小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち2023/04/04

 在日問題に関心のある方は、64年前に起きた小松川事件の李珍宇についても当然に知っておられるでしょう。 岩波新書『在日朝鮮人―歴史と現在』(2015年1月)からその概要を紹介します。

1958年8月、都立小松川高校で女子生徒の遺体が発見され、翌月、18歳の李珍宇がこの女子生徒を殺害した容疑で逮捕された。 いわゆる「小松川事件」である。 李は、日雇労働者の父と半聾啞者の母との間に、貧しい亀戸の朝鮮人部落で生まれ育ち、日本名を名乗り、日本語しか話せぬ朝鮮人二世であった。 中学卒業後は、日立製作所と第二精工舎に国籍を理由に就職を拒否され、都立小松川高校の定時制に入学していた。 帰国運動というある種の民族運動が一大高揚期を迎え、民族という価値観がその重みを決定的に増した時代にあって、李珍宇は、女子生徒ともう一人の女性の殺人の罪を問われて最高裁で死刑を言い渡された(1962年11月執行)。 (147頁)

 ここに補足しますと、犯人は犯行直後、被害者宅に遺品の櫛や手鏡を送りつけたり、新聞社と警察に完全犯罪を誇示する犯行声明の電話をかけるなど、非常に挑発的な行動をしました。 この電話の声が録音され公開されると、李珍宇(日本名は金子鎮宇)の声に似ているという情報が寄せられ、李は逮捕されたのでした。 検察は女性二人の強姦殺人で李を起訴しましたが、弁護側は射精していないとして姦淫を否定し、またうち一人に対する殺意はなかったと主張しました。 判決では、女性二人の殺害は強姦致死・殺人と認定されました。

 さらに李は小学生の時に窃盗をおこなって補導されたことがあり、中学生の時には図書館や学校で本・備品などを盗んで家裁より保護観察処分を受けていました。 李はこの保護観察処分中に凶悪事件を起こしたのでした。

 事件のおおよその経過は以上です。 裁判ではこの犯人の李に死刑判決を下したのですが、日本の何人かの知識人が救援に立ち上がりました。 上原専禄、幼方直吉、大岡昇平、木下順二、高木健夫、旗田巍、羽生英敏、三宅艶子、吉川英治、渡辺一夫が発起人となって「李少年を助ける会」を発足させ、「嘆願書」をつくって社会に広く署名を集める運動を始めたのです。

 嘆願書には四つの理由が挙げられています。 一つ目は「心より悔悟し、生まれかわった人間になっている」、二つ目は「未成年者の犯罪である」、(三つ目は後述)、四つ目は「この少年を死なせたくないという共通の願い」で、以上の三点は少年死刑囚に対する救援活動として一応理解ができます。 しかし問題としたいのは、三つ目なのです。 引用・紹介します。

第三に、これは、在日朝鮮人の少年がおこした事件であったということです。 李少年の父は、大正初年に日本にきてから、日雇い労働者としてその日ぐらしの生活を送って来ました。 少年は、孤立した環境の中で母国語も、祖国のことも知らず、民族的自覚のないままに育ちました。 第二審判決は、「洋の東西を問わず、国籍のいかんに拘わらず、人間としての重大な責任を問われなければならない」と断定していますが、この問題は、それだけでは割り切れないものがあると思います。‥‥

私ども日本人としては、過去における日本と朝鮮の不幸な歴史に目をおおうことはできません。 李少年の事件は、この不幸な歴史と深いつながりのある問題であります。 この事件を通して、私たちは、日本人と朝鮮人とのあいだの傷の深さを知り、日本人としての責任を考えたいと思います。 したがって、この事件の審理については、とくに慎重な扱いを望みたいのであります。

 極貧家庭で生まれ育った在日朝鮮人少年が犯した強姦致死・殺人連続事件というトンデモない犯罪に、「過去における日本と朝鮮の不幸な歴史と深いつながりのある問題」というのが救援に立ちあがった知識人たちの主張です。 しかしどう考えても私には理解が難しいものです。 さらにこの事件で「日本人としての責任」があるとまで言われると、私は全くの理解不能となります。 

 「不幸な歴史」とは、日本が朝鮮を植民地化したために多数の朝鮮人が強制連行され、言葉や名前を奪われて民族的自覚を喪失し、日本人から差別されて困難な生活を強いられた、ということを指すのでしょう。 そしてその「不幸な歴史」には「日本人の責任」があると言っているのでしょう。 しかし何故それが凶悪犯罪に結びつくのか?

