李孝石「落葉を燃やしながら」2016/03/15

 李孝石の「落葉を燃やしながら」と聞いて、韓国ドラマ「冬のソナタ」を思い浮かべた人がいたら、最高の韓流ファンとして尊敬に値するでしょう。 「冬のソナタ」の第二話に、授業をサボった罰としてジュンサン(ペ・ヨンジュン)とユジン(チェ・ジウ)は校庭の焼却場の掃除を命じられる場面があります。 その時のユジン(チェ・ジウ)の韓国語音声で出てくる台詞の訳です。

この匂いなのねえ! 李孝石(イ・ヒョソク)の「落葉を燃やしながら」を習っていた時、落葉を燃やす匂いってどんなのかずっと気になっていたの。 落ち葉を燃やすと、すっかり熟れたハシバミの匂いがするって書いてあったけど、ハシバミの匂いがどんなのか、よく知らなかったから。

 韓国では李孝石の「落葉を燃やしながら」は国語の教科書に載っており韓国人は学校で習いますので、みんなが知っている作品です。 しかし当然ながら日本人は全くといっていい程、知りません。 だからなのでしょうか、日本向けのドラマでは日本語字幕に「ある詩に落ち葉を燃やす場面があって」と出てくるだけで、「李孝石」「落葉を燃やしながら」という台詞は全く出てきません。 つまり「李孝石」「落葉を燃やしながら」は韓国語の音声の中だけに出てくるのです。 日本語字幕と違う韓国語音声を聞き取るのは非常に難しいです。 冒頭で「冬のソナタ」を思い浮かべた人は最高の韓流ファンだと記した所以です。

 李孝石は平凡社『韓国・朝鮮を知る事典』では次のように説明されています。

イ・ヒョソク 李孝石(1907~42): 朝鮮の小説家。号は可山。江原道出身。京城帝大英文科卒後、鏡城農業学校、崇実専門学校で教鞭を執る。学生時代、プロレタリア文学の同伴作家として文壇に出たが、1933年を境に転換、純粋文学派グループ<九人会>に参加、自然と人間の愛欲相を精緻な文章で詩的世界に作り上げる短編作家として名をなした。作品には傑作といわれる《蕎麦の花咲くころ》(1936)をはじめ、《豚》《粉女》《薔薇は病む》などがある。 (田中明)

 この李孝石が書いたエッセイの一つが「落葉を燃やしながら」です。調べてみますと、韓国の教科書では、1951年8月の『中学国語1-Ⅰ』、1953年9月の『中学国語2-Ⅱ』、1968年の高校1年生用『国語Ⅰ』、1984年の同『国語Ⅰ』に掲載されているとありました。 おそらく、戦後一貫して国語教科書に使われたと思われます。 だから2002年の韓国ドラマ「冬のソナタ」に、学校で習った作品名として出てきたわけです。

 このように李孝石の「落葉を燃やしながら」は韓国では知らない人はいないぐらい有名なエッセイなのですが、実は李孝石は韓国語だけでなく日本語でもこの作品を書いていたという事実はほとんど知られていないようです。 正確に言うと、李孝石は最初に日本語で書き、その後自分で韓国語に翻訳したもので、この韓国語版が戦後の韓国の教科書に採用されたのです。 つまり原文は日本語なのです。 しかし李孝石自身が自分で韓国語に翻訳していますから、これもまた原文ということも出来ます。

 それはともかく、戦前は日本語と朝鮮語(韓国語)の完璧なバイリンガルがいて、両方の言葉で優れた文学作品を書く作家がいたということです。 これは李孝石だけでなく、朝鮮近代文学の祖である李光洙もそうです。

 戦後でもバイリンガルの在日作家はいましたが、韓国語の方は手紙・会話などの私的なレベルだけに限られるようで、両方の言葉で作品を書く人はなかなか見当たりません。 今は日韓の交流が深くなってきていますから、日本人でも両方の言葉で文学作品を書く作家が現れてもいい時代になっていると思うのでが‥‥。

【追記】

 南富鎮という方は、「李孝石『落葉을 태우면서』における翻訳問題」という論文のなかで次のように論じています。 かなり厳しい見解です。

「落葉을 태우면서」は朝鮮語による創作ではなく、日本語創作「季節の落書」の翻訳である。 しかも日本語原文を朝鮮語に直訳することによって、削除、誤訳、非文、難文が生じている。そのため、教科書版を含め、膨大な諸版では修正を余儀なくされ、現在なお異様な進化を続けている。「落葉을 태우면서」が日本語原文の直訳であることが認識されず、たんに朝鮮語による創作と見なされ、李孝石の代表作として国定教科書に掲載され、模範的な文章として正典化されてきた結果であろう。朝鮮語としてはきわめて不自然な作品が国定教科書に掲載され、模範的な秀作と宣伝され、文章への違和感さえ疑問視されてこなかったのである。(南富鎮『翻訳の文学』世界思想社 2011年6月 65頁)

 朝鮮語版が「削除、誤訳、非文、難文」とされています。 調べてみますと、「削除」は確かにありました。 そして「誤訳、非文、難文」なのかどうかについては、この論文では日本語版と韓国版の両方を細かく詳しく比較して論じていますので、かなり説得力があります。 しかし「朝鮮語としてはきわめて不自然な作品」なのかどうかは、浅学の私には分かりません。 今のところ私が明確に言えることは、韓国では長年教科書に採録されてきて「模範的な秀作」とされているという事実だけです。