「朝鮮」は韓国ナショナリズムを封鎖する??2015/10/02

 日本は1910年に大韓帝国を併合して植民地としました。この日韓併合時に日本は「ナショナリズムの高揚を封鎖する」ために「朝鮮」という旧称をつけたという論文が発表されているのを知りました。 小川原宏幸『伊藤博文の韓国併合構想と朝鮮社会―王権論の相克』(岩波書店 2010年1月)で、その「第五章 韓国併合」の「第二節 韓国併合の断行」の「第二項 国称および王称をめぐる交渉」で、次のように論じています。

なぜ日本は、朝鮮と改称することにしたのであろうか。 1910年6月から7月にかけて開催された併合準備委員会では、併合後の呼称について「南海道」や「高麗」とするといった案が出た。 小松緑によれば「韓国を併合して帝国の一部とする以上、その名称を南海道とするがいゝといふ説もでたが、台湾の旧称を存した例によつて朝鮮とすることに極まつた」という。 台湾の整合性において「旧称を存し」て朝鮮に決定されたとする回想である。しかし台湾との整合性で「旧称」を用いるというのであれば、「韓国」という「旧称」を排する必然性には疑問が残るであろう。(408頁)

一方、「高麗」を主張したのは逓信大臣兼拓殖局副総裁であった後藤新平であった。 後藤は「韓人の歴史的心理を顧念して高麗と称するの議を出したが、桂、寺内の賛同を得ず、議は遂にこれを「朝鮮」と為すに決した」という。 「韓人の歴史的心理」への配慮から、旧称である「高麗」を選択するというのであるから、逆に言えば、「朝鮮」という呼称は、朝鮮人の「歴史的心理」を蹂躙しようとする意図にもとづいて選択されたことになるであろう。(408~409頁)

朝鮮という呼称を強く主張したのは寺内(正毅)であったと考えられる。‥‥では、なぜ寺内は朝鮮という呼称を用いたのであろうか。‥‥まず、右で述べたように、朝鮮人の「歴史的心理」を積極的に否定する必要があったという点である。‥‥かつての中国との宗属関係のような形態に逆戻りさせる呼称だという‥点にこそ日本政府の意図があった‥‥(韓国の)自主性の積極的否定は、「大韓ナショナリズム」を否定し、「支那の属国の様な状態に陥った時に、支那人の用ひた名」としての「朝鮮」を用いさせることで、かつての従属性を呼び起こさせ、併合後の朝鮮に劣位を植えつけようとしたものだった(409~410頁)

 なお本稿の題名は、この論文の最後にある「併合後の国号に『朝鮮』が選ばれたのは、『韓国』という呼称にもとづくナショナリズムの高揚を封鎖する」(413頁)にから取っています。 「ナショナリズムの封鎖」という表現は、ちょっと聞き慣れないというか新鮮に感じました。    このように小川原さんは「朝鮮」という国号には「従属性」があり、もう一方の「韓国」という国号には「自主性」がある、だから日本は植民地化する時にナショナリズムを封鎖するために敢えて従属性を有する前者の「朝鮮」を採用した、と論じています。

 これにはビックリ。 なぜなら戦後の在日朝鮮人社会では、「朝鮮籍」か「韓国籍」かで凄まじいまでの争いがあったことを知っているからです。 「朝鮮籍」を主張する人は朝鮮総連系になりますが、「朝鮮」こそが民族の自主的統一を表すものであって、「韓国」は祖国統一を妨害する対米従属の名称だと言っていました。 

 このように「朝鮮」には自主性があり、「韓国」には従属性があるというのが朝鮮総連系の認識です。 今回取り上げている小川原さんの見解とは時代こそ違っていますが、全く正反対です。小川原さんは専門家ですから、朝鮮総連のこのような認識を知った上で敢えて発言されたと思われます。

 ところで「朝鮮」は従属であり、「韓国」は自主であるとする小川原さんの考え方ですが、どうも理解できません。 「朝鮮」には中国人が建国した箕子朝鮮や衛氏朝鮮、そして14世紀以降の李氏朝鮮王朝のように中国に服属してきた歴史もありますが、一方では民族5000年の歴史の祖である檀君が「朝鮮」を建国したという輝かしい説話が連綿として語り続けられてきたからです。

