韓国・朝鮮の歴史批判に向かわない日本歴史研究者2018/05/13

 ちょっと古い論考ですが、『朝鮮史研究会論文集 №39』(2001年10月)に、深津行徳「“古代朝鮮”という空間」に、次のような一文があります。 なお一部「○○」と伏字にしています。

より重要な問題は、その「○○の歴史」を語るさいに、恣意的な史料の選択が行なわれることである。彼らの一部は、そもそも歴史事実など存在せず、それゆえ歴史とは事実を解明することではなくて、自説をさまざまな材料から説明することであるとする。したがって、かれらの叙述のなかに見える明確な事実誤認を指摘することは、彼らの主張をただすための本質的で有効な手段とはなり得ない。彼らはそれを容易に受け入れ、あるいは別の「事実」を自らの叙述のために用意するであろう。(20頁)

 この一文は右派の「新しい歴史教科書をつくる会」に対する批判です。 従って「○○」は「日本」なのですが、これを「韓国」あるいは「北朝鮮」と入れ替えて読み直して下さい。 すると韓国や北朝鮮の歴史学に対する批判として、今でも十分に通用するものです。

 論者の深津さんは日本の右寄りの歴史の登場に危機感を抱いたようですが、私はこれを韓国・北朝鮮への批判と読み替えて、成程その通りだと思わず膝を打った次第です。

 日本の革新・左派系歴史研究者は、右寄りの歴史に対する批判の方法・観点でもって韓国や北朝鮮の歴史に対しても同じように批判したらいいのにと思うのですが、そういうことは昔も今もないですねえ。 

 歴史に限らず日本の革新・左派の諸君は日本を厳しく批判するのですが、その論理を使って韓国や北朝鮮を批判することはしないです。 批判の論理が日本だけに適用されて、韓国や北朝鮮に対してはその批判の論理が喪失するようです。 これが革新・左派の特徴と言えるのでしょうかねえ。

【関連拙稿】

 「南」に厳、「北」に寛だった日本のマスコミ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/24/8832065