朝鮮総督府は官吏に朝鮮語を奨励した2019/06/06

 日本帝国主義は植民地朝鮮で朝鮮語の使用を禁止した、という俗説を今なお信じている人がいます。 当時は公用語が日本語でしたから、公文書・契約などの記載はすべて日本語であり、公的会議・裁判等で話される言葉も日本語です。 学校でも授業は日本語で行なわれました。 しかしそれ以外の場所での日常生活では、朝鮮人たちは朝鮮語を使っていました。 そうであったのに、朝鮮人は親と朝鮮語で話したら警察に捕まったとか、ハングル詩を書いたら特高から拷問を受けたとか、虚偽の歴史を言う人が今なおいますねえ。

 ところで植民地政府である朝鮮総督府では、内地人(日本人)下級官吏に朝鮮語の習得を奨励していた事実があります。 下級官吏は行政を住民に直接的に施行する業務を担います。 住民たちには行政の趣旨を理解させて守らせ、時には処罰をもって臨む仕事です。 しかし住民の圧倒的多数は朝鮮人であり、その大半が日本語を十分に解していませんでした。 従って下級官吏たちは、朝鮮語を知らなくては仕事にならなかったのです。

 朝鮮総督府は当初より、下級官吏に朝鮮語を奨励しました。 初代総督である寺内正毅は、大正4年(1915)1月に各道の内務部長に次のように指示しています。

注意しておきたいのは、官吏特に下級官吏に朝鮮語を奨励することは、従来たびたび言ってきたことであるが、どうもよく行なわれていない。 いずれ何とか将来に於いて確かに実行が出来るような方法を設けたいと考えているが、各道に於いてもさらに一段の注意をしてもらいたい。

地方に職を奉じて5年にも6年にもなって、未だ一つも朝鮮語を話せぬ者が大分いる。 かかる有様では朝鮮人と内地人との間を融和していくことは難しいと思う。 下級の内地人官吏が朝鮮語に通じて、鮮人の状態がよく脳裏に映っていかなければ、本当の政治は出来ないと思う。 これは決して軽微なことではない。 十分の注意を望んでおきたい。 

或いは人が誤って、今日の朝鮮人がよく内地語を話すようになってきているから、我々は朝鮮語を学ぶ必要がないと、こう考える人がいるかも知れないが、そんな訳のものではない。 朝鮮人のある部分は内地語を話したところで、彼ら脳裏は直にその通りに変わるものではない。 適当に保護していくには、内地人たる者は役人をはじめ、よく朝鮮語が分かるようにありたいのは当然の希望である。 新進官吏、特に下級の新進官吏には努めてこれを奨励してもらいたい。 (以上 朝鮮総督府『朝鮮彙報 大正4年3月1日』 216頁。引用に当たっては現代文に書き直した)

 朝鮮総督府は朝鮮人に朝鮮語を使うことを容認し、むしろ朝鮮人との意思疎通を図るために日本人官吏たちに朝鮮語の習得を勧めているのです。 植民地時代、朝鮮人に朝鮮語を禁止して日本語を強制したという俗説が間違いであることは明白でしょう。

【拙稿参照】

朝鮮語は容認されていた―愛国班 (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/14/8727138

 朝鮮語は容認されていた―愛国班  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/10/8724405

 日本統治下朝鮮における朝鮮語放送  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782

 『現代韓国を学ぶ』(6)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/11/6476173

 『図録 植民地朝鮮に生きる』   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/02/6621470

 朝鮮語を勉強していた大正天皇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/09/24/6111974

 「朝鮮語は禁止された」というビックリ投稿  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/15/8324407

 学校で朝鮮語を禁止した理由  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327730

尹東柱のハングル詩作は容認されていた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283

第三次教育令ー朝鮮語教育は廃止されたのか  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/12/8971509

国民健康保険と国民年金は1961年から2019/06/12

 毎日新聞の2019年6月11日付に「漆黒を照らす79 北朝鮮帰国事業から60年 苦難の記憶 風化させぬ」と題する記事がありました。 https://mainichi.jp/articles/20190611/ddl/k27/040/333000c

