親の靴職人を継いだ在日子弟―『抗路9』座談会2022/02/24

 雑誌『抗路』は以前に論じましたように、思想的立場が左派であることを明確に打ち出している「在日総合誌」です。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212 しかし「在日」「韓国」を具体的に体験している人たちの論考ですから、私の知らない事実があったりして、それなりに参考になります。

 ですから私は、考え方が違いますが『抗路』を評価しています。 2022年1月の『抗路』9号に「座談会 新・猪飼野事情」と題する記事があります。 大阪の生野区で活動する在日やこの地区の学校教員だった日本人、五人の座談会です。 この中で古川さんという元教師が次のような体験談を話しています。

僕が鶴見橋中学で受け持った最初の卒業生の在日の子で、今は57・8歳になるけど、勉強がものすごく出来て天王寺高校に行った子がおった。 なのに、五月の連休で辞めて家におると聞いて訪ねてみたら、靴職人の父親の横で靴を作っているんです。 

「なんで辞めたんや、勿体ない」と言ったら、親父さんに「先生、日本人か」と聞かれた。 そうだと答えたら、「それじゃ分からんのぉ、この子、天高に行ったけど、この学力じゃ国公立の医学部は無理や。 私立の医学部にやる金はない。 うちら在日の子は、たとえ京都大学に入っても文学部や法学部なんかだったら、卒業してもどんな会社も役所も採用してくれへん。 

それやったら、早く技を身につけて靴職人になった方がまともに生きていける。 まだこいつらはマシや。 こいつらの上の世代は、ヤクザになるかパチンコ屋か焼肉屋になるしかなかったんや」とアボジに言われて。 (44頁)

 「天王寺高校(天高)」とは、大阪の公立高校の中で「御三家」と言われていた最高レベルの学校の一つです。 「今は57・8歳」とありますから、この高校に進学したのは1970年代後半と判明します。 

 それはともかく、靴職人である父親が子供の通う高校を辞めさせ、靴製造の家業を継がせたというところにビックリしました。 というのは当時の在日は一般的に、お金を稼ぐためにこの日本にいる、まともな企業の就職なんて難しいから日銭を稼ぐ仕事か小さな自営業をやる、それは仕方なくやっているのであって子供には継がせたくない、という人が多かったからです。 というより、ほとんどでした。 ですから靴職人の在日の親が息子にその家業を継がせた、しかも入学して直ぐの高校を辞めさせてまで、というところに、へーっ!これは珍しい!本当か?!と驚いた次第。

 1970年代の在日社会は男尊女卑の考えが強く残っており、女子の進学には反対する親が多かったのですが、男子は違っていました。 ましてや天高という進学名門校に行ったのですから、狭い地域の在日社会では評判になって、親には自慢の息子となったでしょう。 だから金のことは心配するな、もっと勉強しろというのが普通だったと思うのですがねえ。  そうなのに入ったばかりの高校を辞めさせて家業を継がせるというのは私には信じられず、もしこれが本当なら何か「裏」があったのではないかという疑問を抱きました。

 ここからは私の憶測になるのですが、「裏」というのはこの親が密入国者だったのではないか?ということです。 家業に固執して狭い範囲内で過ごすことによって長年秘密がバレないで来た家庭が、これからもこの秘密を維持しようして子供に家業を継がせたのではないか? 子供もそれを知っていて、親友のいる学校を辞めて靴製造の家業を継いだのではないか?

