小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち ― 2023/04/04
在日問題に関心のある方は、64年前に起きた小松川事件の李珍宇についても当然に知っておられるでしょう。 岩波新書『在日朝鮮人―歴史と現在』(2015年1月)からその概要を紹介します。
1958年8月、都立小松川高校で女子生徒の遺体が発見され、翌月、18歳の李珍宇がこの女子生徒を殺害した容疑で逮捕された。 いわゆる「小松川事件」である。 李は、日雇労働者の父と半聾啞者の母との間に、貧しい亀戸の朝鮮人部落で生まれ育ち、日本名を名乗り、日本語しか話せぬ朝鮮人二世であった。 中学卒業後は、日立製作所と第二精工舎に国籍を理由に就職を拒否され、都立小松川高校の定時制に入学していた。 帰国運動というある種の民族運動が一大高揚期を迎え、民族という価値観がその重みを決定的に増した時代にあって、李珍宇は、女子生徒ともう一人の女性の殺人の罪を問われて最高裁で死刑を言い渡された(1962年11月執行)。 (147頁)
ここに補足しますと、犯人は犯行直後、被害者宅に遺品の櫛や手鏡を送りつけたり、新聞社と警察に完全犯罪を誇示する犯行声明の電話をかけるなど、非常に挑発的な行動をしました。 この電話の声が録音され公開されると、李珍宇(日本名は金子鎮宇)の声に似ているという情報が寄せられ、李は逮捕されたのでした。 検察は女性二人の強姦殺人で李を起訴しましたが、弁護側は射精していないとして姦淫を否定し、またうち一人に対する殺意はなかったと主張しました。 判決では、女性二人の殺害は強姦致死・殺人と認定されました。
さらに李は小学生の時に窃盗をおこなって補導されたことがあり、中学生の時には図書館や学校で本・備品などを盗んで家裁より保護観察処分を受けていました。 李はこの保護観察処分中に凶悪事件を起こしたのでした。
事件のおおよその経過は以上です。 裁判ではこの犯人の李に死刑判決を下したのですが、日本の何人かの知識人が救援に立ち上がりました。 上原専禄、幼方直吉、大岡昇平、木下順二、高木健夫、旗田巍、羽生英敏、三宅艶子、吉川英治、渡辺一夫が発起人となって「李少年を助ける会」を発足させ、「嘆願書」をつくって社会に広く署名を集める運動を始めたのです。
嘆願書には四つの理由が挙げられています。 一つ目は「心より悔悟し、生まれかわった人間になっている」、二つ目は「未成年者の犯罪である」、(三つ目は後述)、四つ目は「この少年を死なせたくないという共通の願い」で、以上の三点は少年死刑囚に対する救援活動として一応理解ができます。 しかし問題としたいのは、三つ目なのです。 引用・紹介します。
第三に、これは、在日朝鮮人の少年がおこした事件であったということです。 李少年の父は、大正初年に日本にきてから、日雇い労働者としてその日ぐらしの生活を送って来ました。 少年は、孤立した環境の中で母国語も、祖国のことも知らず、民族的自覚のないままに育ちました。 第二審判決は、「洋の東西を問わず、国籍のいかんに拘わらず、人間としての重大な責任を問われなければならない」と断定していますが、この問題は、それだけでは割り切れないものがあると思います。‥‥
私ども日本人としては、過去における日本と朝鮮の不幸な歴史に目をおおうことはできません。 李少年の事件は、この不幸な歴史と深いつながりのある問題であります。 この事件を通して、私たちは、日本人と朝鮮人とのあいだの傷の深さを知り、日本人としての責任を考えたいと思います。 したがって、この事件の審理については、とくに慎重な扱いを望みたいのであります。
極貧家庭で生まれ育った在日朝鮮人少年が犯した強姦致死・殺人連続事件というトンデモない犯罪に、「過去における日本と朝鮮の不幸な歴史と深いつながりのある問題」というのが救援に立ちあがった知識人たちの主張です。 しかしどう考えても私には理解が難しいものです。 さらにこの事件で「日本人としての責任」があるとまで言われると、私は全くの理解不能となります。
「不幸な歴史」とは、日本が朝鮮を植民地化したために多数の朝鮮人が強制連行され、言葉や名前を奪われて民族的自覚を喪失し、日本人から差別されて困難な生活を強いられた、ということを指すのでしょう。 そしてその「不幸な歴史」には「日本人の責任」があると言っているのでしょう。 しかし何故それが凶悪犯罪に結びつくのか?
今では信じられないでしょうが、当時の一部の日本知識人たちは「不幸な歴史」と在日の犯罪とが深くつながるとして在日朝鮮人少年凶悪犯の救援に立ちあがった、そういう時代だったのです。 しかし「(当の)李自身は、自らが犯した罪と、朝鮮人としての出自や境遇を必ずしも結びつけて考えていたわけではない」(岩波新書『在日朝鮮人』147頁)のでした。
事件が起きた1958年8月は、朝鮮総連支部が北朝鮮の金日成に帰国を願う手紙を送った時でした。 それを金日成が受け入れたので、翌年にかけて朝鮮総連による北朝鮮帰国運動が高揚しました。 そんな時期に小松川事件という凶悪事件が起きたのですから、総連は事件を全く無視しました。 また民団も民族の恥と思ったようで、こちらも無視しました。
李珍宇の救援活動は、在日の民族団体から全く無視されながら日本の一部知識人が担ったのでした。 (続く)
【追記】
李珍宇の死刑執行から20年ほど経って、この事件は冤罪だと主張する本が出版されました。 (築山俊昭『無実! 李珍宇 小松川事件と賄婦殺し』三一書房労組 1982年8月)
しかし実際の裁判では李は一貫して自分の犯罪と認めており、弁護側も一貫して李の犯罪を認めていました。 また李は救援活動者と書簡を多数交わしていましたが、すべて自分の犯罪を認めた上での手紙交換でした。 救援活動も李の無実を訴えるものではありませんでした。
【追記】
鄭大均さんは『韓国のイメージ』(中公新書 1995年10月)で、日本人が朝鮮に関心を持つパターンの一つとして、朝鮮植民地支配の民族的責任を問う「贖罪型」が1960年代の半ばから始まったと論じています。
植民地支配の責任を‥‥日本人が集団として隣国に対して犯した罪を自己確認し、集団自体の人間・社会変革を通して隣国との連帯を確認しようとする‥‥玉城素が1960年代に出した『民族的責任の思想』‥‥」 (43頁)
ところが民族的責任論は、小松川事件の救援運動「李少年をたすける会」がそれより先行して現れているとも論じています。
朝鮮に対する民族的責任を問う具体的なコミットメントの例には、これ(1960年代半ばの玉城素ら)より早く小松川事件の例がある。」 (45頁)
つまり朝鮮植民地支配の責任は政治指導者や国家の罪に還元するのではなく、日本人全体が負うもので「民族的責任」だという「贖罪論」の最初が小松川事件の「李少年をたすける会」にあり、その後1960年代半ばから「贖罪論」が広がったというのが、鄭大均さんの考え方のようです。 おそらくその通りだっただろうと私も思います。 (2023年3月7日)
【拙稿参照】
水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243
コメント
_ 竹並 ― 2023/04/04 14:20
_ 辻本 ― 2023/04/04 14:27
訂正しました。
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些細なことですが、上記「大岡昌平」は、大岡昇平の誤植だと思います。