朝鮮人志願兵初の戦死者2017/11/02

朝日新聞外地版60南鮮版 1944年(昭和19)1月1んち付け

 この資料は1944年1月1日付けの朝日新聞南鮮版にある記事です。 忠清北道の知事が年初に当たって抱負を述べたものです。 クリックすれば拡大します。

 忠清北道出身の「李仁錫」が日本軍志願兵の初の戦死者となったことを誇りにして、道民の戦意が高いことを誇っています。 

 その部分を現代漢字、かな遣いに書き直すと、次の通りです。

李上等兵に続く    忠北道道知事 平松昌根氏     本道は志願兵初の戦死者李仁錫上等兵を出した誇りも高く、道民の敵米英に対する敵愾心の熾烈、皇民化の進捗は目覚ましきものあり。 学徒兵願の如きその応募率最も優秀で、検査の成績も5,6名の不合格者を出したに過ぎず、海軍志願兵の届出も盛んである。 こうした李仁錫上等兵の志を継ぐ道民の赤誠はあらゆる部面で現われ、‥‥

 朝鮮で志願兵制度が始まったのは1938年です。 この最初の戦死者となると、この年か翌39年でしょうから、創氏改名以前の話と思われます。 知事が「李仁錫」の戦死を数年経ってその名前で称揚しているのですから、旧日本軍において朝鮮人の民族名は何ら支障になっていなかったと言えるでしょう。

 1945年に内務省は軍隊における朝鮮人兵士について、「今日皇軍トシテ些ノ差別ナク渾然一体トナリテ軍務ニ精励シツツアリ」と評価しているように、民族名の朝鮮人兵士も差別なく取り扱われていたのでした。 その根拠としてこの資料を挙げることができるのではないかと思います。

 宮田節子は、日本は軍隊に「金」とか「李」とかの名前の朝鮮人がいるを嫌い、創氏改名で日本名に変えさせる政策をとったとしています。 この説は成り立たないと言うしかありません。

宮田節子の創氏改名論          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

朝鮮人戦死者の表彰記事ー1944年  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160

民族名で応召した朝鮮人         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238

日本統治下朝鮮における朝鮮語放送2017/11/06

朝日新聞外地版52 南鮮版 昭和18年2月11日付け

 これは1943年(昭和18)2月10日付けの『朝日新聞 南鮮版』に掲載された、ラジオの番組表です。 当時はテレビがない時代でしたから、ラジオは貴重な情報源です。 またラジオは高価でしたから、公共施設か或いは裕福な家庭にしかありませんでした。

 朝鮮は植民地支配されていましたので、公用語は宗主国の日本の言葉です。 ラジオ放送では日本語が主となりますが、なかに朝鮮語の番組が混じります。

朝の9時40分 「戦時家庭の時間(朝鮮語) 洪善杓」。  昼の2時半 「朗読(朝鮮語) 『密林の奇襲』 呉島進」。   夜の9時 「合唱(朝鮮語)『国語常用の歌』ほか、京城放送混成合唱団、総力回覧板(朝鮮語)青山鶴夫」。

 1日に3回の朝鮮語放送でした。

 当時は公用語の日本語が奨励されましたが、日常語の朝鮮語が禁止されたことはありません。 だからラジオ放送にも朝鮮語の番組があるわけです。 しかもこの資料は1943年(昭和18)ですから、軍国主義時代の真っ最中です。

 しかし‘日本は言葉を奪った’という言説が後を絶ちません。 間違った歴史がいつまでも続くのには、困ったものです。

【拙稿参照】

『現代韓国を学ぶ』(6)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/11/6476173

『図録 植民地朝鮮に生きる』   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/02/6621470

朝鮮語を勉強していた大正天皇      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/09/24/6111974

「朝鮮語は禁止された」というビックリ投稿  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/15/8324407

学校で朝鮮語を禁止した理由  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327730

朝鮮語は容認されていた―愛国班2017/11/10

昭和18年8月1日付け「愛国班」第32号 編集発行人・森田芳夫

 この資料は、水野直樹ほか編著『図録 植民地朝鮮に生きる』(岩波書店 2012年9月)の81頁に掲載されている、「愛国班」の機関紙です。 昭和18年(1943)8月日1日付けですから、軍国主義の真っ最中です。

 愛国班とは昭和15年に結成された「国民総力朝鮮連盟」の末端組織で、日本内地で言えば「隣組」に相当するものです。 この愛国班では機関紙を発行していました。

 本文がすべてハングルばかりで、漢字がないことに注目されます。 これは当時の朝鮮人には教育の義務がなく、学校に行くか行かないかは自由でした。 ですから就学率は朝鮮人男子の場合5割程度、女子の場合1割程度でした。 学校では日本語教育が徹底されて、漢字も教えられますが、そうでなければ日本語が不自由になります。 朝鮮人の過半数は、特に女性の場合は大部分は日本語が不自由でした。

 愛国班は上述したように日本の隣組と同様の組織ですから、構成員の多くが日本語を読めません。 日常語である朝鮮語でなければ、書いたものが理解できなかったのです。

 朝鮮総督府(日本帝国主義)は朝鮮語を禁止するのではなく、朝鮮語で戦争政策を周知徹底しようとしたということです。

 「日本は言葉を奪った」という朝鮮史の解説が見られますが、誤りです。

日本統治下朝鮮における朝鮮語放送  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782

朝鮮語は容認されていた―愛国班 (2)2017/11/14

 これは水野直樹ほか編著『図録 植民地朝鮮に生きる』(岩波書店 2012年9月)の83頁に掲載されている、愛国班のチラシです。 全文ハングルで、漢字が全くありません。

