保坂祐二さんのビックリ寄稿文2016/03/04

 韓国の新聞『朝鮮日報』2月29日付けで保坂祐二さんの寄稿文が掲載されていました。 日韓関係に関するものですから、普通は日本語版にも出てくるのですが、何故か出てきません。 興味深いので訳してみました。

「臨時政府 否定する 日本の腹の内」 保坂祐二 独立記念館非常任理事 世宗大学教授

明日は第97周年の3・1節だ。 ウィルソン米国大統領の民族自決原則に立脚して、世界の歴史上初めて非暴力運動で植民地支配下にあった民族が独立を訴えた運動であった。 日本帝国主義は無慈悲にこの運動を弾圧したが、その後韓国に対して武断統治を終わらせ、出版・言論などに一定の自由を与えるようにした。 この3・1独立運動が大韓民国臨時政府樹立につながることは周知の事実である。

現在日本で、臨時政府の歴史的意味を否定しようとする言説を容易く見ることが出来る。 出版物やインターネットサイトを通して「臨時政府は国際社会から正式の国家として認められたことはない」、「連合国の勝利で韓国が独立したのであって、臨時政府が韓国を独立させたのではない」、「韓国国民が自分の力で独立を勝ち取ったものではない」などと言いながら、現大韓民国の起源を否定し、その位相を地に落とそうとする意図をあらわにしている。

しかし歴史をよく見ると、臨時政府が大韓民国誕生に決定的な役割をしたというのは、はっきりと知られている。 1932年4月29日、上海の虹口公園で開かれた日王の誕生日祝賀式典と日本軍上海占領戦勝記念行事に臨時政府が送った尹奉吉義士が爆弾を投げた。 この後、尹義士は死刑宣告を受け、その年の12月19日に日本の金沢で銃殺された。 ところでこの義挙に接した中華民国の蒋介石は「中国の100万を超える大軍も出来なかったことを朝鮮人青年がやったとは、本当に大したものだ」と感嘆し、以後金九が率いる大韓民国臨時政府を全面的に支援した。 蒋介石は韓国の独立を支援しようと約束し、以後カイロ会談で連合軍を相手に韓国を適切な時期に独立させるという合意を引き出し、中国軍と光復軍が抗日戦に参加したことなどは、臨時政府の抗日闘争がなかったなら不可能であった。

阿部信行朝鮮総督は、1945年8月10日ラジオの短波放送を通して日本の降伏をあらかじめ知り、呂運亨を訪ねて行って韓国の治安維持権限を委譲した。朝鮮総督府は事実上韓国に降伏したのである。

この時建国準備委員会を発足させた呂運亨は、1919年の在日留学生の2・8独立宣言と3・1運動に関与して、臨時政府の創建に力を尽くした人物だ。 1945年8月15日に日本が無条件降伏し、9月2日に降伏文書に署名したが、この時署名した重光葵外相は尹奉吉の爆弾投擲で片足を失った人物だ。 このような歴史は、臨時政府が韓国の独立を引き出すのに力を尽くしたことを証明している。

1966年に朴正熙大統領が台湾を訪問した時、蒋介石総統は「尹奉吉義士の家族はいるのか?」と尋ね、「帰国すれば面倒を見てやってほしい」と要請したと伝えられる。 1948年8月15日、大韓民国樹立当時の李承晩大統領を始め政府要人は、ほとんど全て臨時政府出身であった。 だから大韓民国政府は臨時政府を継承したのが事実である。

日本の著名なジャーナリストのなかには「韓国は臨時政府を継承したという神話を作って、反日運動に熱を上げている」という式の非常識的批判をする人もいる。日本が韓国と友好関係を願い、韓・米・日がともに助け合うことを願うならば、このような間違った認識を広める言説や報道を自制せねばならない。

