在日誌『抗路』に出てくる「北鮮」(2)2023/06/06

在日総合誌『抗路10』 2022年12月

 在日総合誌の『抗路』の最近号(2022年12月)掲載される短歌に、「北鮮」が二ヶ所に出てきています。 ↑にスキャンして掲示しました。

失った日本語さがし断片を混ぜた北鮮訛りの電話 (187頁) 

北鮮のロックを唄う少女らのムルムピョどこへ突き刺さるのか (189頁)

 ムルムピョとは、「疑問符」という意味の朝鮮語「물음표」です。

 この雑誌には以前にも同じ作者による短歌に「北鮮」が出ていて、拙ブログでも取り上げました。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000

 その昔には「北鮮」は使ってはならない差別語だと糾弾された時代がありました。

 1973年当時の『朝日ジャーナル』という雑誌には、

「北鮮」は「鮮人」と同様に差別言辞‥‥この言葉はあの関東大震災における〝朝鮮人虐殺″の自警団につながります。

という投書が掲載されていました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/31/9590629 関東大震災の朝鮮人虐殺まで言及するくらいに、「北鮮」は破壊力のある言葉だったのです。 ですから、うっかり或いは何気なく「北鮮」を使っただけでも糾弾を受けた時代があったのです。 

 それが今では在日らが作る雑誌に堂々と何度も載るのですから、世の流れというか変化に驚くのみです。 またかつて差別語「鮮」を使ったとして集団で糾弾闘争した人たちは、今どう考えているのでしょうか。 今はそういう人たちの発言が見られないのは、残念ですね。

【在日総合誌『抗路』に関する拙稿】

在日誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000

在日が入管問題に冷たい理由―『抗路』を読む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/20/9587549

在日のアイデンティティは被差別なのか―尹健次 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/12/9387023

かつての朝鮮学校には日本人教師がいた―『抗路9』 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/09/9470770

密告するのは同じ在日同胞―『抗路9』座談会 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/03/9468948

親の靴職人を継いだ在日子弟―『抗路9』座談会 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/24/9466872

在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212

戦後補償運動には右派も参加していた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/07/9461960

戦後補償問題の解決とは?―『抗路』外村大を論ずる http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/14/9464117

在日誌『抗路』への違和感(1)―趙博「本名を奪還する」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/27/9381682

『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666

趙博さんの複雑な名前     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171893

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

在日総合誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000

在日の自殺死亡率 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/20/9369020

在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638

在日の低学力について(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169

民族的アイデンティティはどこまで主張すべきか2023/06/11

 在日総合誌の『抗路』10号(2022年12月)に「バックラッシュ時代を生きる」と題する、五人の座談会があります。 そのなかに姜信子さんの次の発言に目が行きました。

これまでの『抗路』について‥‥「在日」という言葉や「アイデンティティ」という言葉も出てきましたが、「在日」の「アイデンティティ」などはせいぜい近代150年の話なんです。 近代150年といえば、もちろん日本と朝鮮半島だけに収まる話なんかっではなく、帝国主義列強のほかは、世界のほとんどすべての場所で、近代というのは根本的にほとんど災厄としてやってきたし、今も災厄であり続けているじゃないですか。 それに抗うには、とにかく近代の乗り越えを考えたい、そしてアイデンティティというのは近代とは不可分の概念ですから、そのような概念をどのように振り払うかを考えたいと思います。 (66頁)

 在日韓国・朝鮮人を論ずる時に必ずと言っていい程に出てくる言葉が「アイデンティティ」です。 これに「民族」をつけて、在日は奪われた「民族的アイデンティティ」をいかに取り戻すか、それが大きなテーマだったし今もそうです。 しかし姜さんは、「アイデンティティ」は「災厄」でしかない近代の概念だから、それを「振り払う」ことを主張しています。 そして次のような例を挙げます。

たとえば、旧ソ連の中央アジアに生きる高麗人(コリョサラム)に民族意識と結び付いたアイデンティティについて尋ねると鼻で笑われるわけですよ。 とはいえ、これは2000年代の話で、韓国とのより太い経済的結び付きを願うようになっている彼らが今どのようにナショナルなものと結び付いたアイデンティティを構築しているのか分からないところではあるのですが、ともかく2000年代までは、中央アジアのような多民族社会に生きる少数民族に過ぎない高麗人が、民族的アイデンティティを主張することは自殺行為にしかならない‥‥という現実があったわけです。 (66頁)