 筆者はアジアプレスの石丸次郎さんです。 60年前の北朝鮮帰国事業の悲惨な実態について書かれたものですが、その中で次のような記述があり、あれ?これは間違いではないのか?と思われる部分がありました。

50年代、「在日」の境遇は厳しかった。 国民健康保険にも国民年金にも加入できず、就職差別で働き口も少なかった。

 帰国事業の背景には、当時(1950年代)の在日朝鮮人たちの境遇が厳しかったことがあるのは事実ですが、そこに「国民健康保険」と「国民年金」に加入できなかったことが挙げられていることにビックリしたのです。

 まず国民年金ですが、これが施行されたのは1961年からです。 つまり帰国事業が始まる1950年代末に国民年金制度はありませんでした。 従って記事にあるように、在日朝鮮人が「国民年金にも加入できず」は間違いです。 なお厚生年金は戦争中に始まっています。 これは当初は戦費調達という目的もあったようですが、戦後も制度は続きました。 従って在日朝鮮人でも勤め人は、厚生年金に加入していた場合があります。

 次に国民健康保険です。 それまでは自営業や農家などには今の国民健康保険の前身となる健康保険組合が各地域にありました。 しかしこれは任意加入で、掛け金も高かったといいます。 それ以外に勤め人の場合は職域健康保険があり、これは雇用主の一部負担がありました。 1954年調査で、国民のうちどちらかの健康保険に加入していた人の割合は三分の二で、残りの三分の一は健康保険に入っていなかったのです。

 すべての国民が健康保険に入る国民皆保険制度となったのは1961年からです。 従って記事にあるように、帰国事業が始まった1959年代末に在日朝鮮人が「国民健康保険に加入できず」は間違いです。

 以上のように、国民年金も国民健康保険も制度の開始は1961年です。 なおこれには国籍条項があって、在日朝鮮人は加入できませんでした。 加入できるようになったのは、国民健康保険は1965年の日韓条約締結から、国民年金は難民条約により1982年からです。

 1950年代の在日の境遇の厳しさの根拠として、1961年に始まった国民健康保険や国民年金を挙げることは間違いなのです。

李朝時代の文化衰退(1)2019/06/18

 以前から思っていたのですが、李朝時代の文化が日本のそれよりもみすぼらしく感じることでした。 絵画や彫刻、陶磁器、文学等々で、これは素晴らしいなあと感心するものが全くないことはないのですが、かなり少ないという印象です。

 こんな印象を口外すれば民族差別を煽るものという批判されそうで、今はあまり聞くことはありませんが、日韓併合直後にはこれを開陳する朝鮮総督府高官がいました。 李王職次官の小宮三保松という人物で、大正4年(1915年)に「朝鮮芸術衰亡の原因およびその将来」と題する小論を発表しています。

 彼は、新羅や高麗時代に隆盛した美術工芸が李朝時代になって衰退したと論じます。 なお引用に当たっては現代文に書き直しました。

新羅から高麗朝に至るまで隆盛を極めた朝鮮の工芸が李朝に及びて漸衰し、今日ほとんど衰亡に瀕し、わずかにその名残を留め、ある種の工芸に至りては全くその跡を絶ったのは、その原因は奈辺に存するのであろうか、自分の観るところでは、それはおよそ三原因に帰する

 三つの原因とは、①仏教の排斥、②儒教の輸入、③制度の弊です。 先ずは①仏教の排斥です。

李朝では前朝の高麗が滅亡したのは仏に佞した(媚び諂うの意)為だと確信し、李朝の士君子大官連中にはこの考えが余程深く染み込んでおったと見えて、仏はあくまでも排斥してその滅亡を図らねばならぬとの思想が瀰漫(びまん)しておった。 

李朝が仏排斥を企てるに至ったのであるが、そこで寺院も新たに興らず、仏像も新たに鋳造せらるること無く、仏教美術はほとんど絶滅の姿に陥った。 ‥‥ 李朝では仏教排斥を企てし為、信仰は衰え、従って仏教美術が萎靡不振(いびふしん)の状を呈し、一般美術もまた衰えてしまった。

