『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(2)2022/08/03

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/30/9513291 の続きです。

 「外国から帰ってくると再入国許可を受けなければならず」。 在日は外国人ですから、海外に出る際には再入国許可が必要なのは当たり前です。 もしこの許可なしに海外に行くと、日本での在留資格を失います。 こんな当たり前のことを、わざわざ言うことが理解できません。

 「就職でも差別を受ける」。 1970年代までは、その通りでした。 ある大学では成績優秀者に就職の際に推薦書を出すのですが、一人の在日がこの推薦書をもって有名企業を受けました。 しかし朝鮮人であるという理由で断られました。 しかも面前ではっきりとその理由を言われたのでした。 そのため悲観した当人は自殺したという悲しい出来事が本当にあったのが、1960年代後半でした。

 しかしいわゆる日立裁判によって、朝鮮人という理由でもって就職を断ることは不法であると判決されたことが契機になって、露骨な就職差別はなくなりました。 それ以降、在日の就職状況はよくなっていきした。 1990年代以降には私の周辺でも、あそこの在日の子供さんがあの有名大企業に就職したというような話がしょっちゅう聞こえるようになりました。 在日の就職状況は格段によくなりました。 在日の就職差別は過去の話であって、現在の話ではないと考えます。

 「最近は右翼団体の攻撃に苦しんでいる」。 右翼団体のみならず、ネットウヨなども露骨に嫌韓発言をしますねえ。 ちょっと頭の構造がおかしいと思えるようなレイシストたちがヤフコメなどに投稿したり、時には電車内や道路上で周囲に聞こえるような差別発言をします。 こんな悪質レイシストの中から、有本匠吾のような犯罪者が出てくるのでしょう。 「日本には人種差別はない」とか言う能天気な人がいるようですが、馬鹿なことは言わないでほしいと思います。 ここは公安当局の強力な取り締まりを求めたいところですね。 

 なお韓国でも、こちらが日本人で韓国語を知らないと思っているのか、「チョッパリ」とかの差別発言する韓国人がいますねえ。 路地裏の飲み屋なんかでは、それがさらに激しくなります。 私は経験ありませんが、割り箸や時には焼酎の空瓶が飛んでくることがあるようです。 これにも言及してほしいですね。

70年代初め、在日2世の朴鍾碩(パク・チョンソク)さんは、入社志願書に日本名だけを記載して韓国人であることを隠したという理由で就職を拒否されたが、訴訟で勝利し、差別を勝ち抜いた。

 これは前述した日立闘争のことです。 この中村さんの説明に、大きな間違いがあります。 日立が就職を拒否した理由として前面に掲げたのは、本籍欄に父母の住所地(愛知県)を書いたからです。 本来は「韓国」と書かねばなりません。 つまり志願書に虚偽記載があったというのが最大理由でした。

 ただしこの理由は表向きのことで、本当の理由は朝鮮人だからでした。 このことが裁判では明らかとなったので、就職拒否は不当と判決されたのでした。 (続く)

【拙稿参照】

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/30/9513291

電車での嫌な出来事      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/06/9323886

在日韓国人と華僑―成美子  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964788

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/25/9484690

ウトロと韓国民団を放火した人物―有本匠吾(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/28/9485573

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(3)2022/08/06

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/03/9514505 の続きです。

 前回は、記事の中で中村さんの発言(カッコ書きされている)部分から、私の抱いた違和感というか疑問を提示しました。 次に記事の地の文から、彼に対する私の感想を書きます。 まずは彼の生い立ちです。

在日2世の韓国人の母親と、日本人の父親の間に生まれた彼は

 生い立ちは、このようにごく簡単に紹介されています。 彼は1969年生まれですから、両親の結婚は1960年代と推定されます。 この時代に、日本人男性と朝鮮人女性の結婚は大変だったろうと想像できます。 なぜなら、どちらも家族・親族から猛反対を受けたでしょうから。

 当時は朝鮮人への差別はすさまじいものでした。 日本人男性がこの人と結婚しますと家族に紹介したら猛烈に反対され、それでも結婚しますと意思を貫いたら、親戚連中に知らせることなく式も挙げなかった、というような話をよく聞いたものです。