 今では信じられないでしょうが、当時の一部の日本知識人たちは「不幸な歴史」と在日の犯罪とが深くつながるとして在日朝鮮人少年凶悪犯の救援に立ちあがった、そういう時代だったのです。 しかし「(当の)李自身は、自らが犯した罪と、朝鮮人としての出自や境遇を必ずしも結びつけて考えていたわけではない」(岩波新書『在日朝鮮人』147頁)のでした。 

 事件が起きた1958年8月は、朝鮮総連支部が北朝鮮の金日成に帰国を願う手紙を送った時でした。 それを金日成が受け入れたので、翌年にかけて朝鮮総連による北朝鮮帰国運動が高揚しました。 そんな時期に小松川事件という凶悪事件が起きたのですから、総連は事件を全く無視しました。 また民団も民族の恥と思ったようで、こちらも無視しました。 

 李珍宇の救援活動は、在日の民族団体から全く無視されながら日本の一部知識人が担ったのでした。 (続く)

【追記】

 李珍宇の死刑執行から20年ほど経って、この事件は冤罪だと主張する本が出版されました。 (築山俊昭『無実! 李珍宇 小松川事件と賄婦殺し』三一書房労組 1982年8月)

 しかし実際の裁判では李は一貫して自分の犯罪と認めており、弁護側も一貫して李の犯罪を認めていました。 また李は救援活動者と書簡を多数交わしていましたが、すべて自分の犯罪を認めた上での手紙交換でした。 救援活動も李の無実を訴えるものではありませんでした。

【追記】 

 鄭大均さんは『韓国のイメージ』(中公新書 1995年10月)で、日本人が朝鮮に関心を持つパターンの一つとして、朝鮮植民地支配の民族的責任を問う「贖罪型」が1960年代の半ばから始まったと論じています。

植民地支配の責任を‥‥日本人が集団として隣国に対して犯した罪を自己確認し、集団自体の人間・社会変革を通して隣国との連帯を確認しようとする‥‥玉城素が1960年代に出した『民族的責任の思想』‥‥」 (43頁)

 ところが民族的責任論は、小松川事件の救援運動「李少年をたすける会」がそれより先行して現れているとも論じています。

朝鮮に対する民族的責任を問う具体的なコミットメントの例には、これ(1960年代半ばの玉城素ら)より早く小松川事件の例がある。」 (45頁)

 つまり朝鮮植民地支配の責任は政治指導者や国家の罪に還元するのではなく、日本人全体が負うもので「民族的責任」だという「贖罪論」の最初が小松川事件の「李少年をたすける会」にあり、その後1960年代半ばから「贖罪論」が広がったというのが、鄭大均さんの考え方のようです。 おそらくその通りだっただろうと私も思います。  (2023年3月7日)

【拙稿参照】

水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243

小松川事件(2)―李珍宇と書簡を交わした朴壽南2023/04/08

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532 の続きです。

 小松川事件といえば朴壽南さんを挙げねばなりません。 朴さんは獄中の李珍宇と何度も手紙を交換し合い、李の死刑執行後に書簡集『罪と死と愛と』(三一新書 旧版1963年5月・新版1984年7月)、『李珍宇全書簡集』(新人物往来社 昭和54年2月)を出版しています。 朴さんは三一新書新版本のあとがきに次のように書いています。

1962年11月16日午前10時、李珍宇は、日本国家によって首を吊られ、殺される。 あらたな韓日一体体制―韓日協定―の実現をいそいでいた国家にとって、仙台から盛岡へ確実に広がりつつあった、李珍宇を死刑から奪い返そうとする闘いは、脅威だったのである。 日米安保体制につぐ〈韓日一体体制〉は、パン・チョッパリを生み出す植民地体制の再現なのである。 孤独だった私たちの闘いは韓日協定の非人間的な本質を衝撃するものとなって展開されつつあったときである。