 この本では日本語訳が添付してくれているので、内容はお分かりになるでしょう。 「⑧特に来年に徴兵制度に‥‥」とあるところから、このチラシが昭和18年(1943)であることが判明します。

 当時のハングルで、今韓国で使われているハングルとは少し違います。 分かち書きしていないし、個々の単語の綴りも違いがあります。今の韓国語を勉強している人には、ちょっと戸惑うかも知れませんねえ。

 植民地時代は朝鮮語が禁止されていたという俗説は、否定されねばなりません。

 公用語が日本語ですから、公用語を使う場所では日本語になり、朝鮮語を使わないということに過ぎません。 公用語を使う場所とは、書き言葉では公文書や契約など、話し言葉では学校や裁判、公的会議などです。 従ってそれ以外の日常会話で朝鮮語を使うことは、自由でした。

【拙稿参照】

 朝鮮語は容認されていた―愛国班  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/10/8724405

 日本統治下朝鮮における朝鮮語放送  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782

 『現代韓国を学ぶ』(6)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/11/6476173

 『図録 植民地朝鮮に生きる』   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/02/6621470

 朝鮮語を勉強していた大正天皇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/09/24/6111974

 「朝鮮語は禁止された」というビックリ投稿  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/15/8324407

 学校で朝鮮語を禁止した理由  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327730

35年前における日韓の認識差(1)2017/11/20

 1980年代の日韓関係がどんなものだったのか、ちょっと関心があって、当時の雑誌などを読み返しています。 『朝日ジャーナル 1983年4月15日号』に朝日新聞ソウル支局の小林慶二記者が書いた「訪日ジャーナリスト報告に『相互認識の落差を見る』 韓国と日本―『貧しい武士』と『金持ちの商人』」と題する記事は、当時の日韓の認識差について割と簡潔に記されており、参考になりました。 主要部分を紹介します。

(1983年)2月末から3月初めにかけて、韓国の新聞、放送各社の経済部長らが約1週間、日本を訪問した。‥‥その「訪問記」は3月中旬、各紙に掲載され、多くの反響を呼んだ。「日本の警戒心は過剰」「(韓国の)期待と(日本の)反応に大きな差」などの見出しがつけられ、日本に対する批判、苦情が盛られたこれらの記事に対するソウル在住の日本人の反応は反発、当惑が半ばしたものだった。

 韓国側の「日本に対する批判、苦情」とは、対日貿易赤字と技術移転問題についての日本側の反応のことです。 35年前の日韓の間ではこれが問題となっていました。 小林記者はこの問題について、韓国側の質問に日本側が回答する形式で書かれた『中央日報』の記事を引用しています。

韓国側- 韓日間の貿易不均衡があまりにも深刻になっている。日本はこの是正のため誠意を示さねばならないのではないか。

日本側- ‥‥貿易不均衡は産業構造と関連した問題であるから短期間で解決されるものではない。根本的には韓国が産業競争力を高めるべきであり、長期的な観点から解決しなければならない。

 韓国は1960年代後半からいわゆる輸出主導型経済開発政策を進めてきました。 これは日本や米国から技術や資本を導入して韓国内で製造し、この製品を世界に輸出して経済を成長させるというものです。 これが大成功を収めて、韓国の経済は大きく発展しました。

 当時の韓国の産業構造をもう少し分かり易く言うと、日本から部品を輸入して韓国で組み立てて製品を作り、この製品を世界各国に売って儲けるというものです。 従って韓国が儲ければ儲けるほど日本からの輸入が増えることになりますから、日韓の貿易だけを取り上げると韓国側の一方的な赤字です。 つまり韓国の産業構造自体が日本に対しては赤字、世界に対しては黒字なわけです。

 しかし韓国側は、日本との貿易が赤字と聞いただけで搾取されているという発想になるようです。 そこで「韓日間の貿易不均衡は深刻」であるから日本に対しその是正に「誠意を示せ」と要求するのです。 

 それに対し日本側は、それは韓国の産業構造の問題であって日本がどうこう出来るものではない、赤字を減らしたければ韓国自身が努力して産業競争力をつけなさい、という常識的で当たり前の回答になります。

35年前における日韓の認識差(2)2017/11/26

 韓国の有力紙『中央日報』の記事の続きです。

韓国側- 日本は市場を必要以上に閉ざしている。‥‥経済大国の日本が、そんなみみっちいことをするのか?

日本側- よく日本市場は閉鎖的だということ聞くが、それは他の国が積極的に浸透しようとする努力を十分に重ねていないからだ。 もう少し、積極的に進出してくれることを期待する。‥‥

 日本市場の閉鎖性の問題ですが、ここで韓国側が日本を「みみっちい」と揶揄したところに注目されます。 おそらく原語は「쩨쩨하다」「인색하다」「구두쇠」で、いずれも「みみっちい」とか「けちくさい」の意味です。

 日本ではやや軽蔑的に使われますが、韓国では軽蔑どころかかなりの侮辱語になります。 だからこんなことを言われないように気前よく大盤振る舞いしましょうというのが韓国らしいやり方です。 つまりこれは日本に対して大盤振る舞いを要求した発言と考えていいものです。

韓国側- 韓国が競争力を高めようとすれば、先端技術などを導入しなければならないが、これについて日本は協力すべきではないか。

日本側- 技術というのは「ギブ・アンド・テーク」であり、一方的なものではない。 日本は対価を払って欧米から技術を学び、1年間に米国へ技術ロイヤリティを6億ドル以上も払っている。 ‥‥韓国へ技術を与えたくてもそう簡単にはいかない‥‥

 これを分かりやすく言うと、韓国は日本から技術をあわよくばタダで手に入れたいと言っているのに対し、日本側はそんなことは出来ないと答えたものです。この答えは当然のことです。

35年前における日韓の認識差(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/20/8731033