朝時代にはありませんでした。 祭りというのは各宗族がやる祭祀だけです。

 そして宗族だけが重要でしたから、これに関する記録は残ることになります。 先祖を顕彰し血統を証明する「族譜」、財産を子供たちにどのように相続させるかという「分財記」などがそれです。 このように中世朝鮮の地方史には官公文書を除くと、日本のような村方文書がなく宗族文書だけがあるという状態なのです。

 日本では中世の「荘園」の成立以来、江戸時代には「村」となって現在に至るまで地縁共同体が続きました。 村(地縁共同体)は複数の家(血縁共同体)で構成されます。 村人は自分たちの村を守るために、つまり村の団結のために必死の努力をします。 だから壊れた道や水路は村人みんなが参加して修理するのです。 隣村との境界争い・水争いなどのトラブルや年貢納入決済などには、村人たちは団結して対処します。 村全体の繁栄が自分の家の繁栄に繋がることを分かっているから、村の権利を守るために必死の努力をするのです。

 ここで最初に引用した古田さんの文を見てください。 李朝時代に荘園台帳がなかったのは、地縁共同体が成立していなかったから荘園台帳を作成する必要がなかった、ということです。 また村境がないのも、地縁共同体としての範囲を定める必要がなかったからです。 男系血縁共同体である宗族のみが重要な李朝社会では地域全体の利益を考えることはなかったのですから、地域の記録・文書を作成すること自体がなかったのです。