 こういう憶測は本来やってはいけないものですが、当時のごく一般的な在日を知る私にはどうも納得できないと言うか、ちょっと異常としか思えなかったので、あえて憶測をしてみました。

【追記】  

 靴職人といえば、私は岡林信康の「チューリップのアップリケ」を思い出します。  放送禁止歌に指定されました。  今も禁止されているのですかねえ。  禁止理由は、靴製造は部落産業で靴職人は部落民、だから差別を助長する、というものだったという記憶があります。  関心のある方は、検索すると出てきます。  (2月25日 記)

【『抗路』に関する拙稿】

在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212

戦後補償運動には右派も参加していた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/07/9461960

戦後補償問題の解決とは?―『抗路』外村大を論ずる http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/14/9464117

在日誌『抗路』への違和感(1)―趙博「本名を奪還する」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/27/9381682

『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666

趙博さんの複雑な名前     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171893

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

在日総合誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000

コメント

_ 昔昔の話 ― 2022/02/24 07:16

日立就職差別事件の解決が1974~1975年、金敬得氏司法研修所入 所事件が1977~1978年 1970年代後半というと、大手銀行などへの就職は難しかったかもしれませんが、ぼつぼつと就職差別が無くなっていき、バブル時代になると人材がほしい大手銀行なども在日にこだわらなくなりました(はずです)。
その親の世代となると、一般的な韓国人ですと、手職人への蔑視がひどかったはずです。平均的日本人よりよほどカネになるパチンコ業であれば別ですが、息子に靴職人を選択させるのはやはり珍しいですね。
在日子弟は、ピンクか金貸しかパチンコかやくざしか進む道はないなどと言われていたのはそれより少し前、その頃であっても成績が悪ければその可能性はあったかも知れませんが、優秀であれば、時代を開くという自負心があれば大手への就職はできたかも知れません。ともかく、手職人を選択させたということには確かに驚きがあります。

_ 海苔訓六 ― 2022/02/24 08:01

野村進「コリアン世界の旅」
の中で兵庫県神戸市長田区の在日朝鮮人靴職人部落に取材した章がありましたが、
今回のブログ記事を読むと大阪生野区にも在日朝鮮人の靴職人部落があるようですね。
私は野村進さんの本を読む以前は在日朝鮮人が従事する仕事は主にパチンコ(賭博)、焼き肉店(飲食業)、そして廃品回収業や廃棄物処理業のような被差別職業が多いと思っていたので靴「職人」みたいな代々技術継承する職人の仕事に在日朝鮮人が従事していると知って、意外というか驚いた思い出があります。
野村進「コリアン世界の旅」は、それまで知らなかった在日朝鮮人の生態?というか実体を知ったので色々新鮮な驚きを与えてもらいました。
長田区の靴職人部落のエピソードもそうでしたけど
現在日本国内に居住している在日朝鮮人の大半は密入国や出稼ぎ目的で日本に来た在日朝鮮人やその子孫が大半であり、戦時中の強制連行はほとんど関係ない、という検証とか。
それ以前の私はご多分に漏れず「現在日本国内に居住している在日朝鮮人は、戦時中日本軍に強制連行されて無理やりつれてこられて帰れなくなったカワイソーな被害者」という認識だったので。
偏見が全て悪いとは思いませんが、偏見から抜け出せない・偏見を検証しようとしないのは怖いなと思っています。

_ 大森 ― 2022/02/24 13:24

司馬遼太郎「街道をゆく~神戸散歩」にも神戸の在日とケミカルシューズの深い関係が述べられている
在日と靴産業は案外近しい関係なのかも

_ 海苔訓六 ― 2022/02/24 16:09

今回のブログ記事を読んでもう一つ思い出したのが
官報を根拠に帰化朝鮮人を紹介しているYouTubeチャンネルでABCマートの三木正浩さんが紹介されていた回でした。
https://youtu.be/kzACeRaOEFY
姜正浩と紹介されてましたが、本当の話か?良く分かりませんが、事実だとすれば在日朝鮮人は靴の仕事に携わる人が多いのだなと感じます。
ちなみに姜正浩というと私はピッツバーグパイレーツで活躍した朝鮮人選手の姜正浩さんのことを思い出してしまうのですが。
選手としては優秀だったのですが酒癖が悪くて飲酒事故を度々起こしたので、今はMLBもKBOも追放されているみたいで残念です。