 ここで引用されている日本側の言説は、次の通りです。

   「臨時政府は国際社会から正式の国家として認められたことはない」

   「連合国の勝利で韓国が独立したのであって、臨時政府が韓国を独立させたのではない」

   「韓国国民が自分の力で独立を勝ち取ったものではない」

   「韓国は臨時政府を継承したという神話を作って、反日運動に熱を上げている」

 何故これが間違いなのか?事実ではないか?と思えるものばかりです。

 論者は本当に学者さんなのか?という疑問が湧きます。

【拙稿参照】

大韓民国臨時政府は日韓併合合法が前提だった  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/06/13/5158377

韓国は大韓帝国を承継したか       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/10/05/549358

「韓」という国号について(5)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/29/7657652

「韓」という国号について(6)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/03/7661140

名前を忌避する韓国の女性2016/03/10

 文化人類学の伊藤亜人さんは1970年代から韓国に何度も訪れ、また時には長期間滞在して資料収集し、韓国の民俗について多数の論文や著作を出した方です。 その著作の一つ『アジア読本 韓国』(1996年7月 河出書房新社)のなかに韓国の女性の名前について報告されているものがありましたから、ここに引用・紹介します。 なおこの著作は1996年刊ですから、書かれている内容は今から20年以上前の話になります。

朝鮮王朝時代には、戸籍の上でもまた族譜の上でも一般の女性には個人名は用いられず、単に女と記載される ‥‥今日ではむろん戸籍には個人名で記され、学校においても個人名で呼ばれているが、それでもなお結婚して嫁いだ後には婦人に対しては個人名を用いないのが慣例になっている。(110頁)

その場合、両班層出身の家庭では一般に「宅号」がよく用いられており、より一般的な呼称法としてはいわゆるテクノニミーで呼ばれている。  「宅号」は、夫人の名を呼ぶ代わりにその実家の所在地の名に宅を付けて呼ぶ方法である。 これに対してテクノニミーというのは、子供の実名を用いて「‥‥のオモニ(母親)」という具合に呼ぶ方法で、男子それも長男の名を用いるのが普通である。(110頁)

村の中では、普段からテクノミニーをもっぱら使うので、奥さんたちの本名はほとんど知られていないし、契(頼母子のこと)の名簿にも本名ではなく子供の名前や夫の名で記されている場合が多い。(111頁)

相手の女性を本名で呼ぶことを避けようとするばかりでなく、本人も自分の名前を避けて仮名を用いることがある。 ‥‥姓まで変えてまったく別人になりすますようにして勤務していることがある。 日本人から見てけっして不名誉と思われない職場でも、取り立てて名誉でもない職場はむしろ本名を汚すとでも考えているのだろうか。 だとすると、職場に勤めていること自体と卑下する傾向や、韓国において女性の職場進出が遅れていることも関係しているのだろう。 ‥‥たしかに、結婚しても生涯姓名を変えない一方で、平然と別名を名乗るのは一見矛盾しているように見える。 しかし、職場での自分はあくまで仮の姿であるとするならば理解できないことはない。(111頁)

 「テクノニミー」なんて難しい専門用語ですね。      ここに書かれている内容は伊藤さんが資料収集した時代のことですから、1970年~90年のことです。 それから20年以上経った今は家族の在り方が更に変化しています。 何といっても女性の社会進出が進み共稼ぎ夫婦が増えたことや、少子高齢化、核家族化、一人世帯の急増などで、家族風景が全く違ってきているのです。 ですから韓国の女性の名前のあり方も変わってきているし、これからも変わっていくことは確実でしょう。 どのように変化するか、注目したいと思います。

【関連論考】

李朝時代に女性は名前がなかったのか  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

李孝石「落葉を燃やしながら」2016/03/15

 李孝石の「落葉を燃やしながら」と聞いて、韓国ドラマ「冬のソナタ」を思い浮かべた人がいたら、最高の韓流ファンとして尊敬に値するでしょう。 「冬のソナタ」の第二話に、授業をサボった罰としてジュンサン(ペ・ヨンジュン)とユジン(チェ・ジウ)は校庭の焼却場の掃除を命じられる場面があります。 その時のユジン(チェ・ジウ)の韓国語音声で出てくる台詞の訳です。