 李朝時代は仏教が弾圧され、それまで大切に信仰されてきた仏像・仏画などは廃棄されるか、日本などに輸出されたのでした。 次に②儒教の輸入です。

李朝は大いに儒教のうち朱子学を尊重したが、惜しいことにこれを誤り読んだのである。 その結果は王侯、士大夫には娯楽や趣味は有り得べきものではないと信じた。 例えば書画や古器物を弄ぶ如きは一種の罪悪‥‥と言っては少し語弊があれど、潔しとしなかったのは事実であって、王侯士大夫は物を弄ぶことが出来ぬものと確信し、これを敢えてする者は排斥された。

衣食住に絶対必要なものは、芸術品とも美術品とも言わない。 そこで李朝の儒者は不必要品を賞翫することを避けたから、芸術品や美術品は自ら排斥されたのである。それで士大夫の家に行ってみると、書画とか古器物とか花瓶とかいう美術工芸品は一点もなく、無趣味極まるものである。 ‥‥ 根本において、これに対する趣味の欠如しておるのが最大原因である

支那は儒教の国ではあるが芸術はよく発達した。 これに反し李朝はこれを誤り読んだ結果、全然その趣を異にしている。 ある鮮人がその祖先の作りたる書幅を所蔵しながら、己の祖先に書筆を弄したる者あるを恥辱として、落款を削除したという奇談がある次第である。

 李朝末期の開港期に西洋人が多く朝鮮を訪れるのですが、彼らの旅行記などでも朝鮮では見るべき美術品がないことが盛んに書かれていますねえ。 韓国ドラマの時代劇では、李朝時代の家の中で飾り棚に花瓶などが置かれている場面がよく出てきますが、あれはウソですね。

 最後に③制度の弊です。 小宮は「制度の弊もまた工芸美術の発達を阻止した」として、「制度の弊」の具体例を挙げます。

ここに一人の画工があるとする。 大官や勢力を有する者が数十・百枚の絵を描くことを命ずるが、何らの報酬なくすべて無代でその需に応ぜねばならなかった。 或いはまた、何か珍奇な品物を所持していることを観察使や大臣らが聞知すると、その提供を迫るのであるが、これも無論タダで取り上げる。 もし応じなければ直に獄に投ぜられる始末であった。

ある地方のある百姓が大層よく実を結ぶ果樹を植え込んでいたが、間もなくそのことが郡主に知れたので、郡主は果実を持参すべく命じた。 よってやむなく一籠献上したが、後に更に残りをみな持って来いと厳命され、全部取り上げられてしまった。 郡主は諸所にそれを送ったものと見えて、その翌年にあちこちから無数に要求され、百姓に持ってくるよう命じた。 百姓は見るも気の毒なほど弁解に苦しみ、またもや全部取り上げられた。 そこで彼はかかる苦しき目に遭うのは畢竟この樹がある為だといって伐ってしまった

ある宣教師が朝鮮の一陶工と懇意になったが、腕も利くようだし、陶土もいいのが出るので、宣教師は本国から若干の釉薬を取り寄せて陶工に与えて言うには、「私にこの薬を使ってコーヒー茶碗を作ってくれ」と注文した。 その後しばらくして陶工のもとを訪れると、立派なコーヒー茶碗が出来ている。 宣教師も驚いて「これほど巧みに出来ようとは思わなかった、この腕前がある以上はえらい金儲けになる。 自分も更に注文するが、広く販売するのがよい。 釉薬はいくらでも取り寄せよう」と喜んで別れた。 

