在日の低学力について(1)2021/04/28

 前回で、在日の自殺率に関する金泰泳氏の「在日の自殺率」に関する論稿を取り上げました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/20/9369020 この論稿では他に、在日の子供たちの低学力について次のように論じているところに目が行きました。

筆者は、ある「在日」青年が集まって活動する団体で一時活動していた。 当時、日本の学校に通う「在日」の中では非行に走ってしまう子、また「低学力」に苦しむ子も少なくなかった。 「在日」の生徒の学力を示すデータはほとんどないが、大阪府Y市の中学校が出した統計では、日本人生徒は学力の上位層、中位層、低位層の割合が概ね30%ずつであったが、「在日」生徒では、それぞれ10%、25%、65%という結果であった。 それは差別による展望のなさや家庭環境になどいろいろな背景があるだろう。

筆者はその団体の会議で、民族楽器や舞踊など民族文化を伝えることはもちろん必要だとおもうが、それに加えて、学力保障の取り組みをしていかなければいかないのではないかと提起したことがあった。 そしてその提起をめぐって議論になり、その団体の中心的役割を担う人が言ったのは、「学力保障は民族教育の範疇ではない」ということであった。 その場にいるほとんどの人がその人の意見に賛同し私は孤立した形になった。 しかし、なおも「学力保障の取り組みは必要だ」と食い下がる筆者に、今度は「そんな考えだからダメなんだ。朝鮮人やめてしまえ!」という発言が飛び出したのである。

その場(団体)において、「学力保障」というのは個人主義であり能力主義である。 私たち(団体構成員)が大切にしているのは「民族集団としての仲間づくりでありつながりだ。」 実際に学力をつけて学歴を積んで安定した仕事に就く「在日」の少なからぬ人が「在日」」コミュニティを離れ、日本社会に埋没していってしまっているじゃないか。 彼/彼女(団体構成員)たちはそう言いたかったのだろう。 (以上『抗路8』2021年3月 95・96頁。 カッコ内は引用者)

 これを読んで、1970年代の民族差別と闘う運動団体でも同じことがあったなあと思い出されました。 運動団体は〝勉強”よりも〝民族差別と闘う”ことを重要視するものだったのです。 子供会活動では朝鮮人の子供たちには一応勉強を教えるのですが、教える側の学力そのものにかなりの問題がありましたし、指導者本人が「子供会は‘勉強塾’になってはいけない」と強く言っていました。 ですから子供らには「本名を名乗れ!」と繰り返し指導するばかりで、勉強よりも遊びの場になるしかありませんでした。

 そして何か差別反対闘争や行政闘争があれば、勉強なんか止めてそっちに行こう!というのでした。 その闘争の現場では、「お前らは朝鮮人の子供らがどんな気持ちでいるのか分かっているのか!」「その子のお母ちゃんがどんなに辛いのか知っているのか!」などと怒鳴るように叫んで、相手方を追及します。

 在日の子供たちの学力が低い傾向にあったのは、私の経験からしても事実でした。 しかし民族主体性を訴える運動団体では、子供たちの学力向上は主たる関心の外にありました。 日本の学校でいくら勉強しても将来は土方になるかパチンコ屋で働くぐらいしかない、そうでなければヤクザだ、ということが公然と言われていた時代でしたね。

 運動団体はそんな時代のなかで、勉強よりも民族主体性の確立を目指していました。 しかし民族主体性とか言ったって、本名をハングル風に呼んで民族を隠さないくらいでしかありませんでした。 民族にとって一番重要な朝鮮語は、ほとんどが初級段階でしたね。 (続く)

在日の自殺死亡率  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/20/9369020

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