 つまり「朝鮮」は中国に服属した時期もあるにはありましたが、一方では国内でその中国王朝成立よりもはるかに古い時代に檀君が「朝鮮」を建国したんだという説話によって我が「朝鮮」は自立していたとナショナリズムを鼓舞してきたのです。 この檀君神話は朝鮮民族において13世紀以降現在に至るまで根強く広まっており、果たして「朝鮮」は従属だと言えるのかどうか、という疑問なのです。

 朝鮮の民族史において、中国人が建国し中国に服属した箕子「朝鮮」と、中国よりも古い5000年前に檀君が建国したという「朝鮮」との相矛盾した二つの「朝鮮」がありました。 もし「朝鮮」が後者の檀君を想起させれば、ナショナリズムを刺激します。 そしてここに解放後北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が「朝鮮」という国号に強くこだわった理由があります。

 日本は1910年の日韓併合に当たり、「朝鮮」には従属の意味があるからこそこれを植民地の名前にした、という小川原さんの説は疑問です。

【拙稿参照】

「朝鮮」という国号  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/21/7802232

韓国中央日報のビックリ古代史記事2015/10/06

 最近の韓国の中央日報に、古代史に関して下記のような記事がありました。参考までに全文を紹介します。     http://japanese.joins.com/article/506/206506.html?servcode=200&sectcode=200&cloc=jp|main|ranking

「韓半島に漢四郡」歪曲された古代史資料を米議会に送る=韓国        2015年10月05日07時59分        [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

政府が中国の東北工程を認める内容をが入った資料や地図を2012年に米国議会に送ったと、セヌリ党の李相逸(イ・サンイル)議員が4日明らかにした。       李議員が教育部傘下の東北アジア歴史財団などから提出を受けた資料によると、外交部の依頼を受けた財団は2012年8月、米議会調査局(CRS)に「韓中境界の歴史的変化に対する韓国の見解」という検討資料を提出した。         しかし資料には東北工程(中国国境内で展開した歴史を自国史に編入しようとするプロジェクト)を認める内容が多数含まれていたと、李議員は伝えた。東北アジア歴史財団は周辺国の歴史歪曲に対応するために作った機構だが、むしろ国内の学界の視点とは異なる部分が含まれていたというのが、李議員の指摘だ。             当時、米上院外交委員会は北朝鮮の急変状況における中国の介入の可能性などを分析するための報告書を作成する過程で韓国の歴史的立場を提出してほしいと要請した。これに対し、当時の鄭在貞(チョン・ジェジョン)東北アジア歴史財団理事長が訪米し、CRSの関係者に会って韓国の立場が入った資料を伝えた。           しかし資料と地図のあちこちに問題点があった。李議員によると、まず古朝鮮の領土を示す地図が現在の遼寧省の一部に境界を限定した。実際、古朝鮮の領土はこれよりはるかに北東側の南満洲一帯および吉林省と黒龍江省、沿海州まで含んだ。また古朝鮮の建国年度は紀元前2333年だが、これに関する説明なく地図には「紀元前3世紀ごろの古朝鮮領土」とのみ書かれていた。           紀元前108年に中国漢武帝が設置したという漢四郡(真番・楽浪・臨屯・玄菟)が過去に韓半島(朝鮮半島)の一部の地域を統治したというのが、東北工程と日帝植民史学の核心的な主張だが、これを認めるような地図も送った。紀元前3世紀と196年に黄海道(ファンヘド)付近に真番郡があったかのように表示した。紀元前108年の地図では漢四郡を韓半島北部地域に表示した。           紀元前37年に建国された高句麗を紀元前196年の地図に登場させ、高句麗の国名の隣に「高句麗県」という漢の地域名を表記したりもした。このほか西暦676年の地図に新羅と唐の領域を表記し、独島(ドクト、日本名・竹島)はなかった。           仁荷大のボク・ギデ教授(融合考古学)教授は「地図に基づくと、高麗の首都の開城(ケソン)に楽浪があったということだが、そのような史料や学説に接したことはない」とし「漢四郡が韓半島にあったという話は、日帝時代に植民史学者が『韓国は他国の属国』としてねつ造した事実」と指摘した。          しかし米議会はこれを「韓国政府の立場」としてそのまま添付し、2012年12月に「韓半島統一に対する中国の影響力と上院の課題」と題した報告書を出した。            李議員は「米議会の報告書は米国の政策に直接影響を及ぼす重要な資料だが、こうした資料として我々の歴史を歪曲する地図を財団と政府が送ったことは国益を傷つける行動」とし「誤っている部分を早期に修正する措置を取らなければいけない」と述べた。            財団は2008年から46億ウォン(約4億6000万円)かけて作成した「北東アジア歴史地図」の新羅時代の部分で独島を漏らすなど日帝植民史観などを表し、批判を受けた。          当時の鄭在貞理事長もこうした批判の中、2012年9月に退いた。しかしすでに問題資料が米議会に渡った状態だった。財団で勤務した関係者は「日帝植民史観などを継承している人たちが内部にいる」と述べた。

