尹美香さんのフェースブック(1)2020/05/12

 従軍慰安婦の当事者であるイ・ヨンスさんは、この問題で30年間にわたり先頭になって運動してきました。 日本大使館前で毎週水曜日の集会に毎回のごとく出て若い支援者と交流し、アメリカの議会でこの問題を証言したり、来韓したトランプ大統領に飛び入りで会ったりと活躍してきました。 ところが去る5月7日に突然、もう水曜集会を止めろ、支援団体は集めた金を被害者の元慰安婦に渡していない、寄付金はどこに使ったのか等々と発言して、大きな話題になっています。

 これに対して韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協 ―現正義記憶連帯、以下「正義連」)代表だったユン・ミヒャン(尹美香)さんが翌8日にフェースブックで自分の心境を述べています。 その中で、イ・ヨンスさんが挺対協に最初に電話した際、自分は慰安婦でないと告げたということが書かれていて、え!あのイ・ヨンスさんは実は慰安婦じゃなかったのか!と、ちょっとした話題になりました。

 そこで、これが書かれた5月8日付のユンさんのフェースブックを探しました。 該当部分はわずかですが、それ以外にも支援者がどういう気持ちでこの活動してきたかについても書かれていて、私には参考になるものでした。 長文ですが、全文を二回にわたって訳してみます。

「被害者」     多くのものが内包されている単語であり、たくさんの内容、歴史が込められた表現です。

その重みの前で「被害者とともにする活動」をしている活動家たちは何も言わずに、最小限自分が身を投じている活動の正当性を守るための弁護さえも出来ないまま沈黙でじっとしているしかない状況があります。 ただ活動によって私たちの正当性をお見せするしかないと決心して、本当に全身を挺するくらいに、あのように‥‥。 被害者とともにする運動というのは、そういうものです。

だから私は後輩の活動家に「無条件に被害者の前では頭を垂れなさい」「私が間違っていたと言いなさい」 そうすれば後に私たちは、自分にそれだけの価値となって全部返ってくるものです。 おばあさんたちも分かってくれるものです。 待つことが必要です‥‥。 そのような本当に辛いお願いも、たくさんしてきました。

私に対応しろという方たちがおられます。 しかし今日も私はこのように消極的に、私の考えと気持を込めた文章で代弁するしかありません。 対応をしなければならない相手が、被害者であられるからです。 1992年に、イ・ヨンスおばあさんが申告の電話をした時、私が事務室で電話を取り、蚊の鳴くような声で震えながら「私は被害者でなくて、友達が‥‥」と言った、その時の状況をまさに昨日のことのように覚えています。 そしてほとんど30年余りをともに歩んできました。

水曜集会で私が経過報告をした後になれば、ぎゅっと抱きしめてくれて、「最高だ」とおっしゃったおばあさんの言葉に、一人前の大人のような、いやおばあさんになっていく私は、ただ幼い子供のように喜びました。被害者の称賛は私が活動する誇りを持つようにしてくれて、被害者の笑いは私を、身を投じて活動に狂うほどのエネルギーにしてくれたためです。

そうであった私は慎ましい声で、今度の第21回国会議員選挙に比例代表として申請したという話をして、おばあさんの反応を緊張して待ちました。 そして私は「よかった」とおっしゃったおばあさんのお言葉、また私の議員活動の計画について「そうだ、そうだ、そうしよう」とおっしゃっていたおばあさんのお言葉に、踊りを踊りたくなりました。おばあさんの支持は、私にはそんな意味だったからです。 もちろん今は「私たちの問題はすべて解決して、出て行け」という声に替わりました。

 以上が、ユンさんがフェースブックに書いた文の前半です。 このなかの「1992年に、イ・ヨンスおばあさんが申告の電話をした時、私が事務室で電話を取り、蚊の鳴くような声で震えながら『私は被害者でなくて、友達が‥‥』と言った、その時の状況をまさに昨日のことのように覚えています」という部分ですね。 

 これは二つの解釈が可能です。 一つは、イ・ヨンスさんは当初自分が慰安婦でないことを言っていたが、いつの間にか慰安婦の当事者になってしまったということ。 もう一つは、慰安婦を名乗り出ることは当時としてはあまりに難しくて、本当は慰安婦なのに友達に仮託して言ったということです。

 どっちなんでしょうねえ。 いずれにしてもユンさんには、イ・ヨンスさんが慰安婦だったと判断した根拠は何かを提示してほしいですね。