 朝鮮人女性の方も、日本人と結婚しますと言えば、これまた猛烈に反対されました。 当時の朝鮮人たちの考えでは、男子が日本の女と結婚するのはまだ許せるが、女子が日本の男と結婚するのは絶対にダメ、というものでした。 1960年代後半頃でしたか、余りの反対に絶望した朝鮮人女性が自殺するという事件が起きました。 このためにこの地域の在日朝鮮人社会では、娘と日本人男性との結婚は最初は一応反対するが、結局は仕方ないと諦めるようになったという実話を聞きました。

 中村さんのご両親はどうだったのか分かりませんが、おそらくは親族・親戚からの祝福を受けずに結婚されたのかなあと想像します。

在日コリアン3世として波風のない人生を送ることができなかった。‥‥彼は幼い頃から母親に向けた父親の差別的な言葉を聞きながら育った

 父母が日本人男性と朝鮮人二世女性で、その間に激しい葛藤があったのですねえ。 父親の母親に対する差別言動、これが彼のアイデンティティに大きな影響を与えたようです。

一時は「朴一成(パク・イルソン)」という韓国名だけを使ったりもしたが、就職する時期には「中村一成(かずなり)」という日本名を使った。毎日新聞記者として働いていた時、多くの在日朝鮮人に会って考えが変わり、自分のアイデンティティを隠さないために両方の言葉の名前を使っている

 中村さんは、アイデンティティに重要な名前をこれほどに変えてきたということです。 当時の戸籍・国籍法からすると、彼は父親の戸籍に入りますから、国籍は日本の単一国籍で名前は父親の「中村」となります。 この父系主義は韓国でも同様で、彼は韓国の法律からしても韓国籍ではあり得ず、名前も母の「朴」ではあり得ません。 北朝鮮も同様です。

 つまり彼のアイデンティティの裏付けとなる国籍と本名(法律名)は、日本でも本国でも、日本国籍の「中村一成」です。 ということは「朴一成」は通名です。 ですから彼は本名と通名の二つにアイデンティティを置いていることになります。

 自分のアイデンティティをどう考え、本名と通名をどう使うかは、本人の自由な選択に任せるべきことです。 ただ在日の中には、本名や国籍を隠そうとする性向が見られるのは残念ですね。 その点、中村さんはそれを隠さずに「両方の言葉の名前を使っている」とありますので、ここは好感を持ちます。

中村さんは、在日朝鮮人は植民地出身という認識がいまも日本国内に広がっていると話した。強制徴用被害者に賠償せよという韓国最高裁(大法院)の判決を日本企業が無視する状況も、同じ理由だと説明した。

 日本側が有している「在日朝鮮人は植民地出身という認識」は「今広がっている」のではなく、1945年の敗戦以降から続いて現在に至っているものです。 これは前記したように、在日には「特別永住」という、他の外国人から比べると特段に恵まれた在留資格を与えていることから、はっきり指摘できます。 在日は植民地出身だからこそ、外国国籍を維持しながら限りなく日本人に近い恵まれた権利を有しているのです。

 「強制徴用被害者に賠償せよという韓国最高裁(大法院)の判決を日本企業が無視する状況も、同じ理由」というのは、いかがなものですかねえ。 文面をそのまま読めば、中村さんは、日本企業は「在日が植民地出身という認識」をすれば韓国の最高判決を受け入れると思っているようです。 あまりに理解し難い内容です。 彼は韓国の反日民族主義に迎合しようとして、ハンギョレ新聞記者にこのように言ったのでしょうかねえ。

 考えてみれば、在日は今や三・四・五世の時代です。 もはや韓国語ができないので、祖国の人とのコミュニケーションがかなり難しいです。 それでも在日が祖国の人と何か共通する感情を持とうとするならば、日本はわが祖国を植民地化して搾取・収奪した、そして今も在日を差別抑圧している‥‥という被害者意識を掲げて日本を糾弾することくらいでしょう。 そしてそれが在日と祖国の人たちが共感を得る、ほとんど唯一の方法になっているのではないかと思います。

 今回のハンギョレ新聞の記事を読みながら、中村さんの発言をハンギョレが記事にしたのは、こういう被害者意識を共有化しようとする意図だろう、という感想を抱きました。 (終り)