 この記事における「古朝鮮」「漢四郡」「楽浪」「高句麗」「独島」は、ビックリの連続です。

 韓国では実証主義が「日帝植民史観」として否定されているのです。実証のない歴史学なんて学問と言えるのか?と疑問に思う方は、韓国では「歴史歪曲」「植民地史観」の持ち主として排撃されるでしょう。

 そして邪馬台国研究者の皆さん、魏志倭人伝では帯方郡(204年に楽浪郡の南半分を分立した郡)から邪馬台国までの道程を記していますが、この帯方郡は朝鮮半島(韓半島)にないとするのが韓国の歴史学です。 帯方郡が満州にあったとしたら、邪馬台国の位置はどうなるのでしょうかねえ。

韓国の小説の翻訳に挑戦(4)-孔枝泳2015/10/11

 今回は孔枝泳の小説です。

 小説の題名は「진지한 남자」で、「真剣な男」としました。 「真摯な男」「真面目な男」とも訳せますが、文中における「진지한 남자」をそう訳すと、どうもしっくり来ません。それで「真剣な男」としました。

 ちょっとコミカルな小説です。 孔枝泳の自薦作ですので、それなりの自信作です。

孔枝泳 「真剣な男」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/shinnkennnaotoko.pdf 

【参考】

 孔枝泳については、かつて拙論で取り上げたことがあります。 合わせてお読みいただければ幸甚。

孔枝泳の小説『何をなすべきか』  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/22/7577021

【これまでの翻訳】

殷熙耕 「私が暮していた家」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/watashigakurashiteitaie.pdf       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/04/7626475

申京淑 「伝説」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dennsetsu.pdf     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/02/7722604

申京淑 「ある女」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/aruonna.pdf     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/15/7792887

朝鮮には地域史がない2015/10/17

 20年ぐらい前に買って、そのまま本棚に‘積ン読’していた伊藤亜人『アジア読本 韓国』(河出書房新社 1996年7月)を読みました。 ちょっと古い本ですが、他の韓国紹介本とは違って鋭く切り込むようなことが書かれてあるので、なかなか面白かったです。 問題意識が私と共通するところが少なくありませんでした。それを少しずつ紹介します。

 朝鮮史と日本史との比較する部分で、次のような記述があります。

日本の農村に比べると、いわゆる地方(じかた)文書が驚くほど少ないのは、地方自治の伝統の弱さが反映しているのに違いない。 それに代わって、族譜や地方の名家に多数伝わる文書類はいずれも父系親族集団である門中の歴史や威信に結びついており、どこまでも私的なものである。(24頁)

「郷土史」の不成立     氏族の歴史が王朝や国家の歴史に結びつくのと同様に、地方の歴史も親族関係の人脈をとおして中央と容易に直結する。 日本では戦国大名や藩政時代以来、地域社会ごとに地元の人々が共有してきた過去の経験が地域特有の郷土史として人々の関心を呼んできた。 これに対して、地方自治の伝統の弱い韓国では、地方の歴史は特定の地域にとどまることなく国の歴史に結びついてしまうため、郷土史という概念が成立しにくいようだ。        歴史に限らず、地域特有の知識や関心よりも国家次元のもっと普遍的なものに関心を寄せるのである。郡誌や邑誌などの限られた地誌においても、編者の関心は中央との関係に向けられ、その地方独自の伝説や史実を記録することには一般に無関心である。 歴史とは常に住民の正統性を中央の王朝に求めようとする企てであって、土着・固有のものに求めようとするものではない。(27~28頁)