半・日本人(パン・チョッパリ)から反・日本人(アンチ・チョッパリ)へ、主体としての存在の復権をめざす闘いは、再び侵略を許さない闘いへ浸透し、内面化していくものであった。 国家の目は、孤立していた私たちの闘いが、ひろがり高揚していくさまを透視していたのである。 「―もし外に出られたら祖国の統一のために働くでしょう‥‥」、李珍宇が獲得した想像力は、しかし、死刑の執行によって断たれていない―。 (以上 292頁)

この闘いを不断に生きることがわが国の絶対無謬であることばを撃ち、自己の復権のために、祖国の民主化と統一のために未遂の四月革命を闘う戦列へ私たちが加わることなのである。 (293頁)

 小松川事件の犯人である李珍宇は、1962年に死刑が執行されました。 この1962年という年は、韓国では前年に朴正煕が軍事クーデターを起こして政権を掌握し、日韓条約(1965年締結)へ向けて日本と協議を進めている時でした。 そういう時代背景があったとはいえ、李珍宇を救援する「闘い」は日韓両国にとって国家的「脅威」だったという主張が展開されていたのでした。

 「半・日本人(パン・チョッパリ)から反・日本人(アンチ・チョッパリ)へ、主体としての存在の復権をめざす闘いは、再び侵略を許さない闘いへ浸透し、内面化していく」というのは、ちょっと説明が必要でしょう。

 「半日本人」は民族的自覚を失って日本人になりかけている朝鮮人という意味で、もう一方の「反日本人」は日本を糾弾して民族的自覚を取り戻した朝鮮人という意味です。 ですから日本人になりかかっている朝鮮人を否定して、民族アイデンティティを有する反日の朝鮮人になろうというのが「主体としての存在の復権」です。

 そして当時は、日本は韓国の売国奴である朴政権と手を結び、朝鮮半島を再度植民地化しようとしている、という主張が叫ばれていた時代でしたから、反日の朝鮮人は「再び侵略を許さない闘いへ浸透し、内面化していく」という論理となります。

 また李珍宇を救援する「闘い」は、「祖国の民主化と統一のために未遂の四月革命を闘う戦列へ私たちが加わる」ことに繋がるのだと主張します。 強姦致死・殺人犯の救援活動にここまで政治的な意味を持たせて、新たな「闘い」へ繋げようということですね。

 昔の左翼はアジビラ・パンフで、関係のないことを無理やり結びつけて反体制・反権力を叫んでいたのと似ているなあ、と思い出されます。 私のノスタルジーですかな。 (続く)

【拙稿参照】

水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243

小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532

小松川事件(3)―李珍宇が育った環境2023/04/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/08/9575512 の続きです。

 小松川事件の李珍宇は、東京都江戸川区上篠崎にある朝鮮部落で5歳から暮らしました。 彼がどのような環境で育ったのか、そのおおよその様子が家庭裁判所の検察送致決定書にありましたので紹介します。

「小松川事件」検察官送致決定書 

五、本少年の人間形成の過程について

1958年10月14日 東京家庭裁判所 裁判官 森口某‥‥ 家庭裁判所調査官 冨士森某作成の調査報告書並びに当審判廷における少年および保護者の各供述によれば

少年は昭和15年2月28日、東京都城東区亀戸において父母の間に三男三女中、次男第二子として出生した。 家庭は極度に貧しく、父は無学無教養である。 父は窃盗前科六犯を有する好酒家で、父の弟もまた前科九犯を有し、現に府中刑務所に服役中であり、祖父は賭博常習犯で大酒家であった。 祖父、父とも近所交際をしない偏屈者である。 母は唖者であって、母の兄と弟の二人が唖者であるという外、その家計は詳らかでない。

昭和20年3月9日、少年が五歳の時、戦災に因り焼け出され現住所に八畳、四畳半二間の粗末なバラックを建てて移転した。 その環境は小岩の繁華街を遠く離れて、通称鹿骨街道に面した農家の間に点在する一部落であって、戸数は27戸あり、そのうち四世帯は犯罪家庭であり、五世帯は生活扶助を受けており、そのほとんどが貧困家庭である。 少年はその社会環境を背景として成長したもので、少年の道義心養成の環境としては必ずしも良くなく、境遇も不幸であったと言うことができる。