 姜さんは、中央アジアでは「民族的アイデンティティを主張することは自殺行為」という現実があると指摘しています。 たしかにここ数十年ほどの世界史をみても、多民族が共存している場所においてアイデンティティの主張は激しい民族衝突をもたらす場合が多いですね。

 姜さんは中央アジアを例に挙げていますが、私は「民族的アイデンティティの自殺行為」としてもう一つ、20年前まで存在していたユーゴスラビアを挙げたいと思います。 旧ユーゴスラビアは多民族国家として仲良く共生してきたはずなのに、社会主義崩壊に伴い1990年から各民族間で凄惨な紛争が始まり、ユーゴ全体が何十年にもわたり惨烈極まる戦場と化したのです。 「民族的アイデンティティ」を唱えることが、ここまで残虐を引き起こすのかと考えさせる悲惨な紛争でした。

 姜さんは(民族的)アイデンティティについて、次のように論じます。

状況によって、生き方によって、アイデンティティなどいくらでも変わる。 「在日」としてのアイデンティティが分からなくて死ぬほど悩むような、アイデンティティという近代的概念が生きる武器どころか、足かせにしかならないような、そういう愚かな囚われは御免蒙りたい。 (66頁)

 ここは話し言葉をそのまま文字化したみたいで、ちょっと分かりにくいですね。 要は、在日が悩みぬくようなアイデンティティは「足枷」でしかないから自分は「御免蒙る」ということのようです。 在日を論じる本などでは、民族を取り戻してアイデンティティをしっかり持とうというような呼びかけがなされますが、それに対する反対意見だと私は受け取りました。

 ここで思い出すのは佐藤勝巳です。 1980年代までは日本朝鮮研究所(後の現代コリア研究所。今は閉鎖・消滅)の事務局長として、民族差別と闘う運動に参加して在日朝鮮人の権利拡大に努力した方です。 (ただし1980年代に民族差別と闘う運動と決別し、北朝鮮を厳しく批判しつつ拉致問題に深く関わる) 佐藤は、在日韓国・朝鮮人の活動家たちが自分たちの「民族」を訴えて日本社会に様々な要求をすることに異を唱えました。

在日韓国・朝鮮人の発言や書いたものを読んで驚かされることは、日本社会は非国際的だ、在日韓国・朝鮮人の要求に日本政府や日本人がどう応えるかが国際化の試金石であり、我々が日本社会を教育しているのだ、という趣旨の主張をしていることだ。‥‥在日韓国・朝鮮人の多くは、民族対立の恐ろしさをリアルに認識していない (『在日韓国・朝鮮人に問う』亜紀書房 1991年4月 191頁)

民族間の対立は、基本的には、文化や価値観が異なることに主たる原因がある。 これに宗教が違い、領土問題がからんできたら、ほとんどの場合人間の殺し合いに発展する。 それを防止する方法は‥‥ 国民化にあることには、間違いない。 (同上 195頁)

世界各国は、国民化をめざし血のにじむ努力をしている‥‥それが国家にとっても、少数民族にとってもプラスであることは、民族対立の例が証してあまりある。 国民化の過程における少数民族の人権尊重というのなら誰もが納得しよう。 

しかし、日本でいわれている在日韓国・朝鮮人たちの民族教育論や「共存」「共生」論は、国民化に対するアンチテーゼとしていわれているものだ。 明らかに民族対立を回避する努力に逆行する主張である。 (同上 208頁)

 「民族教育論」「共存」「共生」論に対する佐藤の批判は、これが過度な要求となって「民族対立」、さらに「宗教が違い、領土問題がからんできたら、ほとんどの場合人間の殺し合いに発展」に至る危険性を言っています。 ここで前回に紹介したフランスの映画監督アンヌ・ベルヌイユ(アルメニアから両親とともに亡命)の言葉が思い出されます。

父は常に「先住の人に優先権がある。ぶつかった時は我々が譲るべきなのだ」と諭した。家でアルメニア語を話し、アルメニア料理を食べても、外ではフランスの習慣に従った。‥‥アルメニア人としての誇りを一日も忘れたことはないが、受け入れてくれたフランスへの感謝も忘れたことはない

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/26/7812267

 佐藤の言う「国民化」というのは、おそらくはこのアンヌ・ベルヌイユの「受け入れてくれたフランスへの感謝」と同じものと思われます。 つまり佐藤の主張は、在日は日本への要求ばかりで日本への「感謝」がないことが「民族対立」につながる、在日は日本の「国民化」を受け入れよ、ということだと思います。

 ここで冒頭の姜信子さんの「民族的アイデンティティを主張することは自殺行為」だとして「御免蒙りたい」という発言を振り返ってみて、それが凄惨な「民族対立」を避ける考え方として私には納得できるものでした。