ところが韓国では、こうした日本における郷土史に対応するものはどうも見られないようである。 一族の私的な歴史に関心が集中するあまり、地域社会そのものや他の氏族の歴史にはあまり関心を示さない‥‥人々の関心は中央との関係を究明することに向けられる。 要するに地方の歴史は国家の歴史に直結してしまうために地域固有の歴史に対する関心は育たないといえる。(141頁)

 韓国に郷土史がないということについては、拙稿ではかつて古田博司さんの著作を引用して論じたことがあります。今それを再録します。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

李朝社会には村境もなければ、荘園台帳の一冊もない。 あるのは、流民の集まる粗放な同族中心の村と、所有権のない荒蕪地ばかりである。 当時は唯物史観が邪魔してそんなこともよく分からなかった。‥‥(九州大学の朝鮮史研究室で)ある日、李朝に荘園台帳がなぜないのか皆で議論になったことがある。 ある者は「戦火で焼かれてしまったのでは?」と答えた。 この人は今東大で朝鮮史を教えている。別の者が答えた。 「寒いのでオンドルにくべてしまったのではありませんか」。 この人も某大学で教授をしている。だが真相は荘園台帳自体がなかったのである。 なぜならば、古代社会だったからだ。(193~194頁)

 ここは古田さんのいう通りです。 朝鮮史と日本史を比べてみて特徴的なのは、荘園資料だけでなく、日本では小さな村でも庄屋さん(あるいは名主)の家に大切に保管されているような村方文書資料さえも朝鮮にはないということです。

 荘園資料や村方文書は、その荘園や村の行政に関する記録です。 例えば領有権や境界争い等のトラブルが生じたときは幕府の問注所や奉行所などで裁判することになるのですが、その時に関係資料を持っていなければ勝てる訳がありません。 また不当に年貢を取り立てられないために、年貢量の決定や年貢決済に関する記録資料も重要です。 だから各荘園や村では、自分たちの権利・義務に関係する資料を大切に保管してきたのです。 そしてこれが日本の歴史研究に貴重な史料となっています。

 ところが朝鮮の李朝時代は、このような自分たちの村を守ってきたという記録がないのです。 何故ないのかといえば必要なかったからです。 何故必要なかったのかといえば、自分たちの村を守るという考えがなかったからです。 李朝時代に守るべきものは自分たちの宗族(男系血縁共同体)であって、村という地縁共同体ではなかったからです。 李朝時代の村は宗族の単なる集まりにしか過ぎません。 宗族(血縁共同体)を越えて村(地縁共同体)で団結することはあり得ない社会だったのです。 つまり村単位で自分らを守るという発想が元々なかったのです。

 だから道や水路が壊れたから村を挙げて修理しようなんてことは、李朝時代にはありませんでした。 農民は自分の耕す田んぼだけに水が引ければいいだけ、或いは自分が使う道があればいいだけですから、その部分だけを自分で修理します。 また村の人がみんなで参加する祭礼(日本では秋祭りや盆踊りなど)も、李朝時代にはありませんでした。 祭りというのは各宗族がやる祭祀だけです。

 そして宗族だけが重要でしたから、これに関する記録は残ることになります。 先祖を顕彰し血統を証明する「族譜」、財産を子供たちにどのように相続させるかという「分財記」などがそれです。 このように中世朝鮮の地方史には官公文書を除くと、日本のような村方文書がなく宗族文書だけがあるという状態なのです。

 日本では中世の「荘園」の成立以来、江戸時代には「村」となって現在に至るまで地縁共同体が続きました。 村(地縁共同体)は複数の家(血縁共同体)で構成されます。 村人は自分たちの村を守るために、つまり村の団結のために必死の努力をします。 だから壊れた道や水路は村人みんなが参加して修理するのです。 隣村との境界争い・水争いなどのトラブルや年貢納入決済などには、村人たちは団結して対処します。 村全体の繁栄が自分の家の繁栄に繋がることを分かっているから、村の権利を守るために必死の努力をするのです。