【拙稿参照】

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/30/9513291

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/03/9514505

在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212

『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/09/8589790

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/13/8593507

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/16/8598422

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/22/8601961

中村一成『ルポ思想としての朝鮮籍』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/06/25/8603941

神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞2022/08/11

 拙ブログ7月12日・19日の二回にわたって、昔に私が見た「朝鮮部落」について思い出を書いてみました。  

「朝鮮部落」の思い出(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

 それから10日ほどして、毎日新聞に「源平町かいわい(神戸市長田区) 知られざる共生の歴史」と題する、朝鮮部落(記事では「在日コリアン集落」)の記事が出ました。(2022年7月29日付け)   https://mainichi.jp/articles/20220729/ddf/012/040/001000c  有料記事なので、関心ある方は図書館にでも行って頂ければ幸い。

 記事はこの朝鮮部落の成り立ちと、そこには日本人との「共生の歴史」があったことを報告するものです。 このうちの日本人との「共生」に目が行きました。 その部分を抜き書きします。

在日2世の女性(79)から話を聞いた。 「集落は隔絶されていたわけではなく、日本人コミュニティーとも活発な往来があり、助け合って暮らしていましたよ。 子どもたちが『朝鮮村や』と興味本位で言っていたのも覚えていますが、偏見はごく一部で、仲良うやってましたよ」。 45年3月17日の神戸大空襲後、沿岸部で焼け出された被災者が多く避難してきた所でもあったという。

「喫茶・赤倉」‥店長の小竹雅子さん(84)は、かつての在日コリアンのコミュニティーや丸山地区のにぎわいを知る一人だった。‥‥「通学時に、リヤカーに乗せていた豚たちが逃げ出して、こちらに走ってきてね。今となってはいい思い出やね」と懐かしそうに語った。

以前に集落で暮らしていた女性は繰り返した。「未来を担う韓国と日本の若者たちにお願いがありますよ。源平町のように仲良く暮らしてほしい」。時代の中で消えていった在日コリアン集落は、共生社会を体現してきた集落であった

 この記事中でまず驚いたのは、子供たちが言っていたという「朝鮮村」です。 私の経験では「朝鮮部落」であって、「朝鮮村」なんて聞いたことがありません。 「朝鮮部落」は周囲の日本人だけでなく、そこに住んでいる朝鮮人も自分たちの住所を「朝鮮部落」と呼んでいました。 また関西から遠く離れた地域でも「朝鮮部落」という言い方が普通でした。

 としたら「朝鮮村」は、神戸の独特な呼称なのでしょうか。 神戸では湊川等々で不法占拠の朝鮮部落が点々と存在していましたが、やはり「朝鮮部落」であって「朝鮮村」ではなかったと記憶しているのですが。

 日本語では「村」と「部落」とでは昔から意味が違っているのであって、互いに言い換えることのできない言葉です。 ですから「朝鮮村」という言葉には、私には違和感が非常に大きいのです。

私の考えでは、1970年代以降の解放運動の活発化とともに「部落」が差別語とされてきたために、記事では「朝鮮部落」と書くことに躊躇いが生じて「朝鮮村」に言い換えたのではないかと思います。 とすれば歴史用語の捏造だと考えるのですが、どうなのでしょうか。

 次に「集落は隔絶されていたわけではなく、日本人コミュニティーとも活発な往来があり、助け合って暮らしていました」とあります。 つまりここの「在日コリアン集落」には「日本人コミュニティー」が存在しており、朝鮮人と日本人は「助け合って暮らしていた」というのです。

 実際にどのような「助け合い」だったのかに関心があるのですが、記事では書かれていません。 私の経験では、朝鮮部落に日本人が混在する例は、河川敷の部落でした。 戦後の混乱の中、住居に困り果てた日本人も多く、さまよった末に河川敷に住むようになり、朝鮮人と混住状態になったというものです。

 そこではどんな「助け合い」があったのかと言いますと、私自身の知識の範囲内で答えます。 そこには行政の末端としての住民自治会というものがありませんでした。 多くの場合朝鮮人は朝鮮総連の分会に集まり、そこが朝鮮人同士の助け合い組織として機能します。 当然ながら日本人は全く関わりがありません。

