巌谷一六2020/07/01

松浦武四郎の建碑 京都菅原院天満宮

 巌谷一六なんて知っている人は、ほとんどいないでしょうねえ。 明治時代の書家で、貴族院議員。 詳しくはウィキペディアでも調べてくださいね。 ↑の石碑に巌谷一六が刻まれています。

 彼の息子が巌谷小波。 明治から昭和にかけて活躍した児童文学者です。 こちらの方が有名ですね。 この巌谷小波を研究している韓国人学者がいるという毎日新聞の報道がありました。6月30日付。 https://mainichi.jp/articles/20200629/k00/00m/040/201000c

韓国・釜山出身の金さんは18年前、九州大大学院の留学生として来日。 大学の図書館で日本の植民地時代を中心に発行された「京城日報」を読んでいた時、巌谷の記事を見つけ驚いた。 巌谷は、海を渡って当時の朝鮮(現韓国)も何度も訪れ、童話を広めていた。 ただ、驚いたのは、韓国にも「小波」を名乗った児童文学者、方定煥(パンジョンファン)(1899~1931年)がいたからだ。 金さんにとっての「小波」は方定煥で、日本の巌谷のことは知らなかった。

 本当かなと思って平凡社『新版 韓国・朝鮮を知る事典』で「方定煥」を調べてみると、

朝鮮児童文学運動の先駆者。 号は小波。 ソウル生まれ。日本の東洋大学に学び‥‥(463頁)

とあります。 なるほど、記事は本当でした。

 ところで私の関心は巌谷小波ではなく、父親の巌谷一六です。 一六は、蝦夷の地を「北海道」と名付けたことで有名な松浦武四郎と交友関係にあった人です。 松浦武四郎については、私はかつて彼が建てた石碑を調べたことがあります。

 松浦武四郎の石碑をたずねて http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuhachidai

 松浦武四郎がテレビドラマ化 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/02/8930549

 武四郎が西日本の天満宮二十五社に建碑しました。 その第一番目が京都の菅原院天満宮にあります。↑ この石碑に「巌谷修」という名前が刻まれています。 この「巌谷修」が巌谷一六の本名です。

 一六の三男が巌谷小波で、日本の児童文学史上で超有名人なのです。 その小波が植民地下の朝鮮に行って児童文学を広めていたとは知りませんでした。 そして韓国でも児童文学者として有名な方定煥の号が「小波」であるのは巌谷小波からとったものであるとは、新鮮な驚きでした。

 新たな知識を得ました。 毎日新聞の記事はうれしいですね。

巌谷一六(2)2020/07/01

松浦武四郎 双六

 松浦武四郎は、二十五の天満宮を巡拝する双六を作成しました。 ↑がそれです。 作成年代は明治17年(1884)と推定されます。 この双六の題字は「聖跡二十五霊社巡拝双六」ですが、これを書いたのが「古梅居士」。 クリックして拡大すれば見えます。    「古梅」は巌谷一六の号の一つです。 ですから、この双六の題は巌谷一六が書いたものと分かります。

 かつて調べたことのある松浦武四郎に関連して、巌谷一六・小波を懐かしく思い出した次第。