 ここで最初に引用した古田さんの文を見てください。 李朝時代に荘園台帳がなかったのは、地縁共同体が成立していなかったから荘園台帳を作成する必要がなかった、ということです。 また村境がないのも、地縁共同体としての範囲を定める必要がなかったからです。 男系血縁共同体である宗族のみが重要な李朝社会では地域全体の利益を考えることはなかったのですから、地域の記録・文書を作成すること自体がなかったのです。

曽田嘉伊智(2)2015/10/21

 歌人の俵万智さんが、曽田嘉伊智の伝記である『慈雨の人 韓国の土になったもう一人の日本人』 (江宮隆之 著)の書評を書いています。  http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151021-00004211-honweb-ent

国のつながりは人が作ると信じたくなる国交なき韓国に歓喜で迎えられた日本人         昭和36年、まだ国交の回復していなかった韓国へ向けて、日本から2機のプロペラ機が飛び立った。1機には新聞記者や関係者、もう1機には曽田嘉伊智という94歳になる老人と付き添いの人が搭乗していた。          曽田は、植民地下の韓国にあって、1000人とも3000人とも言われる韓国人の孤児を育てた人物である。終戦後、多くの日本人が強制送還されたなか、妻のタキとともに、例外的にソウルに残ることを許された。が、日本の荒廃を心配して単独で一時帰国。その後、嘉伊智は逆に韓国へ戻れなくなってしまっていた。           嘉伊智を取材した朝日新聞記者、疋田桂一郎の感動的な記事が、多くの日韓の人々の心を動かし、ついには韓国政府の特別な措置により、韓国への入国が認められることになる。政治にも、こんな粋なはからいができた時代があったのだなあと思う。           本書は、曽田嘉伊智の数奇な、そして崇高な人生をたんねんに追いつつ、史実のあいまいなところにはフィクションを加えた伝記小説である。はじめから聖者ではなかった波乱万丈の前半生と、神の天啓を受けてからの孤児たちとの後半生が、まことに腑に落ちるかたちでつながっているのは、著者の力業だろう。日本と韓国の関係が、どんどん悪くなるという時代背景が、嘉伊智の無私にして無償の愛の美しさを、皮肉にもいっそう際立たせている。           心から韓国への帰国を望んでいた嘉伊智だが、印象深いエピソードがある。韓国政府との関係改善のために、かつて大統領と親交のあった嘉伊智を利用しようと、日本政府がなんらかの画策をしたらしい。帰国のチャンスではあったが、嘉伊智は頑として受けなかったという。         こんな日本人がいたのかと胸が熱くなる。そして結局は、国と国とのつながりは、人と人とが作るのだと信じたくなる。         俵 万智(たわら・まち)

 曽田嘉伊智は植民地下の朝鮮で、朝鮮人孤児1,000人を育てた方です。 戦後日本に帰国しましたが、また韓国に戻り、そのままソウルで客死。 楊花津の外国人墓地に葬られました。 彼については、拙稿でも取り上げたことがあります。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/15/7459389

 皆様も、もしソウルに行かれることがあれば、ぜひ曽田嘉伊智のお墓にお参りしてほしいと思います。

韓国の民族史観2015/10/26

 伊藤亜人『アジア読本 韓国』(河出書房新社 1996年7月)に、現在の韓国で歴史学の主流となっている民族史観について次のように紹介されています。

民族史観は李朝時代においては在野の史観というべきものであった。 しかし、韓末から日本統治下を経て解放後の今日に至るまで、韓国の史学で主流を成してきたのは、この民族史観であると言ってもよい。 民族史観とは基本的には事大史観からの脱皮と日本統治下の植民地主義史観に対抗して、民族の主体性とアイデンティティを強調する使命を担ってきたと言える。 こうした歴史観は李朝時代においても‥‥神仙思想ないし朝鮮道家の系譜を受け継ぐもので、特に檀君朝鮮の重視、非漢族である清と連盟して漢を征服することを主張する聯清・征漢論、中華に仕えるとする慕華・事大思想の排撃、道家(神教)の重視、東夷文化の再興などを唱えている。 民族の底流にあったこうした史観が、後には民族主義史観として主流を占めるまでに至り、実証主義的史学からは非科学的として、また社会経済史学からは神秘主義として批判されながらも、今日に至るまで民衆の強い支持を得ている。(28~29頁)