 つまり朝鮮人と日本人とは隣人同士でありながら、その地域の問題を両者で話し合う場所がなく、ですから共同して行政に何かを要求することもありませんでした。 つまり朝鮮人と日本人が「助け合う」ということは難しかったと言わざるを得ません。

 また火事が起きた場合、市役所からは毛布等々の支援物資が自治会を通して被災者に支給されるのですが、自治会に加入していない朝鮮人には総連分会を通して支給されるということでした。 日本人にはどうなるのかについては、朝鮮部落に住む日本人が火事に遭ったという例が私の経験では寡聞にして知りません。 しかし、それぞれが市役所に行って支援物資を受け取るという話を聞いたことがあります。

 ところで河川敷の朝鮮部落に住んだことがあるという日本人から話を聞いたことがあります。 朝鮮人の家では夫婦ケンカが激しく、時に刃物を振り回すような大立ち回りもあった、そんな時にケンカの仲裁によく行ったものだったという思い出話でした。 その方は中学時代に柔道をやっていて、身体も大柄だったので、そんな激しいケンカでも仲裁できたと言います。 しかし朝鮮人との付き合いというのはそれだけで、あとはせいぜい道端で出会えば会釈するくらいで、仲良く過ごしたなんてことは全くなかったそうです。 しばらくして公営住宅に当選したのでそっちに引っ越しし、その後その朝鮮人たちがどう暮らしているかなんて全く関心がない、ただあの激しい夫婦ケンカだけはよく覚えている、ということでした。

 なお当時の公営住宅の入居資格には国籍条項があり、朝鮮人には応募資格がありませんでした。 日本人は応募して当選すれば、さっさと引っ越したといいます。 ですから朝鮮部落の日本人は生活していた年月は短く、逆に朝鮮人たちはますます取り残されていったと言えるかも知れません。

 朝鮮部落をいくら思い出してみても、「朝鮮人と日本人との共生」というような〝ほのぼのした関係″があったとは私には考えられません。 単に住む場所がたまたま同じであったことに過ぎず、何か生活上で助け合うこともなかったし、ましてや例えばキムチの漬け方とか洗濯の仕方とかを教え学ぶような文化交流は全くなかったのでした。 (キムチ漬けと洗濯は女性の家事労働において、朝鮮人と日本人の違いがはっきりと見えるものでした ―下記【拙稿参照】)

 しかし毎日新聞の記事では、神戸の源平町という朝鮮部落では「朝鮮人と日本人共生社会」を「体現」していたというのですから、私には大きな驚きでした。 本当にそんなことがあったのか?という疑問ですね。 おそらくは、単にケンカやもめ事を起こしていないだけの関係を「共生」と表現したのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

【拙稿参照】

「朝鮮漬け」の思い出(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/17/9327581

「朝鮮漬け」の思い出(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/22/9329211

砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618

砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008

砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894

砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/22/9308333

砧を頂いた在日女性の思い出(5)―宮城道雄(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/02/9312276

マッコリ(タッペギ)とシッケ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/28/9331179

「原子力ムラ」は差別語では‥  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/22/6580751

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1)2022/08/17

 52年前の1970年10月に、25歳の帰化青年が民族に悩んで自殺しました。 その遺稿集が『いのち燃えつきるとも』で、当時として大きな話題になりました。 ベストセラーではありませんでしたが、かなり売れたものでした。 本名は「山村政明」、帰化前の民族名が「梁政明」。 水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』(岩波新書 2015年1月)では、次のように紹介されています。

70年10月には、山村政明(梁政明)が焼身自殺を遂げる。 山口県に生まれた山村は、9歳の時、家族ぐるみで日本国籍を取得し、67年苦学して早稲田大学第一文学部に入学したが、経済的な理由で退学を余儀なくされ、翌68年夜間の第二文学部に再入学した。

大学入学後、学園紛争に関与し、学内自治会を支配していた新左翼系党派(革マルのことー引用者)と対立して登校妨害を受けた。 そういうなかで日朝関係史や民族問題に関心を深め朝鮮人として生きることを決意するが、在日同胞学生サークルからは帰化を理由に拒絶される。 「抗議嘆願書」と記された遺書には党派への批判とともに、自己の国籍と民族にまつわる苦悩が切々と記されている。(以上166頁)