 60年以上前の裁判資料だからでしょうが、表現が「無学無教養」「好酒家」「大酒家」「偏屈者」「犯罪家庭」のようにかなり厳しいですね。 今だったら不適切表現!と大騒ぎになるでしょう。 ところでこの家裁の報告によれば、李の父や祖父らが大酒飲みで犯罪性向があるなど、李の家庭はかなりの困難を抱えていたことが分かります。 おそらくDV(家庭内暴力)も激しかったと思うのですが、当時はDVが問題にならなかった時代だったからでしょうか、記述がありません。 私は子供の時に抱いたイメージとして、朝鮮人の家といえばDVを思い出すのですが‥‥。

 そして李が暮らしていた朝鮮部落は27戸、そのほとんどが「貧困家庭」で、そのうち「犯罪家庭」が4戸、生活保護世帯が5戸とあります。 ここの朝鮮部落は当時の全国に散在していた朝鮮部落と似たり寄ったりの様相だったと思われます。 (下記参照)

 李珍宇の家庭や社会環境は、当時の朝鮮人としては決して特異なものではなかったということです。 従って在日朝鮮人は劣悪な社会環境・家庭環境のなかで、多くは正道を歩んだのですが、一部の者が悪の道に走ったと言えます。 そして在日の場合は、悪の道に走った者の割合が昔は高かったと言えるのですが、その後生活が安定するにつれてその割合が低下し、目立たなくなって今に至っているのです。

 現在は逆に、一部の日本人によるヘイトスピーチという悪辣言動が目立ちますね。 また放火などの犯罪に走る日本人も現れていますから、注意を払わねばならないのはこちらの方ですね。 (終わり)

【拙稿参照】

小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532

小松川事件(2)―李珍宇と書簡を交わした朴壽南 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/08/9575512

水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243

第65題 在日一世の家庭内暴力 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuugodai

第76題 在日朝鮮人の犯罪と生活保護 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuurokudai

ある在日の生活保護       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/19/6449827

もう一人の在日の生活保護    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/26/6457698

在日の生活保護         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/16/6867746

在日の生活保護の法的根拠     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/07/22/455680

外国人の生活保護        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/04/11/3066189

在日の今後の見通し(犯罪率)について http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/25/6642370

「朝鮮部落」の思い出(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772

今日は「太陽節」-朝鮮総連に教育費2億7千万円2023/04/15

 今日4月15日は金日成の誕生日で、北朝鮮では「太陽節」という祝日になり、盛大な行事が行われます。 そして日本の朝鮮総連に、在日子女の教育のために多額の資金が送られます。 今年も2億6730万円が送られました。 おそらく朝鮮学校の生徒たちのために使われるのでしょう。

 4月14日付けの「労働新聞」の記事です。 http://www.rodong.rep.kp/ko/index.php?MTJAMjAyMy0wNC0xNC1OMDAzQDExQDBA7LSd66CoQDBAMw====

경애하는 김정은동지께서 재일동포자녀들을 위하여교육원조비와 장학금을 보내시였다  2023.4.14. 《로동신문》 4면

경애하는 김정은동지께서는 위대한 수령 김일성동지의 탄생 111돐을 맞으며 재일동포자녀들의 민주주의적민족교육을 위하여 일본돈으로 2억 6 730만¥의 교육원조비와 장학금을 총련에 보내시였다.

위대한 수령 김일성동지께서와 위대한 령도자 김정일동지, 경애하는 김정은동지께서 재일동포자녀들을 위하여 보내주신 교육원조비와 장학금은 지금까지 모두 169차에 걸쳐 일본돈으로 493억 9 787만 390¥에 달한다.