この匂いなのねえ! 李孝石(イ・ヒョソク)の「落葉を燃やしながら」を習っていた時、落葉を燃やす匂いってどんなのかずっと気になっていたの。 落ち葉を燃やすと、すっかり熟れたハシバミの匂いがするって書いてあったけど、ハシバミの匂いがどんなのか、よく知らなかったから。

 韓国では李孝石の「落葉を燃やしながら」は国語の教科書に載っており韓国人は学校で習いますので、みんなが知っている作品です。 しかし当然ながら日本人は全くといっていい程、知りません。 だからなのでしょうか、日本向けのドラマでは日本語字幕に「ある詩に落ち葉を燃やす場面があって」と出てくるだけで、「李孝石」「落葉を燃やしながら」という台詞は全く出てきません。 つまり「李孝石」「落葉を燃やしながら」は韓国語の音声の中だけに出てくるのです。 日本語字幕と違う韓国語音声を聞き取るのは非常に難しいです。 冒頭で「冬のソナタ」を思い浮かべた人は最高の韓流ファンだと記した所以です。

 李孝石は平凡社『韓国・朝鮮を知る事典』では次のように説明されています。

イ・ヒョソク 李孝石(1907~42): 朝鮮の小説家。号は可山。江原道出身。京城帝大英文科卒後、鏡城農業学校、崇実専門学校で教鞭を執る。学生時代、プロレタリア文学の同伴作家として文壇に出たが、1933年を境に転換、純粋文学派グループ<九人会>に参加、自然と人間の愛欲相を精緻な文章で詩的世界に作り上げる短編作家として名をなした。作品には傑作といわれる《蕎麦の花咲くころ》(1936)をはじめ、《豚》《粉女》《薔薇は病む》などがある。 (田中明)

 この李孝石が書いたエッセイの一つが「落葉を燃やしながら」です。調べてみますと、韓国の教科書では、1951年8月の『中学国語1-Ⅰ』、1953年9月の『中学国語2-Ⅱ』、1968年の高校1年生用『国語Ⅰ』、1984年の同『国語Ⅰ』に掲載されているとありました。 おそらく、戦後一貫して国語教科書に使われたと思われます。 だから2002年の韓国ドラマ「冬のソナタ」に、学校で習った作品名として出てきたわけです。

 このように李孝石の「落葉を燃やしながら」は韓国では知らない人はいないぐらい有名なエッセイなのですが、実は李孝石は韓国語だけでなく日本語でもこの作品を書いていたという事実はほとんど知られていないようです。 正確に言うと、李孝石は最初に日本語で書き、その後自分で韓国語に翻訳したもので、この韓国語版が戦後の韓国の教科書に採用されたのです。 つまり原文は日本語なのです。 しかし李孝石自身が自分で韓国語に翻訳していますから、これもまた原文ということも出来ます。

 それはともかく、戦前は日本語と朝鮮語(韓国語)の完璧なバイリンガルがいて、両方の言葉で優れた文学作品を書く作家がいたということです。 これは李孝石だけでなく、朝鮮近代文学の祖である李光洙もそうです。

 戦後でもバイリンガルの在日作家はいましたが、韓国語の方は手紙・会話などの私的なレベルだけに限られるようで、両方の言葉で作品を書く人はなかなか見当たりません。 今は日韓の交流が深くなってきていますから、日本人でも両方の言葉で文学作品を書く作家が現れてもいい時代になっていると思うのでが‥‥。

【追記】

 南富鎮という方は、「李孝石『落葉을 태우면서』における翻訳問題」という論文のなかで次のように論じています。 かなり厳しい見解です。

「落葉을 태우면서」は朝鮮語による創作ではなく、日本語創作「季節の落書」の翻訳である。 しかも日本語原文を朝鮮語に直訳することによって、削除、誤訳、非文、難文が生じている。そのため、教科書版を含め、膨大な諸版では修正を余儀なくされ、現在なお異様な進化を続けている。「落葉을 태우면서」が日本語原文の直訳であることが認識されず、たんに朝鮮語による創作と見なされ、李孝石の代表作として国定教科書に掲載され、模範的な文章として正典化されてきた結果であろう。朝鮮語としてはきわめて不自然な作品が国定教科書に掲載され、模範的な秀作と宣伝され、文章への違和感さえ疑問視されてこなかったのである。(南富鎮『翻訳の文学』世界思想社 2011年6月 65頁)