 1970年代の在日の活動団体では、「帰化しても何も解決しない、だから帰化をしてはダメだ」という主張を強く掲げ、その根拠として山村の遺稿集『いのち燃えつきるとも』が取り上げていたものでした。 帰化を考える在日がいたら、この本を突き付けて帰化を諦めさせる活動をしていましたねえ。 

 最近になって、50年以上前の帰化朝鮮人が民族についてどのように苦悩したのかに関心があって、この本を読みなおしてみようと思ったのですが、もう古い本で周囲では誰も持っていません。 そこで図書館でこの本を取り寄せて借りてきました。 『新編 いのち燃えつきるともーある青春の遺稿集』大和出版 昭和50年8月)。 新編が出たくらいですから、当時世間の関心はかなり大きかったようです。

 これは誰か第三者に読んでもらうつもりで書かれた本ではありません。 彼の手記とメモ・ノート、恋人や家族への書簡、大学の学友らに訴える短文で全てです。 この中で、彼が民族に苦悩したという部分を紹介します。 先ずは生い立ちと幼少時の被差別体験です。

生い立ちの頃からふり返ってみよう。‥‥両親は日本帝国主義の暴虐な支配の下に搾取され尽くした祖国を離れて、昭和の初頭の日本に移り住んできた。 両親も過去のことについては語りたがらない。 朝鮮人蔑視の風潮が現在とは比較できないほど強かった戦前社会において、父母の味わった苦しみは私などには想像もできない。 祖国解放の年の6月、私は山口県の片田舎で生を受けたのだった。 その頃父母は小作農として貧しいながら一応の生活の保障を得ていた。 私は7人兄妹の三男として生まれた。 終戦直後の私の幼児期はみじめだったらしい。

ものごころついて近所の子供達と遊ぶようになった私は、まもなく、自分は他の家の子供たちとは差別されねばならないことを知った。 私たち兄妹だけに浴びせられるあざけりのことば「チョーセン、チョーセン」、幼かった私は何のことか分からず、ただ悲しみと悔し涙にくれるばかりだった。

貧しい父母は日夜労働にいそしまねばならなかった。 私たち子供も小さい時から忙しく手伝いをさせられた。 貧しく育たねばならなかった人には理解できるだろう。 他の家の子供達が喜々として遊びたわむれている時、野良仕事やたきぎ取りに小さ身体を従事させねばならない悲しみを。

私は学校が好きだった‥‥私たち兄妹はみんな学科がよくできた。 私などもクラスにいる間は民族的コンプレックスを忘れることができた。 むしろ優越感さえ持ち得た。 小学ではずっと学級委員、中学では生徒会長を勤めたので、みんなから一目置かれていたと言っていい。 少なくともクラスの中には私が朝鮮人であることを面と向かって笑う者はいなくなった。

けれども一歩学校を離れると私は心に武装をしなければならなかった。 たしか小学4年の頃だったと思う。 ある日学校から帰る途中、私は上級の悪童連につかまった。「チョーセン」「チョーセン」。 怒った私は激しく手向かって言ったが多勢に無勢でかなわず、スキをみて逃げ出した。 田んぼあぜ道を三人の上級生に追いまわされ、ついに打ち倒されてやわらかい泥にまみれながら激しく泣いたことを覚えている。 何人かの大人たちがこの光景を見ていても、私の素姓の故にうす笑いを浮かべるだけで、悪童連を制止してはくれなかった。

‥‥中学三年だった姉が、ある時目を泣きはらして帰宅したことがあった。 就職か進学かの相談で職員室に担任教師を訪ねたところ、冷たく言い放たれたそうだ。 「おまえは、他の家のことは違うんだからナ‥‥」。 手をとりあって泣く母と姉を見ながら、私は怒りで身をふるわせたのだった。 (以上、12~15頁)

 こういった被差別体験は、1950~70年代前半に多感な少年期を過ごした在日がほぼ共通して有していると言っていいです。 在日同士が「お前もそうか、俺もそうだった」と互いに共感できるのが少年期の被差別体験だった、そんな体験談を聞かされたのが1970年代だったなあと思い出されます。