それから数ヶ月を経過して陶工を訪ね「どうだ、何か立派な物が出来たか、一つ見せてくれ」と言ったところが、陶工はすこぶる妙な顔をして「貴下はあの薬をくれて、続けて拵えるよう言ってくれたが、実は釉薬はみな捨ててしまった。 貴下にあげたような器物を多く作れば私の家はたちまち滅び、かつ自分の命がなくなる。 珍奇な物を作り出せば精力家らは数十・百個の無代提供を迫るので、もしそれが出来ぬとなれば牢に入れられる。 牢に入れられると私の家もしくは親類の者が金をもって命乞いをすればよいけれども、金無きゆえにそれはダメだから結局牢死せねばならないことは、火を見るより明らかであるから、貴下の親切に下さった釉薬はみな捨ててしまった」と告げた

制度の弊もここに至れば、工芸美術も亡びざるを得ないであろう。 (以上 朝鮮総督府『朝鮮彙報 大正4年8月1日』12~17頁)

 ここに描かれているエピソードは、おそらく事実だろうと思われます。 李朝末期に朝鮮を訪れたイギリス人女性旅行家のイザベラ・バードの旅行記には、これに類する話がたくさん書かれています。 

 小宮は朝鮮の美術工芸の歴史について以上のように非常に否定的ですが、実は将来のことについては肯定的です。 これは次に紹介します。

李朝時代の文化衰退(2)2019/06/24

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/06/18/9088742 の続きです。

 前回の最後の部分で「小宮は朝鮮の美術工芸の歴史について以上のように非常に否定的ですが、実は将来のことについては肯定的です。 これは次に紹介します。」としました。 小宮の小論は表題が「朝鮮芸術衰亡の原因およびその将来」とあるように、将来の展望も論じているものです。 過去の否定的な姿を描いた次に、朝鮮の芸術・美術の将来を論じています。  なおこれが発表されたのは100年以上前の大正4年(1915年)ですので、その点を念頭に入れて下さい。

今日の朝鮮でなお芸術もしくは美術と称し得べきは朝鮮人の冠っておる帽子、靴などで、意外に精巧なのは裁縫である。 例えば朝鮮人の着る夏季用の薄物の縫い方などは、一種の芸術を言い得る。全く美術的で巧みに曲線に縫っていくところは、日本の足袋、股引きの裁縫に似ているが、あの難しい裁縫を鮮人は平気でやっている。 これは朝鮮芸術の一つの名残りと言ってよい。

朝鮮人は元来芸術を解せない国民ではないのは勿論、特に手指は精巧な働きを為し得るのであるから、芸術品、美術品を拵え出すことについては、むしろ適当な国民である。 ただ今日は芸術についても美術についてもその思想が枯渇しているから、かくの如き現状にあるに過ぎない。

 小宮は、朝鮮人は手先が器用で裁縫などでは芸術と言っていい、またかつて青磁や螺鈿、漆器、建築の優れた作品を製作していたのであるから、李朝時代に廃れたとしてもこれから再興が容易であろうと展望します。 そして絵画については更に詳しく論じます。

朝鮮の絵画も同様な運命に陥った ‥‥ 絵を描くことは士大夫の潔しとしない所であったから一向に振るわなかった。 もっとも近世に至りては阬堂とか大院君とかいう高貴の人々が画筆を弄したが、これはむしろ例外にて、一般はこれを為すことを恥じた傾向がある。‥‥ 今日若干の画家あれど、内地の有り様に比較せば、ほとんど言うに足らぬ。 絵画もまた他の美術品と同じく単独に発達することは出来ないものであって、一般社会の進歩と運命を同じうするもの故、朝鮮の社会が進んでくるに従って絵の再興することは決して絶望ではない。

李朝に至りて絵画の衰えたことは前述の通りであるが、ひとり肖像画は意外なる発達を遂げている。 李朝の肖像画は西洋の油絵に比しても遜色なき程にて、いわんや支那の肖像画とは比較にならぬ位に優秀であって、狩野や土佐や文晁、応挙、崋山等の肖像画にも比するも上であるから、具眼の士はこれを見て驚嘆するが、その理由は王侯貴人は必ず肖像を用いて祖先の祭をなす習慣があるから、王侯の肖像画は画工が食禄をもらって描いた。 ゆえに極く真摯で丁寧に写生・著色してある。 これは李朝の芸術品として特色をもっている。