 朝鮮語版が「削除、誤訳、非文、難文」とされています。 調べてみますと、「削除」は確かにありました。 そして「誤訳、非文、難文」なのかどうかについては、この論文では日本語版と韓国版の両方を細かく詳しく比較して論じていますので、かなり説得力があります。 しかし「朝鮮語としてはきわめて不自然な作品」なのかどうかは、浅学の私には分かりません。 今のところ私が明確に言えることは、韓国では長年教科書に採録されてきて「模範的な秀作」とされているという事実だけです。

李朝時代の婢には名前がある2016/03/19

 以前に「李朝時代の女性に名前はなかったか」と題するブログについて誤解される人がいました。 よく読んで頂ければ分かると思いますが、当時の西洋人が「朝鮮の女性には名前がない」と報告しており、それは個人のアイデンティティを表わすものとしての名前はなかったということです。 いつの時代でも本人を特定する必要がある時に何らかの名称があるものですが、李朝時代の女性は父系家族の関係性でもって本人特定されていたのでした。 つまり個々の女性に付けられる名前というものがなかったのです。

 ところが実は李朝時代には、個人の名前を持つ女性たちがいました。 それは妓生や婢です。 どちらも最下層の賤民の身分です。 「婢」というのは奴婢身分のことで、男性が「奴」、女性が「婢」となります。 朝鮮の女性賤民には他にも巫堂などがあり、この人たちも名前があった可能性があります。 今回はこの「婢」の名前について書きます。

 李朝時代の女性には名前がないとされているのに、なぜ女性賤民の「婢」には名前があるのか? という問題です。

 答は簡単です。 婢には名前を付ける必要があったからです。 まず奴婢は両班の財産であって、売買・相続・贈答されるものであることに注意しなければなりません。 そして奴婢には両班のような父系血縁集団である門中とか宗族がなかったのですから、父系血縁を表わす「姓」というものを持っていませんでした。 現代の韓国では全ての人がこの父系血縁を示す「姓」を有していますが、これとは違う世界が李朝時代の奴婢にあったのです。

 次に李朝時代の奴婢には「一賤則賤」と「従母法」の原則がありました。 「一賤則賤」というのは奴婢から生まれた子供はすべて奴婢であるということです。 そして「従母法」というのは、婢の所有者である両班はその婢から生まれた子供も自分の所有になるということです。 だから婢が子供を生むというのは、その両班にとって財産が増えることを意味します。

 両班は、たとえば財産相続する時などでは奴婢が自分の所有財産であること証明した上で相続することになります。 その時、奴婢の母親の名前が必要になるのです。 宮嶋博史『両班』(中公新書 1995年8月)から、その一例を紹介します。

この分財記では、相続される奴または婢のひとりひとりについて、次のような内容が記されている。「婢夫叱徳壱所生奴長命年参拾陸乙亥」。この場合、長命というのが相続される奴の名であり、彼は夫叱徳という婢の一人目の子供で乙亥年の生まれ、年齢は36歳である。奴と婢の別、名、だれの子供であるという出生関係、生年、年齢などの情報が記されている。出生関係は、相続される奴または婢の母親の名で示される ‥‥奴婢の出生関係を示すのに母親である婢の名前を記すことが多いのは、「従母法」によるものであって、母である婢の所有主は、その婢の生んだ子供の所有主となる。(61~62頁)