 ところで山村が生まれ育った所は山口県です。 その時期の山口県と言えば、思い出されるのは李承晩ラインです。 李承晩ラインが敷かれたのが1952年で、それ以降日韓条約締結の1965年まで続きます。 その間に韓国政府はラインを侵犯したとして日本人漁船員約4000人を拿捕(うち5人銃撃死)し、数年にわたり抑留しました。

 この事件は連日のように報道され、日本人の対韓感情を非常に悪くしました。 山口県の漁民も多くの被害を出しましたから、同県に住んでいた山村一家に対し、周囲からの厳しい目を想像することができます。 ところがこの本では、李承晩ラインには何も言及されていませんねえ。 李承晩ラインによる日本人の対韓感情悪化は、山村に「チョーセン」というあざけり言葉を投げつけることだったのかも知れません。(続く)

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)2022/08/23

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301 の続きです。

 次に、父母はこのような厳しい差別に対し、どう対処しようしたか。

父母は屈辱のすべてを忘れようとした。 帰国のメドのつかないままに、国籍帰化を決意したのだ。 乏しい家計の中から贈物を整えて町の有力者たちの前に平身低頭していく父母の姿‥‥ (15頁)

父母は苦心の末、この国の市民権を取得した。 ぼくたちは法的には日本人になったのである。‥‥父母はぼくたち子供の将来、進学、就職等の不利を免れるためにというが‥‥ 祖国におけるみじめな生活を引き合いに出して、父母はぼくの抗議をあしらうのだった。(122頁)

 山村の父母が家族で帰化したのは1955年6月。 山村が9歳(おそらく小学4年)の時でした。

 その時の在日をめぐる社会状況を簡単に書くと、1952年サンフランシスコ講和条約により日本が独立し、それに伴い在日は正式に外国人となりました。 翌1953年に朝鮮戦争が休戦となります。 その2年後に山村家が一家で帰化しました。 帰化には準備がかなり大変ですから、父母はかなり早い時期から帰化を決意したと思われます。 「祖国におけるみじめな生活を引き合いに出して」とあるところから、それは53年の朝鮮戦争休戦直後ではないかと思われます。

 帰化について、父母は詳しく話さなかったようですが、このわずかな文章からも、父母が子供たちのためにどれほど愛し、考え、行動したかを想像できます。

 しかし山村は、自分も含めて一家を帰化させた父母を責めます。

祖国と同胞を忘れ、なんとか日本人の列に加わろうとする両親を、私は尊敬することができなかった。(15頁)

父母は‥‥それ(子供の将来、進学、就職等の不利を免れるため)のみで、自らの祖国を棄てることが出来たのか?(122頁)

どんなみじめでもいい。 どんなに貧しくてもいい。 真の同胞の間に少年期を送ることができたなら、ぼくはこんな人間にならずにすんだろうに。 ぼくは父母を尊敬することができなかった。 たしかに、戦前からの父母の言うに言われぬ労苦を思うと涙が出る。 けれどもぼくたち親子には超え難いキレツ、冷たいカベが生じていた。(122~123頁)

父母、兄妹は日本人になりきろうとのみ努力する。 その悲しい努力‥‥(160頁)

父よ、母よ、あなたたちの労苦を思うと黙って頭を下げるのみです。 けれども、あなたたちは重大なあやまちを犯したのではありませんか? 生活の難易によって左右し得るほど、民族、国籍の問題は軽いものでしょうか? 少なくともぼくは、自らの運命の、わずかな選択の自由は残しておいてほしかった。 当時、九歳の僕であったとしても‥‥。(162頁)

 山村は9歳(おそらく小学4年)という幼い時に家族とともに帰化し、日本人となりました。 それは当然のことながら、自らの意志ではありませんでした。 山村は自分が日本人になっていることに悩み、嫌悪します。

私は長い間、日本人を憎んできた。 なぜなら、私の体内には、日本人に虐げられてきた韓民族の血が、流れているからだ‥‥(12頁)

