1980年代在日韓国人活動家の考え方―曺功鉉(2)2023/03/25

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/21/9570847 の続きです。

(民族教育の弾圧は)戦後もずっと?

曺― もちろん。 阪神教育事件をご存知ですか? 日本がサンフランシスコ条約の発効で独立した1952年当時、在日同胞は朝鮮人連盟を結成していた。 朝連は、権益擁護団体であるとともに、民族教育団体で、地方自治体に公立の民族学校さえつくっていたんです。

― ところが日本政府は独立後すぐ、朝連設立の民族学校を全廃するように団体等規制令で朝連に命令してきた。 この命令に対し、阪神地区在住の同胞が大阪府庁などにデモをかけたところ、数百人の死傷者をだしたうえ、やはり数百人が検挙される事件になった。 そして民族学校は私立校か各種学校として認可されることになったのです。

 ここで曺さんは戦後の在日の民族学校問題を取り上げていますが、もうビックリするほどのデタラメですねえ。 まずは朝鮮人連盟(朝連)の結成は1952年ではなく、1945年10月。 そして1949年9月に朝連は団体等規正令(「規制令」は間違い)で解散させられました。 1952年に朝連は存在していなかったのです。

 また「公立の民族学校さえつくっていた」とありますが、実際は日本の公立小中学校の校舎や運動場を使って朝連が朝鮮人学校をつくったもので、「公立の民族学校」ではありません。 そしてそこでは法律に基づかないで、教員免状も持たない俄か朝鮮人教師が教壇に立っていたのでした。 だからGHQは1947年に日本政府に朝鮮人学校の全廃を命令し、日本政府はこれによって翌48年4月に朝鮮人学校を全面閉鎖したのです。 

 「民族学校は私立校か各種学校として認可された」のは、それまでの朝鮮人学校が公立学校の校舎と敷地で設立され、教育基本法等の法律に基づかない教育が行われたために閉鎖されたので、私立学校か各種学校として生き残らざるを得なかったからです。 

一方で日本政府は、在日の人々の追放政策を進めた?

曺― ええ、在日同胞は、韓国が大韓民国になった48年まで、韓国と日本の国籍を持っていましたが、日本政府は多数の同胞を軽犯罪で引っ掛けて、韓国に強制退去させてきた。 独立後、日本は国際社会に仲間入りしたために、この政策は破綻しました。

 ここでもビックリ。 在日は1948年まで「韓国と日本の国籍を持っていた」!!?? 国籍法の専門家で、こんなことを言っている人がいたのでしょうか。 正確に言うと当時の在日は、日本が1945年のポツダム宣言を受け入れたことによって日本国籍を喪失したので外国人登録されたが、日本に留まる限り日本人と同様に扱うとされました。

 「多数の同胞を軽犯罪で引っ掛けて、韓国に強制退去させてきた」とありますが、間違いです。 軽犯罪で強制退去はあり得ません。 なお当時は韓国から密航による不法入国者が多かったものでした。 不法入国者は外国人登録証がありませんので、警察から登録証提示を求められた時に発覚して強制退去となります。 これを「多くの同胞を軽犯罪で引っ掛けて」としたのではないかと推察されます。 強制退去は軽犯罪ゆえではなく、不法入国ゆえであったことを忘れないでほしいですね。

 「独立後、日本は国際社会に仲間入りしたために、この政策は破綻しました」とあります。 これはおそらく日本独立(1952年)以後、韓国政府は日本から強制送還される韓国人の受け入れを拒否する例が多くなり、強制退去命令が出ても日本に滞在するしかない韓国人が発生したことを指しているものと思われます。 それ以前はGHQの時代でしたから、米軍の強力な影響下にあった韓国では日本からの強制送還を拒めなかったのでした。

 「強制退去政策は破綻した」というのは、韓国側の都合によって日本からの強制送還者を拒否したからであって、日本が「国際社会に仲間入りしたため」ではありません。

次が同化・帰化政策?

曺― そうです。65年の韓日条約で協定永住権が生まれ、同法は韓国籍か朝鮮籍(朝鮮民主主義人民共和国)に分かれたのは周知のことですが、日本政府の在日韓国人対策の基本は、日本人として生きる方が生きやすいという状況をつくる、つまり同化・帰化、あるいは抑圧・追放政策です。 外国人登録法や入国管理法で登録証に指紋を押させて、在日同胞に負の民族意識を植えつけ、差別を温存する。 これで覚醒するものも出てくるけれど、民族意識を持つものを弾圧し、負けた大多数を同化・帰化させる条件を整備していった。 それでもだめなら、追放する方針なんです。

 日本政府は在日に対して差別・同化政策を行なっているという主張です。 当時はこれが大手を振っていて、日本政府は在日の民族性を奪う政策を行なっているとされていました。 在日は民族を取り戻すために本名を名乗り、韓国語を学び、日本の差別と闘う、そうやって民族意識を持って日本政府に対し闘うことが自分たちの使命なのだとなっていきます。

 しかし当時の在日はすでに本国の韓国人との違和感が大きくなっており、また本国の韓国人たちも下手な韓国語をしゃべる在日を同胞扱いしませんでした。 日本政府は何も同化・帰化政策という努力をしなくても、在日の方から同化していたのです。 1980年代はそういうことが明らかになってきた時代だったなあと思い出されます。 曺さんの主張はそういう在日の現状に目をつぶり、日本政府を撃つことに重点を置いていたと評価できます。 (続く)

1980年代在日韓国人活動家の考え方―曺功鉉(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/03/21/9570847

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