韓国のインテリと民衆2015/11/08

 伊藤亜人『アジア読本 韓国』(河出書房新社 1996年7月)によれば、韓国人の日本に対する意識が知識人と民衆の間で違っていることを指摘しています。

日本に対する意識には、インテリと一般民衆の間にかなりの差があるように思われてならない。 かつて文人たちが日本を自分たちより劣るものと見なして両者の差異を強調したように、今日でも全般的に言えば、いわゆる知識人ほど日本に対する見方は観念的であり、思い込みが激しいように思われる。 解放後の教育を受けた世代では、日本を一度も直接に体験したことがないにもかかわらず、日本に対する固定的な観念にたいへんな自信をもつ者が少なくなかった。 自分が仕入れた知識を披露することが優越感をもたらすのであろうか、私に対して日本文化の本質を講義したがる知識人に何度も出会ったことがある。(304~305頁)

韓国の伝統的知識人は、もともと書物をとおしてしかものを考えなかったためであろうか、自身の体験をおろそかにする傾向すら見られた。 これに対して一般民衆は必ずしもそうではない。 とりわけかつて日本で生活した体験のある人々の場合には、観念に妨げられることなく自分の体験に基づく生活感覚によってものを感じ取り考えたようである。 言いかえると、自分の身の回りの文化の延長上・連続性のもとで日本を位置づけようとする傾向が見られ、したがって適応性にも富んでいたように見受けられる。体験によっているため個人差も大きいが、概して彼らが下す判断や評価には具体的な根拠がある。(305頁)

 伊藤さんは韓国では知識人と民衆とでは意識が違っていると言っておられます。 このように感じ取るのは、韓国に長く直接に関わった人にかなり共通することのようです。

 かつて拙論でもこれについて論じたことがありますので、ご参照して頂ければ幸いです。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/15/7245000

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