 訳しますと

「敬愛する金正恩同志におかれては、在日同胞子女たちのために教育援助費と奨学金をお送りになった。 2023年4月14日《労働新聞》4面」

「敬愛する金正恩同志におかれては、偉大な首領である金日成同志の誕生111周年を迎えて在日同胞子女の民主主義的民族教育のために、日本円で2億6730万円の教育援助費と奨学金を総連にお送りになった。」

「偉大な首領金日成同志と偉大な領導者金正日同志、敬愛する金正恩同志におかれては、在日同胞子女たちのためにお送りになった教育援助費と奨学金は、全部で169回にわたり、日本円で493億9787万390円に達する。」

 今日本では、朝鮮学校に公費で補助金を出すことの是非や授業料無償化要求に関して議論がなされています。 そういう議論の際に、北朝鮮から多額の援助を受けている事実があることも念頭に入れてほしいと考えます。

にあんちゃん(1)―在日朝鮮人少女の日記2023/04/21

 『にあんちゃん』は64年前の1958年11月に発行された在日朝鮮人少女の日記です。 この本は評判を呼んでたちまちベストセラーとなり、ラジオやテレビにドラマ化して放送され、また映画化もされました。 8年後の1966年に発行部数63万部、23年後の1981年に114版、それ以外に筑摩や角川、講談社などからも文庫として発行されてきましたから、おそらく数百万部になるでしょう。 また韓国でも1959年に翻訳して発行されて10万部以上が売れたといい、また同時に映画化され、近年また本が再発行されているそうです。

 本の内容は、ネットでは次のように紹介されています。

『にあんちゃん』は、1958年に初版が出版された安本末子(やすもと すえこ)(1943年2月8日 - )の著書。  在日コリアンである安本が10歳の頃(小学校3年生~小学校5年生)に書いた日記である。

昭和28年(1953年)、佐賀県の炭鉱地帯。3歳の時に母を亡くし9歳で父をも失った末子は、炭鉱の臨時雇いの長兄のわずかな稼ぎで兄弟姉妹四人、毎日の糧にもことかく極貧の生活を送っていた。 しかしその長兄も会社の首切りに会い失業。 四人は炭住を追い出され、一家離散。 末子と次兄はつてを頼って他家に居候同然に転がり込むが貧乏はどこも同じであちこちを転々。 そんな究極の困難にもめげず、素直なこころと暖かい思いやりを忘れずに熱心に勉強にはげむ末子の日記

 両親を早くから亡くし、頼れる親戚もいない中で兄弟姉妹四人が極貧の生活を送りながら助け合って生きてきた、そして一番下の妹は学校で元気に明るく過ごし、日記を書き続けてきた、というものです。

 本が出た1958年11月は小松川事件の李珍宇が逮捕されて二ヶ月後で、在日朝鮮人に対するイメージが底まで落ちていた時期でした。(下記参照) そんな時にこの『にあんちゃん』が出たのです。 ですから在日朝鮮人のイメージ向上に大いに役立ったと思うのですが、在日朝鮮人の歴史書を何冊か当たったところ全く取り上げられていません。 おそらくは、在日の歴史というのは〝日本から受けた民族的苦難とそれに対する闘い″という絶対テーマでなければならず、この『にあんちゃん』はそれに符合しなかったからではないかと考えます。 

 それではこの日記では在日がどのように書かれているのかに注目してみました。 図書館から増補版の『にあんちゃん―十才の少女の日記』(光文社カッパブックス 昭和33年11月)を借りることができたので読んでみますと、自分たちが在日朝鮮人としてどういう扱いを受けたのかが書かれていたのは二ヶ所だけでした。 一つは日記の最初の方に出てきます。 小学3年生の時の日記ですから“ひらかな”が多く、ここでの引用では読みやすくするために漢字混じりに書き直しました。

兄さんは今、3年も前から、水洗ボタ(石炭の水洗い)のさおどり(石炭車の運搬)をして働いていますが、特別臨時なので賃金が少ないのです。 賃金というのは、働いたお金のことです。 それが、普通の人より、大分少ないのです。 どのくらい少ないのかといったら、残業を2時間しても、何にもならないというほどです。

お父さんがおったときは、二人で働いていたから、それでもよかったけど、今は生活に困るから、入籍させてくださいと、労務の横手さんに頼んだら、できないと言われたそうです。 どうしてできないのと言ったら、吉田のおじさんの話は、兄さんが朝鮮人だからということです。  <1953年1月26日 月曜日 晴れ> (小学三年) 12~13頁