実証史学の側からはとるに足らない非科学的なものとみなされているが、逆にこれら民族史観の側から見れば、そもそも実証史学というものこそ、日帝時代に京城帝国大学を拠点に日本人歴史家が、植民地主義史観に都合のよい科学的実証性をふりかざしたものであって、したがって民族の血や肉と無縁の代物であり、史学が本来担うべき民族に尊厳と力をもたらす使命を放棄した主体性を失ったものであると厳しく反論する。(29頁)

学界自体においても、実学的な具体的・実証的な研究は一般的に軽んじられる傾向がある。 どちらかと言えば理論的あるいは観念的な研究のほうが尊重されるのも、内面性や精神性を重視する文人の伝統によるものであろうか。 特に社会科学においては、実社会の事例に即した実証的な研究は、文人よりは現場の職人の仕事と見なされるためであろうか、あまり尊重されない。(56頁)

 韓国の民族史観あるいは民族史学は実証から離れてイデオロギー的なのものですが、これが韓国の歴史学の主流です。 この民族史観においては、実証というのは自分の歴史観を証明するための作業にしか過ぎません。 自分の歴史観に外れる歴史資料があれば「それは捏造された」「歪曲されている」と否定したり、自分の歴史観に沿う資料がなければ「誰かがその貴重な資料を廃棄した」とか「誰かが意図して隠している」とか言い出します。 そしてこの「捏造」「歪曲」「廃棄」「隠す」人が、日本人になる場合が多くなります。

 民族史観については、かつて拙論でも論じたことがありますので、お読みいただければ幸いです。

第91題 実証なき歴史研究 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuichidai

韓国の歴史には、楽浪がない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/13/5085283

韓国の歴史資料改竄志向   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/10/12/3815175

韓国のマスコミが語る「中国の歴史歪曲」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/10/17/5420260

韓国中央日報のビックリ古代史記事 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/10/06/7828118

トルコ国籍の特別永住者?!―毎日新聞2015/10/27

 一昨日の東京のトルコ大使館前で、トルコ人とクルド系トルコ人が衝突し、多数の負傷者が出たという事件が発生しました。 これを報道した毎日新聞の記事の中で、次のような記述がありました。

法務省の6月末時点の統計によると、トルコ国籍を持ち日本に在留資格がある人は4526人。このうち中長期在留者と特別永住者は3906人に上る。

http://mainichi.jp/shimen/news/20151026ddm041040146000c.html

  「特別永住」は、日本の植民地であった朝鮮や台湾出身者で、日本の終戦後も引き続き日本に居住する者あるいはその子孫に与えられる在留資格です 。だから国籍は「韓国」「朝鮮」「中国」となるのが普通です。 それ以外に、この資格者が他の国に帰化した場合、その国の国籍者を有する特別永住者が発生することがあります。

 従ってトルコ国籍の特別永住者があるとすれば、日本の旧植民地出身者が何らかの事情でトルコに帰化した人ということになります。 米国籍や英国籍などの特別永住者についてはかつて拙稿で論じたことがありますが、トルコ国籍は珍しいです。

米国籍などの特別永住者  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/15/1798285

 本当かなと思って、法務省の「在留外国人統計(旧登録外国人統計) 在留外国人統計  月次 2013年12月  2014年5月28日公表」を調べました。 これはインターネットでも公開されています。

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001118467

 これによればトルコ国籍の「特別永住者」は0人です。 ただし単なる「永住者」は763人です。

 つまり毎日新聞の記事にある「トルコ国籍の特別永住者」は存在せず、単なる「永住者」を間違えたものと思われます。 毎日新聞の記者は「特別永住」について、知識がなかったということですね。 この間違いを見過ごした編集担当も知識がなかったことになります。

金銅弥勒菩薩半跏思惟像(3)2015/10/29

 2015年10月26日付けの『朝鮮日報』に、「純宗が守った半跏思惟像」と題するコラムが載っていました。 執筆は朝鮮日報文化部の許ユンヒ記者です。 韓国の半跏思惟像については拙論ではこれまで二回論じてきましたので、私には興味深いものです。