ぼくは半日本人ともいうべき非条理な自己の存在を納得することができない。‥‥ぼくは中途半端な半日本人として生きるより朝鮮人として生きることを強く願った。‥‥ぼくは祖国を棄てた裏切り者なのだ。 日本人でもない。 もはや朝鮮人でもない祖国喪失者‥‥。(123~124頁)

ぼくは何故、この時代の、この国に生きねばならないのか? この国の人々によって虐げられた異民族の一員、しかも、その貧しい民族をも、極言すれば裏切った家族の一員。 そのどす黒い宿命の血が、ぼくの体内を逆流している。(159頁)

あまりに日本人化してしまっているぼく。祖国と同胞は寛容をもって受け入れてくれるだろうか? 民族の血を偽り、日本名のもとに、日本人面して生きてきた歳月。 その自責と苦悩が、ぼくの表情を沈鬱にさせる。(161頁)

私は在日朝鮮人二世としてこの国に生を受けた。 在日朝鮮人の存在そのものが歴史の非条理だ。 その上、自らの意志によらずとはいえ、自民族と祖国を裏切り、日本籍に帰化したことは苦悩を倍加すること以外のなにものでもない。(242頁)

 山村は「私の体内には日本人に虐げられてきた韓民族の血が流れている」と、本来は日本から被害を受けた朝鮮人の体であったと主張します。 しかしその体には「どす黒い宿命の血が、ぼくの体内を逆流している」とも主張します。

 朝鮮人である自分の体に民族を裏切った「どす黒い宿命の血」が「逆流」しているというのです。 山村は帰化して日本人になったことを、これほどまでに自己否定しました。 そして日本人の友人に対して、次のような呼びかけをします。

日本の友へ。‥‥あなたがたに切望するのは次のことである。 日本には約60万人の在日朝鮮人が居住している。 どうか彼らに理解と友情の心を向けてほしい。

彼らは何も好きこのんで異郷の地で、みじめな生活をすることを選んだのではない。 多くの日本人は簡単に言う。 馬鹿にされるのがいやなら自分の国に帰ればいいじゃないかと。 けれども彼らは日本にのみ生活の基盤を持ち、純粋な民族性を剥奪されてしまっているのだ。 さらに日帝の植民地支配の後、祖国は東西の対立のために分断と同民族相撃つ戦乱の憂き目をみた。 祖国の政情は未だ不穏であり、生活の条件は厳しい。

私は敢えて言おう。 あなたたち日本人の多くは、戦争をただ過去のものとし、経済的繁栄を謳歌しているが、アジアの多くの国では、あなたたちの残虐な侵略による傷痕の故に、今もなお多くの人が苦しんでいることを思い起こして欲しい。‥‥賢明なる日本の人たちが、アジアの人々の前にも真の友人として手を差し伸べることを切望する。

在日朝鮮人問題は私にとっては決定的に大きいが、あなたたちにとっても決して無意味な問題ではないと思うのだ。 それは300万といわれる未解放部落民、アイヌ民族、混血児問題に直接通ずる。 さらに、階級と貧富のそれを含めた人間相互のすべての差別と憎しみの問題につながると思うのだ。(以上、29~30頁)

 このように日本人に呼びかける自分が、実は元朝鮮人で今は日本人になっているという矛盾。 別に言えば、元は清く正しい被害者の朝鮮人の体なのに、民族を裏切って加害者である日本人になったという「黒い宿命の血が逆流している」という矛盾。 山村はこれに耐えられなくなって自死を選んだのではないかと思います。(続く)

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(3)2022/08/29

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952 の続きです。

 芥川賞作家の李恢成はこの本の序文で、次のように書いています。

民族的差別や偏見があるかぎり、帰化によって自由を得ることは至難であり、かえって帰化者なるが故の苦悩がつきまとう‥‥梁青年(山村のこと)は死の間際まで、祖国喪失者の暗い意識から自由になることができなかった。 日本人にもなり切れず、さりとて朝鮮人としても「裏切り」意識にさいなまれたのは、彼が純粋に自分が何者なのかを追いつめようとした‥‥

朝鮮人からは日本人とみなされ、日本人からは朝鮮人として扱われる場合、どのような生き方が可能であったか。‥‥彼を死へ追いやった根源的原因が民族問題から発生していることをぼくらは生者として確認しよう。(以上、2~5頁)