_ 辻本 ― 2022/02/25 14:59

靴職人といえば、私は岡林信康の「チューリップのアップリケ」を思い出します。
放送禁止歌に指定されました。
今も禁止されているのですかねえ。
禁止理由は、靴製造は部落産業で靴職人は部落民、だから差別を助長する、というものだったという記憶があります。
関心のある方は、検索すると出てきます。

_ (未記入) ― 2022/02/25 16:39

維新直後に弾左衛門が、洋靴の製造に乗り出しています。

江戸時代に靴はなく、みな草履や下駄でしたから、皮革を扱うのに長けた被差別部落民が、そうした産業に進出した名残なんでしょうかね。

_ 竹並 ― 2022/02/25 17:25

在日と(震災に遭った神戸、長田区の)ヘップ=サンダルの関係は聞いていましたが、靴職人と在日に関係があっても、おかしくはないですね。

歴史的には、太鼓の皮や帝国陸軍の軍靴の皮は、朝鮮からの輸入(or移入)に頼ってたみたいですね。
     ----- ↓ -----
軍靴もそうだったがドイツの牛皮は最高といわれ、その陸軍の強さを支えた。
(大日本)帝国陸軍が世界最強といわれたが、その戦力を支えたのは(朝鮮)咸鏡南北道の黄牛から採る牛皮であった。
皮質がドイツ牛を上回っていた。

恐らく、江戸文化の音楽を支えたのも元山港から大阪へ運ばれてきた牛皮で作られた太鼓であった。
日本映画界復興を支えた小山市の柳さんの耳は元山出身ということを指摘すべきであろう。
柳さん存命であれば、世界の太鼓を語りたかった。

黄牛の皮で作られた太鼓の音が、黒人兵の脱走を促したとは松本清張の作品「黒字の絵」である。
同じ太鼓でも張っている牛皮の質で微妙に音色が違う。

畜産-3(対北経済協力レポート-3) https://ameblo.jp/abe-nangyu/entry-12639475726.html

_ 海苔訓六 ― 2022/02/25 19:54

イザベラ・バードの朝鮮紀行で記されていた当時の李氏朝鮮の主要輸出品は牛革、朝鮮人参、紙、米、海藻、豆、乾燥魚肥料、干しナマコ、クジラ肉、そして砂金とのことで、主に日本と清国が貿易相手国となってました。
読んだ当時は「牛革なんて、何に使うんだろう?」と思いましたが、軍靴に使われていたのですね。

時代がくだって1930年代に上梓された朝鮮総督府監修『朝鮮旅行案内記』を読むと、
朝鮮の輸出品目は上記のものに加えて
・トゥルチュク(ツルブドウから作られた北鮮の蒸留酒)
・会寧焼
・加工したフカヒレ
・冷凍加工した鰤
そして北鮮の松茸
などが新しく輸出品として紹介されてました。会寧焼は元々昔から朝鮮で作られていたようですが、価値が評価されておらず、柳宗悦らが紹介して日本で人気になって人気輸出品となったようです。
蛇足ですが朝鮮紀行では1896年度の税関報告書を挙げて、
1896年度には136万279ドルの砂金が李氏朝鮮から公式に輸出されており、これはあくまでも公式に記録されているものだから、申告されずに国外に流出した砂金はもっと多いだろうとも書かれてました。
ロシア帝国からのデータには
1901年、大韓帝国の貿易総量は1,800万円で、1904年には3,600万円に増え、1910年には6,000万円に増える。
とのことで

ほぼ2/3は日本との貿易でした。
1900年、日本の林権助は外務部に

「商業当局(大韓帝国)の地位は 単なる商業時代から工業時代に入るに至り、一つや二つの東洋国家との関係から、ひいては世界的な競争領域に取り組んでいます。
大韓帝国の貿易は毎年多少消長がいるが発達の傾向が顕著だ」

と報告しました。当時、朝鮮の貿易は日本に依存していましたが、発展していたことが分かります。

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