 「入籍」というのは正社員になることを意味するようです。 父が亡くなった一家を支える長兄は炭鉱の臨時雇いで働いているのですが、朝鮮人である理由で正社員になれなかったという話です。 作者は知り合いのおじさんからそう聞かされたのですが、可能性はあります。 しかし本当なのかどうか、確認のしようがありません。 (続く)

【拙稿参照】

水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243

小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532

小松川事件(2)―李珍宇と書簡を交わした朴壽南 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/08/9575512

小松川事件(3)―李珍宇が育った環境  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502

にあんちゃん(2)―物議を醸した部分2023/04/26

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/21/9578840 の続きです。

 在日朝鮮人について書かれているもう一つは、後々で問題になった部分です。 念のためにその部分をスキャンしました↑。

兄妹四人は、苦運のどん底におちてしまいました。 兄さんの職がないのです。 それどころか、家だってないのですから。 

ここにおられませんのです。 なぜかって、きのどくだし、おれといっても、こっちからことわります。 なぜかというと、《わたしが しごとを しないからかも しれませんが,わたしの わるくちを,いって おられるのです。 わたくしには つめたく あたる のです。 それも にあんちゃんの おられない ときだけです。 『びんぼう ちょうせんじん でていけ。 おいがたの いえにおらせん』》といわれるのですから、おればつめたい目でにらまれて、やせるばかりです。 <1954年6月17日 木曜日 晴れ> (小学五年) 192頁                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

 このうち二重括弧《》内は、日記ではローマ字です。 分かりやすいように漢字混じり文に書き直しますと

私が仕事をしないからかも知れませんが、私の悪口を言っておられるのです。 私には冷たく当たるのです。 それも、にあんちゃんのおられない時だけです。 「貧乏 朝鮮人 出ていけ。 おいがたの家に、おらせん」

 「にあんちゃんのおられない」は「二番目の兄ちゃんがいない」という意味です。 「おいがた」は「オレのところ」、「おらせん」は「おられないようにする」という意味で、おそらく北九州地方の方言でしょう。 

 長兄は仕事を探している時、弟妹を知り合いの宮崎さんという家に一時的に預かってもらったのですが、それが一時的ではなく1年にもなってしまいました。 その時の日記が上記で、宮崎さんから「貧乏な朝鮮人は出ていけ。ウチの家におられないようにしてやるぞ」と言われたと書いたのです。 しかも肝心な部分がローマ字なので、本当のことを隠すためにあえてローマ字にしたのではないか、という憶測を生むことになったようです。 ですから宮崎さんは“冷たい”というバッシングを受けたのでした。

 ところが日記の作者である安本末子さんは、のちに『朝日ジャーナル』(1981年11月6日号)のインタビュー「安本末子さん 日本には感恩の情 朝鮮には深い愛情 『にあんちゃん』から童話の世界へ」で、次のような恐縮と謝罪を繰り返し口にしています。

私が実名で出たことは仕方がないにしても、宮崎さんとか、滝本先生は、ずいぶんお世話になったのに、ちょっと敵役みたいなかたちで出てしまって、とくに宮崎さんについては、冷たい仕打ちをしたみたいなことを実名で書いてある。

当時、宮崎さんは乳飲み子を抱えた五人家族で、二間の炭鉱の長屋に住んでいたんです。 そこへ兄がほんとに困り果てて、一時的でいいからということで頼んだんですけど、こちらはズルズルと一年近く居すわってしまった。 だから、どんなに大変だったかっていうのは、よく分かるんです。‥‥

それが日記では実名で出て、しかも「家にかぎ掛けていきますよ」っていわれたとか、細かく、何も分からずに書いているんですね。 だから、いや、とんでもないことをしてしまった。 恩をあだで返したという思いが、心にズシンときて、非常に重たかったわけです。 その後、マスコミに出るのを非常に嫌ったことの一番の理由は、そこにあったんです。