 李は、帰化は民族的苦悩を深め死に追いやるものだと主張します。

 当時はこういう考え方が主流であって、だから帰化をしてはいけないんだという主張が声高になされていました。 若い在日が〝朝鮮語は全く分からないし祖国に帰る気なんて全くないのだから帰化したいと思う″と言えば、周囲の在日活動家がこの『いのち燃えつきるとも』を突き付けて、〝帰化しても何の解決にもならない、帰化は裏切りだ、屈辱だ″とか言って脅したものでした。 

 そして日本人に対しては、同じくこの本を突き付けながら〝日本における民族差別はかくのごとく深刻なのだ″とアピールするのでした。 

 山村政明の『いのち燃えつきるとも』は、当時こんな使われ方をしたなあと思い出されます。

 一方、在日の研究者である金英達さんは、次のように言います。

民族問題の重要性を(日本人に)訴えるにあたって、山村政明の死を提示することは、ちょうど朝鮮人が日本人に向かって「俺の気持ちがお前に分かるか」と言って、みずからの相互理解の扉を閉ざしてしまうのと一緒で、日本人を沈黙させてしまうだけ‥‥(金英達『在日朝鮮人の帰化』(明石書店1990年6月 244頁)

 山村政明の『いのち燃えつきるとも』は、帰化した在日青年が民族問題に悩んだ末に自殺した事件として大きな話題になりました。 それから50年経って読み返してみて、民族についてどんなことに悩んでいたのか、その悩みは在日に共通するものだったのか、当時のことをちょっと思い出させてくれました。

 ところで同じく小学時代に一家で帰化した有名人として、芥川賞作家の李良枝を挙げることができます。 山村よりも10年後の生まれですが、彼女も民族に悩みました。 彼女と山村とを対比しながら、在日の帰化について考えることは非常に有益だと思います。 李良枝については、拙ブログでは下記で論じました。

李良枝の心の軌跡―日本否定から日本肯定へ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/19/8962125

芥川賞受賞者 李良枝 ―韓国人を美化する日本人はおかしい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/08/8821395

芥川賞受賞作家 李良枝(2)―日本語は宝物である http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/13/8824561

【追記】

 「山村政明」を検索すると、デタラメ解説が多いですねえ。

日本共産党が主催していた時代の日本朝鮮研究所(現:現代コリア研究所)への入会を希望したが「日本に帰化した裏切り者」として拒絶された。その後、日本民主青年同盟に参加するも

 これにはビックリ。 日本朝鮮研究所は日本共産党の主催団体であったことは一度もありません。

 またこの研究所は日本人の立場から朝鮮を研究する団体でしたから、来る者に「日本に帰化した裏切り者」として拒絶することはあり得ません。

 山村を拒絶したのは、大学内の在日朝鮮人サークル(朝鮮文化研究会?)です。

 山村は日本民主青年同盟に参加していません。 144頁に次のように書かれており、民青に参加しなかったのは明白です。

民青の学友たち。はじめは警戒したんだが、みんないい連中ばかり。 もっと早く、君たちと出会っていたら、ぼくの人生も変わっていたろう。 でも、もう遅い‥‥。

 次に、山村の姉が受けた就職差別です。

帰化しているにも拘らず、彼の姉が就職差別を受けるという事があり

 しかし14~15頁に、姉の就職差別のことが次のように書かれています。

中学三年だった姉が、ある時目を泣きはらして帰宅したことがあった。 就職か進学かの相談で職員室に担任教師を訪ねたところ、冷たく言い放たれたそうだ。 「おまえは、他の家のことは違うんだからナ‥‥」。 手をとりあって泣く母と姉‥‥ 父母は屈辱のすべてを忘れようとした。 帰国のメドがつかないままに、国籍帰化を決意したのだった。

 つまり姉の就職差別がきっかけとなって、父母は帰化を決意したとあります。 〝姉が帰化しても就職差別を受けた″は順番が逆で、事実ではありません。 (終り)

  【拙稿参照】

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301

52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952

帰化にまつわるデマ           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/31/387157

在日の帰化               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/18/489465

帰化と戸籍について           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/26/499625