金銅弥勒菩薩半跏思惟像  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/10/09/553649

金銅弥勒菩薩半跏思惟像(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/12/11/7514362

 今回の記事は日本語版にはありませんので、翻訳してみました。 取り急ぎの直訳ですので、日本語としておかしな部分があります。

純宗が守った半跏思惟像       韓半島最初の近代博物館は、暗鬱な時期に誕生した。1909年11月、大韓帝国の最後の皇帝、純宗が大衆に開放する帝室博物館である。 純宗は近代化の名分を掲げる日帝の圧力に勝てずに、博物館を開いたのであるが、一旦開いてからは意志をもって内的充実を固めた。 1908年から全国で遺物を収集し始め、初期の10年間に何と1万122点を集めた。 

この時収集した最も重要な名品が国宝83号の金銅半跏思惟像である。 純宗は1912年、日本人古美術商から2600ウォン(今のお金で約30億ウォン)という大金を出して買った。 国宝級の高麗青磁一点が100ウォンした時代であった。 帝室博物館は庚戌国恥(日韓併合のこと)以降、李王家博物館として格下げされたが、当時古美術商が40ウォンで買ったものが65倍にも高い価格を払い、ようやく遺物を獲得した。 そのような非常な覚悟がなかったなら、半跏思惟像は他の遺物のように海外に搬出される身の上を免れなかったのである。

またもう一つの半跏思惟像が、この頃に登場した。 国宝78号の半跏思惟像は日本の収集家を経て1912年に初代朝鮮総督の寺内に上納された。 寺内は帰国前の1916年、これを総督府博物館に寄贈した。所蔵品をたくさん持って行きながら、半跏像は諦めたのである。 「李王家博物館が2600ウォンも出して半跏像を購入したので、朝鮮では半跏思惟像シンドロームが起きた。同一の価値を持った遺物を本国に持って行くのには負担が少なくなかったのである。(ファン・ユン「博物館を見る法」)

今、国立中央博物館で開かれている「古代仏教彫刻大展」に二つの半跏像が並んで置かれている。 一点ずつ交代で展示されていたが、11年ぶりに同じ所で出会うこととなった。 この超大型特別展では、草創期の中国の仏像と似た韓半島の仏像が、段々と独自的な図像を確立しながら、半跏思惟像でその芸術性と技巧が爆発する過程が一目で入って来る。 世界各地から借りてきた最高級のインド・中国の仏像たちを観覧した後、最後の一部屋に二つの半跏思惟像に出会った時は、涙が出るくらいに胸がいっぱいになった。

国立中央博物館が解放後、何度も流浪した末に竜山に居を定めてから10年になった。 「我々のものが無条件に最高」という視野から離れて、このように水準の高いアジアの展示を執り行うくらいに成長したということに拍手を送る。 しかし先進国の博物館と肩を並べようとすれば、これからの道は遠い。 昨年基準で、一年に39億ウォン水準である遺物購入費から大幅に増やさねばならない。 アメリカのメトロポリタンの一年の遺物購入費が350億ウォン程度だ。 39億ウォンは海外に流れた最高級の高麗仏画やA級陶磁器一点を購入するにも足りない額である。

博物館はすなわちその国の文化水準だ。 アメリカ・日本などの博物館などは各種基金をはじめ、個人の寄贈・寄付も活発だ。 今度の展示で借りてきたアメリカの博物館の相当数に「ジョン スチュアート ケネディ 基金」「ロジャース 基金」などの説明が付いているのが本当にうらやましかった。 あの困難な時代に2600ウォンをかけて二つの半跏思惟像を守った純宗の切迫を今の我々は半分でも持っているか?

 私にはこの半跏思惟像の由来に関心があります。この記事では、日本人古美術商が40ウォンで買い取り純宗に2600ウォンで売った、と記されている点に注意が引かれました。 一体この古美術商がどこで買い取ったのか、売った人はこの仏像をどのような経緯で入手し、それまでどのような取り扱いをしてきたのか、なぜ日本人古美術商に売ろうと思ったのか等々、知りたいことはたくさんあるのですが、なかなか難しそうです。