 両班は奴婢が自分の所有物であることを証明するためには、その母親も自分の婢であることを証明せねばなりません。 しかし婢には父系血縁集団がありませんから、一般の朝鮮人女性のように「○○の娘」「○○の妻」というような名付け方が出来ません。 だから婢は女性であっても個々の名前を付けることになるのです。 この資料では婢の名前として「夫叱徳」が出てきます。 

 以上をまとめますと、李朝時代の両班などの女性は所属する父系血縁集団の関係性で名付けられていて個人を表わす名前というものはなかったが、これはこれで当時は本人を特定できた。 一方最下層である婢は従母法により本人特定が必要となるが、婢には父系血縁集団がないので個々人に名前を付けるしかなかった。

 別に言うと、李朝時代の女性は一般的に父系血縁関係に所属することに存在意義があって個々の名前がなくてもよかったが、父系血縁のない婢には個々の名前が必要だった、ということです。

 李朝時代の女性は厳しい女性差別の故に名前がないのが普通であったが、最下層の婢は女性差別だけでなく過酷な身分差別も加わっていたが故に名前があった、というのが結論です。

【関連拙稿―朝鮮人女性の名前】

李朝時代に女性は名前がなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

名前を忌避する韓国の女性   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

【参考拙稿―朝鮮人の名前】

支配者側の名前をつける性向    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/07/1170029

韓国人の名前 行列字       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/06/30/1615438

李朝時代に女性は名前がなかったのか(2)2016/03/23

 李朝時代の女性にはアイデンティティとしての名前がなかったと論じたことについて、どうも理解してもらうのがちょっと難しいようです。 分かり易く説明するために、仮の女性で物語を作ってみます。

慶州に住んでいる金正寿さんの家に可愛い女の子が生まれました。 父親の金正寿さんはこの女の子を「イップニ(かわい子ちゃん)」と呼んで大事にし、家族も近所の人もそう呼びました。 金正寿さんは日記(漢文)にイップニのことを書く時、漢字で「林粉」(朝鮮語読みでイップンとなる)としました。 イップニは家で母親の家事を手伝い、弟妹の世話をし、15歳になって順天の朴泳宇さんと結婚して嫁に行きました。 その時からイップニはイップニでなくなります。 朴さんの家では新しく来た嫁を、その出身地から「慶州宅」と呼びます。 近所の人たちは「泳宇の妻」と呼びます。 やがて長男の成植が生まれると、「成植の母」と呼ばれるようになります。 昔「イップニ」と呼ばれた女性は、自分の名前がありませんから「慶州宅」「泳宇の妻」「成植の母」となる訳です。 戸籍や族譜(家系図のこと)には、「女 金氏」とか「女 配朴泳宇」と記されます。 

 幼名は男の子の場合は「介同(ケットン=犬の糞)」とか「開仏(ケブル=犬の金玉)」とか「道治(ドジ=豚)」とかになりますが、別途に正式の名前が付けられて族譜に記載されます。 しかし女の子の場合は幼名はありますが正式の名前は付けられず、成人すると個人としての名前のない状態となって一生を過ごします。

 名前がないといっても、本当は名前があったのにその資料が残っていないだけではないか、という疑問を持つ方がおられるようです。 これについては、結婚した女性の場合は本当に個人の名前がなかったと言っていいのではないかと考えています。 その理由は次の通りです。

 植民地時代初期に朝鮮総督府は戸籍の整備を急ぎます。 この時に女性の戸籍をどうするかについて、もし女性に実名があるのなら戸籍作成時に隠す必要がありませんから届け出ると思うのですが、そういうことはありませんでした。 女性には名前がありませんから父系血縁を示す氏を使うしかありませんでした。 ですから金正寿さんの娘さんであれば「女 金氏」と記載するわけです。 このように初期の朝鮮戸籍には、女性は性別と父系血縁の氏だけで、個人の名前のないままに記載されるのが多数見つかります。 なお幼い女の子の場合、幼名を戸籍名として届け出ると受け付けられたようです。 この場合、幼名がそのまま本名となって社会生活することになります。