―杉浦明平さんが66年に書いた文章に、宮崎さんはその本が出たために、ひどい目に遭ったようだということが出ていました。

具体的には知らないんですけど、予想はできます。 あんなけなげな兄妹四人に冷たくして、みたいな見方をされたんじゃないでしょうか。 読者の中には、10歳の子供が書いたことだと受け止めてくださった人は多いんですけど、だからといって実名で出してしまったことが許されるわけじゃないっていう思いは、ほんとにズシンときましたね。 (以上 36~37頁)

宮崎さんに対して申しわけないと、心に突き刺さっている部分がもう一ヵ所。 朝鮮人だからって陰口をされた、というふうに書いてある。 直接いわれたわけではないのに、ああ、そんなふうに思われているのか、かなしい、というふうな記述だったと思うんです。 ただ、いま思い返してみて、私が朝鮮人だという差別を何か受けたかというと、何も思い浮かばないんです。 (39頁)

 さらに著述家の成美子さんはその2年ほど後に安本さんに直接取材して、『朝鮮研究』232号(1983年7月)に次のように報告しています。

「本当に差別を受けなかったのですか?」と私はずいぶん執拗に安本末子さんに食い下がった。 「びんぼう ちょうせんじん でていけ」という言葉をローマ字で日記に記さざるを得なかった少女の屈折した感情が差別と無縁であるとは思えなかったのである。 末子さんは頑固に頭をふり、ローマ字を習いたての女の子が得意になって書いたにすぎず、それがはからずも一年以上もお世話になった家の人を傷つけ申し訳ないことをしたというのだった。 (晩聲社『在日二世の母から在日三世の娘へ』1995年9月に所収 280頁)

 宮崎さんが何気なく呟いた言葉を子供が聞きつけて、安本さんに伝えたのでしょうか。 宮崎さん宅も貧乏で子沢山なのに、そこに他人の子供が二人も転がり込んで1年も居候している(兄と姉は働きに出て、あまり帰って来ない)のですから、そんな呟きはあり得ると思うのですが、どうなんでしょうか。 そして安本さんが小学5年生になってローマ字を書くことに興味を覚えた際、その聞いた呟きを日記に書いたと思うのですが‥‥。 

 担任の先生と家族以外に誰も読まれないと思って書いた日記が出版され、実名がそのまま出てきたのですから、書かれた人はビックリ・大迷惑だったでしょうねえ。 (続く)

にあんちゃん(1)―在日朝鮮人少女の日記 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/21/9578840

帰化政治家の誕生2023/04/29

 先の統一地方選挙と、衆議院補欠検挙で帰化者が当選しましたね。 世田谷区会議員のオルズグルさんと、千葉5区の英利アルフィヤさんです。 この二人は名前からして外国に由来があることが分かるし、またそれを前面に押し立てて選挙運動をされたようです。 どちらも初当選ですから、これからどのような政治活動をされるのか、注目したいと思います。

 それ以外に、私の知り合いの在日韓国人の子供さんも某市会議員選挙に立候補し、当選しました。 この人は何十年か前に日本人と結婚したことをきっかけに帰化されたのですが、選挙公報では国籍履歴を出しておられなかったですね。 

 父親は上述のように在日韓国人で外国籍ですから、有権者に投票を呼びかけることがひょっとして問題になるかも知れません。 ですから選挙運動には参加せず、朝早く選挙亊務所を鍵開けして運動員が最初に来るまで留守番、それから夜に選挙事務所を掃除して鍵閉めをする、という仕事だけをしていたそうです。

 日本はこれから政治の世界にも帰化者が入ってくることになるでしょう。 一方選挙では日本人の立候補者が少なくて、無投票となってしまう場合が多くなってきました。 ですから帰化者の政治参加が増えることが、日本の政治を活発化することに繋がるのではないかと期待するところです。

 ところでインターネットの世界ではネトウヨ民族主義者と思われる人たちが、帰化者の立候補に対して「国益」とかの用語を使って反対意見を出していましたね。 彼らはこれで正義を主張していると思っているみたいですが、内容がかなりレイシズム的ですから醜悪としか言いようがありません。

【拙稿参照】

ヘイトにさらされた帰化者―新井将敬 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/22/9527735

国籍を考える―新井将敬      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/27/8628332

帰化者を調べるのは簡単なのだが―北村晴男 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/01/9559829