「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文2015/06/22

 東アジア古代史において「三韓」の用語例として、これまで中国の『後漢書』などの歴史書、朝鮮の『三国史記』や『三国遺事』、日本の『日本書紀』を調べてきました。 古代史資料としては、これらの歴史書だけでなく石碑などの金石文があります。 古代金石文資料のなかにも「三韓」が出てきますので集めてみました。 まずは朝鮮半島の金石文です。

〈1〉 大唐平百済国碑銘

 百済の首都があった忠清南道扶余市の定林寺跡にある五層石塔に刻まれている碑文です。 中国唐の蘇定方将軍が顕慶五年(660)に百済を平定したことを記念してこの石塔の第一段の側面に刻んだものです。 この碑文に「三韓」が出てきます。 原文と私なりの現代語訳を提示します。

〈1〉(原文)逆命者則粛之秋霜帰順者則涵之以春露一挙而平九種再捷而定三韓 云々      (現代語訳)命令に逆らう者は秋霜のような厳しさで粛清し、帰順する者は春露のような恩沢で包容してやり、一旦挙兵すれば九種(東夷の九つの種族)を平定し、再度戦争に勝って三韓を平定し 云々

 唐は新羅と連合して660年に百済を滅ぼしますが、その時はまだ高句麗が存在していました。 従って蘇定方が平定したのは百済だけですが、これを「三韓を平定し」としています。 これは「三韓」が百済・高句麗・新羅を含む朝鮮全体を指称するもので、碑文ではこの三韓の領域の一部である百済を平定したという意味になります。

 同様の例が中国側資料の⑤『隋書』列伝(既出)にあります。 ここでは百済ではなく高句麗ですが、唐が高句麗を攻撃したことを「三韓の地域を践み躙り(ふみにじり)」と表現しているのです。 朝鮮全体が「三韓」であって、『隋書』の記述はこの三韓の領域の一部である高句麗を攻撃したという意味なのです。

〈2〉 清州雲泉洞新羅事跡碑

 これは1982年に忠清北道清州で発見された半欠の石碑です。 共同井戸で洗濯台として使われてきたのですが、文字が刻まれていて、新羅統一に関する石碑であることが判明しました。石碑の下半部ののみの発見ですから全体の意味は分かりませんが、残存部分には次のような文字があります。

〈2〉(原文)合三韓而広地 云々      (現代語訳) 三韓を合わせて領地を広げ 云々

   この石碑には「寿拱二年歳次丙戌」という年号が刻まれています。 これは垂拱2年(686)年のことと考えられますから、新羅統一の直後です。 従って碑文の「三韓を合わせて」は、新羅が百済・高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一したということです。 別に言えば、「三韓」の領域を新羅が一つにまとめたという意味になります。 ここでも「三韓」は百済・高句麗・新羅の区別を越えて一体視しようとしています。

 少なくとも、7世紀後半の新羅統一時期には、「三韓」が馬韓・辰韓・弁韓を意味するものではなく、朝鮮全体の領域を意味しているのは明らかです。 従って『三国史記』新羅本紀に記載のある「一統三韓」(拙論の[1]資料)も同様の意味であることを考えれば、7世紀の時代には「三韓」は朝鮮半島南部ではなく朝鮮全体であるという認識は、東アジアに広く定着していたことが分かります。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「三韓」の用例(3)―日本古代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200