   小宮は小論を次のようにまとめています。

要するに今日の朝鮮人は工芸美術に対する趣味・観念が枯渇しているから、にわかに復興を期待するは無理ではあるが、漸次これが再興を待望することは可能であって、また新たなる芸術が興起してくることも今日より想像し希望することができる (以上 朝鮮総督府『朝鮮彙報 大正4年8月1日』17~19頁)

 これを現代にまで敷衍して考えると、植民地時代では芸術・美術を目指す朝鮮人の多くの若者が東京に留学するなどして、その分野の知識や創造力を磨き、力を発揮しました。 解放後は南の韓国では1960年代以降の産業化・高度経済成長によって国か豊かになるのに伴い、芸術・美術はさらに発達しました。

 一方、北朝鮮では首領様を強調するものばかりで、主体思想によって芸術・美術の観念が枯渇してしまった状態と言えるでしょう。 つまり李朝時代に先祖返りしたのが今の北朝鮮と考えればいいですね。 朝鮮総連なんかでは北朝鮮の芸術・美術を称賛する人がいますが、本当に心の底から感心しているのでしょうかねえ。

毎日のハンセン病記事2019/06/27

 6月24日付け毎日新聞のコラム『憂楽帳』に、「原告の母親」と題する一文が載りました。 https://mainichi.jp/articles/20190624/ddf/041/070/008000c

 その中の次の部分に、ひょっとしたら、と思いました。

その取材で原告側の弁護士からこんな話を聞いた。       原告のある男性は、母親が元患者だった。訴訟に参加する際、妻にそのことを初めて伝えると、妻の実家は男性に離婚を求め、妻と子供を実家に帰した。   「男性は母親と妻の実家に行って、隠していたことを2人で土下座して謝罪し、戻って来てほしいとお願いをしたが、聞いてもらえなかったそうです」       

ハンセン病への偏見をなくしたいと始めた裁判で、逆に浮き彫りになった差別意識。母親の胸中はいかばかりだっただろうか。弁護士の顔も悲痛だった。

 私には2・30年ほど前まで付き合っていた在日男性がいて、今はもうお付き合いしていないのですが、3年ほど前に彼の親戚筋の方と偶然に知り合い、彼のその後の状況を知ったのです。 この毎日の記事がその状況とよく似ていてので、ひょっとして彼のことかと思った次第。

 しかし肝心なところで違いがあるので、やはり別人だろうと思われました。 それはともかく、この記事の内容が真実であるとしたら、次のような場面が展開したと想像できます。

男性の母親が元患者であることは家族のみが知る秘密であって、勤め先や近所等々の周囲は全く分からなかった。 だからそれを知らない今の奥さんと結婚し、子供もできた。 しかし男性はハンセン病訴訟の原告に立つことを決意した。 裁判を提起する側だから名前、住所、年齢、顔写真に至るまで、世間に晒すことになる。

男性は妻に、自分の母親がハンセン病の元患者であり、裁判を起こすことを話した。 妻はビックリして、実家にこれを知らせた。 実家もビックリして男性に対し、よくも騙してくれたな、娘を返せ、離婚しろと迫った。 男性と母親は土下座して隠していたことを詫びた。 

 こんな経過だったろうと想像されます。 ここで疑問が湧きます。 男性家族は施設から都会に引っ越ししてからは、母親が元患者であったことを隠し通すことができる状況でした。 しかし男性は裁判を提起することによって、母親が元患者であることを公表しました。 そして、そのことによって離婚の危機に陥ったのでした。 

 家族だけで隠し通してきた、そして結婚した相手にも知らせてこなかった家族の秘密、平穏無事に生きていけばそのまま隠し通せることが可能だった秘密‥‥。 それを敢えて公開する‥‥

 何が正解か? もし自分だったらこうしただろうとかは言えます。 しかしそれは当事者でない者の気楽さから出るものです。 そんなことを考えさせられた毎日のコラムでした。 島崎藤村の『破戒』を思い出させますね。