 以上の植民地時代の状況から推測すると、それ以前の李朝時代の女子は女の子の段階では幼名があったが、女性の段階になれば個人の名前がない状態となると推測できます。

 女性に名前のないことは近年の韓国に慣習として形を変えて残っていたようです。 文化人類学の伊藤亜人さんは1970・80年代の地方で 「村の中では、普段からテクノミニーをもっぱら使うので、奥さんたちの本名はほとんど知られていないし、契(頼母子のこと)の名簿にも本名ではなく子供の名前や夫の名で記されている場合が多い」と報告しています。

【拙稿参照】

李朝時代に女性は名前がなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

名前を忌避する韓国の女性   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

李朝時代の婢には名前がある  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165

韓国の小説の翻訳に挑戦(7)―殷熙耕(2)2016/03/29

 今回は殷熙耕の二回目です。

殷熙耕「他の雪片と非常によく似たたった一つの雪片」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/tanosubete.pdf

 題名は長ったらしいですが、原文にあったままの題名です。

【これまでの小説の翻訳】

申京淑「ある女」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/aruonna.pdf

申京淑 「伝説」  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dennsetsu.pdf

申京叔「今私たちの横に誰がいるのでしょうか」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/imawatashitachinoyokoni.pdf

孔枝泳 「真剣な男」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/shinnkennnaotoko.pdf

孔枝泳「存在は涙を流す」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/sonnzaihanamidawonagasu.pdf

殷熙耕 「私が暮していた家」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/watashigakurashiteitaie.pdf

許蘭雪軒・申師任堂の「本名」とは?2016/03/31

 李朝時代の女性にはアイデンティティの名前がないと論じたことに対し、この時代の有名な女性である許蘭雪軒・申師任堂は「本名」があるではないか、という指摘がありました。

 どちらも16世紀の人物で、秀吉の朝鮮出兵より以前に活躍しました。 日本史上においては出て来ませんので、我々には馴染みの薄い女性たちです。 だからでしょうか、日本では伝記の類は発行されていません。 韓国にはおそらく伝記があると思うのですが、我が近くの図書館には見当たりませんでした。 韓国のインターネット上の事典を見るしかありません。

許蘭雪軒 http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=527432

申師任堂 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%8B%A0%EC%82%AC%EC%9E%84%EB%8B%B9

 そこには確かに「本名」として、許蘭雪軒は「楚姫」、申師任堂は「仁善」が記されています。 それでは、ここに言う「本名」とは一体何か?です。

 朝鮮史上の人物で「本名」とあれば、族譜や戸籍上の名前を指します。 当時の戸籍資料は手近にないので、族譜の方で考えてみます。

 朝鮮で現存している族譜資料で最も古いものは、安東権氏の「成化譜」で15世紀です。 そこには女性は名前が記されていません。女性は一例を挙げると、「女夫張茂」というようになります。 これは「張茂」と結婚した女性、という意味です。

 また李朝時代の前半は女性にも相続権があったのですが、相続を証明する文書にも女性は名前がなく、代わりに夫の名前が記されており、族譜の原則が貫かれます。 族譜には女性は名前を記されず、従って女性には名前がないということは、李朝時代に全般に見られます。

 とすれば許蘭雪軒・申師任堂の本名とされる「楚姫」や「仁善」は、少なくとも許氏や申氏の族譜上の名前ではないと考えた方がいいでしょう。 それではこの「本名」というものはどの資料で出てくる名前なのかということになりますが、これは浅学の私には分かりませんでした。

 一番可能性のあるのは幼名ではないか、ということです。 許蘭雪軒も申師任堂も、その家族は有名人ですから、手紙や日記といった資料が残っている可能性が高いです。 女性は結婚しても、実家の親兄弟とは幼名を使っていたことが考えられます。 従って、家族の手紙や日記資料に幼名が記されているのではないか、これを韓国の事典は「本名」としたのではないか、というのが私の推測です。

李朝時代に女性は名前がなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

名前を忌避する韓国の女性   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

李朝時代の婢には名前がある  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165

李朝時代に女性は名前がなかったのか(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/23/8055612