「三韓」の用例(5)―中国古代金石文 ― 2015/06/26
唐・新羅が百済を滅ぼした時に、百済人が多く唐に渡りました。 そのなかには唐朝に出仕してそれなりの地位に就いた人も現れました。 彼らは「唐代百済人」というような呼び方をされます。この唐代百済人の墓誌に「三韓」が出てきます。
〔1〕扶余隆墓誌(永淳元年〈682年〉)
気蓋三韓名馳両貊 (現代語訳) その意気は三韓を覆い、名は両貊を駆けるほどだ。
扶余隆は百済最後の王である義慈王の太子。 ここでの「三韓」は朝鮮全体を意味しています。
〔2〕難現慶墓誌(開元二十二年〈734年〉)
気蓋千古誉重三韓 (現代語訳) その意気は千年もの年月を覆い尽くし、名誉は三韓を重ねるほどだ。
これも「三韓」は朝鮮全体を意味しています。
〔3〕祢軍墓誌(儀鳳三年〈678年〉)
汗馬雄武擅後異於三韓 (現代語訳)名馬は雄雄しく、後に三韓で異才をとどろかせた。
この祢軍墓誌は「日本」が初めて出てくる史料として有名です。ここでも「三韓」は朝鮮全体です。
以上の中国出土の唐代百済人の墓誌に出てくる「三韓」は馬韓・辰韓・弁韓でもなく、また百済・高句麗・新羅でもなく、「三韓」という言葉自体で朝鮮全体の領域を示しています。 つまり三つに分裂した姿ではなく、一体視された姿です。 墓主は、自分が百済人であったと同時に「三韓」の人間だという意識を有していたのでないかと思われます。
「三韓」の用例(1)―中国古代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404
「三韓」の用例(2)―朝鮮古代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715
「三韓」の用例(3)―日本古代 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200
「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/22/7678138