 姜信子、佐藤勝巳、アンヌ・ベルヌイユの三者に共通する思想を考えてみました。

【姜信子に関する拙稿】

姜信子『私の越境レッスン・韓国編』http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/20/7738016

姜信子『棄郷ノート』を読む   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/19/8977899

韓国語の雑学―전산이기(電算移記)2023/06/17

 知り合いの在日韓国人女性から、夫が亡くなって今相続の手続きをしている、そのために領事館に行って戸籍(除籍謄本)を取り寄せた、自分はハングルが読めるので自分で翻訳している、しかしどの韓国語辞書を引いても出てこない言葉が出てくる、どういう意味なのか教えてほしい、と尋ねてこられました。

 何だろうかと見ますと「전산이기」でした。 その方が取り寄せた韓国戸籍はデジタル化された戸籍とデジタル化される以前の手書き・ワープロ打ちの戸籍の二種類があったのですが、前者のデジタル化された戸籍に「전산이기」という言葉がありました。 確かに「전산이기」は韓国語の辞書にはありませんねえ。

 実は「전산이기」を漢字に書き直すと「電算移記」になります。 韓国では20年ほど前に、それまでの戸籍をすべてコンピューターに移し替えてデジタル化しました。 このことを指しています。 ですから「전산이기」は、この日に“電算に入力した”という意味です。

 「전산이기」は戸籍にだけに使われる行政用語のようです。 一般の韓国人には何のことやら分からず、ましてや在日も分からないでしょう。 ただし在日は漢字を解しますから、「電算移記」と漢字にすると意味はすぐさま理解しますね。

 ところでその女性からお話を聞かせてもらうと、〝夫は昔運輸業を経営していて、その関係であちこちに不動産を所有して残っている、だから相続の手続きが必要になった"とのことでした。 また領事館近くの行政書士事務所では戸籍の翻訳は一枚5000円と言われてビックリして、それでは自分で翻訳すると言ってきたそうです。 〝民団に頼まなかったのか"と聞いたら、〝この地域の民団は加入者が減って、遠くの民団に統合されてしまった、その時はもう運輸業も止めていたのでそれを機会に民団から抜けた"とのことでした。

 ところで在日の相続ですが、相続人を確定するために韓国戸籍が必要になります。 今回の場合亡くなった方(男性)は兄弟が数人と少なく、また今の女性と結婚してずっと暮らしてきて、離婚とかせず、愛人も作らなかったので、取り寄せた戸籍(除籍謄本)は少なくて済みました。 それでも数十枚(本人だけでなく父母、祖父母、兄弟、兄弟の子孫のもの、しかもデジタル化したものとそれ以前のものの両方が必要)くらいだったそうです。

 今回は「전산이기」という韓国語の勉強でした。

 在日一世の男性の場合、色んなケースがあります。 例えば、戦前日本に渡航する前に既に結婚していて子供がいて、日本に来てから終戦となって朝鮮に帰れなくなり日本でまた結婚(重婚)して子供を作った、という場合が結構あります。 遺された妻が相続の手続きをせねばならないのですが、見たこともない韓国の本妻やその子供とどのようにして連絡を取るかで悩みます。

 また戦後に密航で来日して、不法に外国人登録証を入手してその名前で在日と結婚して子供を作った、という場合もあります。 この場合でも、本人が警察や入管に自首して新たな在留資格を得て、真正の身分での外国人登録と韓国戸籍整理をしてくれていたら楽なのですが、そうでない場合も結構あります。 

 こんな人が亡くなったら、後に遺族がせねばならない相続が実に複雑になりますね。 在日の相続については、日本人とは違う苦労があります。

【拙稿参照】

韓国語の雑学―賻儀  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/26/9543701

韓国語の雑学―将棋倒し http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/15/9235466

韓国語の雑学―下剋上  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/22/9237987

韓国語の雑学―「クジラを捕る」は包茎手術の意 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325273

韓国語の雑学―내로남불(ネロナムブル) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334079

韓国語の雑学―東方礼儀の国    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/17/9388692

韓国語の雑学―동족방뇨(凍足放尿) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/02/9418323

李孝石は親日作家だったのか2023/06/24

「緑旗73号」1942年3月

 「李孝石」を知っている日本人は、朝鮮文学史研究者を除けば、韓流ブームの契機となった「冬のソナタ」の韓国語台詞を全て覚えたような韓流の熱烈ファンでしょう。 韓国ドラマ「冬のソナタ」の第二話に、ユジン(チェ・ジウ)とジュンサン(ペ・ヨンジュン)が授業を抜け出した罰として校庭にある焼却場の掃除をする場面があります。 その時の台詞に、ユジンは次のように言います。

이 냄새구나! 이효석의 낙엽을 태우면서 그거 배울 때, 낙엽을 태우는 냄새가 뭔지 늘 궁금했었어.

 訳しますと、

この匂いなのねえ! 李孝石の『落ち葉を燃やしながら』、それを勉強していた時、落ち葉を焼く匂いってどんなのか、ずっと気になっていたの。

となります。 なお「李孝石の『落ち葉を燃やしながら』、それを勉強していた時」の部分は、ドラマの日本語字幕では「ある詩に落ち葉を燃やす場面があって」となっていました。

 李孝石の「落ち葉を燃やしながら」は韓国の国語の教科書に出てくる随筆ですから、ほとんどの韓国人が知っていると言っていいです。 しかし日本では目にすることが難しく、「李孝石」という作家名は知っていても「落ち葉を燃やしながら」を読んだ人はちょっとした研究者しかいないでしょうねえ。 だから字幕ではそんな日本人のために「李孝石」「落ち葉を燃やしながら」を出さなかったのでしょう。

 李孝石は太平洋戦争中の1942年5月に35歳で病死するのですが、その直前に『緑旗73号』(1942年3月)という雑誌に、↑のような一文を投稿しているのを見つけました。 『緑旗』は朝鮮総督府の御用団体といわれる「緑旗連盟」が発行していた雑誌です。 真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった時期に、朝鮮人の文学者らに「私が国語で文学を書くについての信念」をテーマに原稿を集めたところ、李がこれに応じて、いの一番に寄稿したものです。

 李孝石は1940年の創氏改名によって法定創氏したので、「李孝石」という民族名をそのまま継続して使っていました。 ですからこの寄稿文も「李孝石」の名前です。

 李孝石の一文↑を現代文に書き直してみました。

日本語が世界語に   李孝石

国語が世界語としての権威をもち、国語で書く文学が世界的な認識を得るようになる日を念じたのも、単なる夢ではなかったようです。 大東亜の主国語となり、やがては西邦にまでその威勢が延びたとき、国語による文学ももはや世界的なものとならざるを得なくなるでしょう。 その時、文学の内容となろう朝鮮的な素材は、単に日本文学にばかりではなく、世界文学に特異なプラスを寄与することになりましょう。

 当時は日本の植民地下でしたから、「国語」とは日本語のことです。 李孝石は二十代前半の若き頃から日本語を書き始め、三十の頃からは日本語小説等の作品を発表します。 そしてその時の彼は、日本(当時は「内地」)でも作家として有名になりつつあったのでした。 それだけ彼の日本語作品は、日本の文壇でも評価されるほどになっていたのです。 

 今回見つけた一文↑を読めば、李が日本語で作品を発表するのは「朝鮮的な素材」すなわち自分たち朝鮮民族の文化や風情といったものを、日本語を通して世界に広めて認めてもらおうという意があったことが分かります。

 そこには皇民化政策=内鮮一体化を進める朝鮮総督府に対し抵抗するような「反日」は全くなく、むしろ世界に勇躍する大日本帝国に乗っかろうとしています。 「親日派=民族の裏切り者」と言ってしまえばその通りなのでしょうが、当時の朝鮮の知識人がどのような気持ちであったのかを垣間見せる一文だと思います。

 こんな李孝石が書いた随筆が、解放後の韓国の教科書に長年にわたって採用されたのでした。 李の親日的言動について、韓国では知られていないようです。

 ところで参考として、韓国の裴相美という研究者は李孝石について次のように評しています。  

李孝石の日本語創作が、総督府が皇国臣民化政策の脈絡で行っていた内鮮一体政策の時代的雰囲気の中で創作された‥‥ 「朝鮮的なもの」と「世界的なもの」が共存する李孝石の日本語小説‥‥ 李孝石の日本語小説が素材と形式の側面では総督府の政策と共存しつつも、全的に従属はしない奇異な様相‥‥ 厳しい時代の現実の中でも独自の作家精神を失わず、作品を創作していこうとする朝鮮文人の精神的苦闘  

http://hatano.world.coocan.jp/kaken2/sassi/%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%89.pdf

 拙ブログでは、李孝石は以前に取り上げたことがありますので、ご笑読くだされば幸甚。

【拙稿参照】

李孝石「落葉を燃やしながら」   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/15/8049349