民族的アイデンティティはどこまで主張すべきか2023/06/11

 在日総合誌の『抗路』10号(2022年12月)に「バックラッシュ時代を生きる」と題する、五人の座談会があります。 そのなかに姜信子さんの次の発言に目が行きました。

これまでの『抗路』について‥‥「在日」という言葉や「アイデンティティ」という言葉も出てきましたが、「在日」の「アイデンティティ」などはせいぜい近代150年の話なんです。 近代150年といえば、もちろん日本と朝鮮半島だけに収まる話なんかっではなく、帝国主義列強のほかは、世界のほとんどすべての場所で、近代というのは根本的にほとんど災厄としてやってきたし、今も災厄であり続けているじゃないですか。 それに抗うには、とにかく近代の乗り越えを考えたい、そしてアイデンティティというのは近代とは不可分の概念ですから、そのような概念をどのように振り払うかを考えたいと思います。 (66頁)

 在日韓国・朝鮮人を論ずる時に必ずと言っていい程に出てくる言葉が「アイデンティティ」です。 これに「民族」をつけて、在日は奪われた「民族的アイデンティティ」をいかに取り戻すか、それが大きなテーマだったし今もそうです。 しかし姜さんは、「アイデンティティ」は「災厄」でしかない近代の概念だから、それを「振り払う」ことを主張しています。 そして次のような例を挙げます。

たとえば、旧ソ連の中央アジアに生きる高麗人(コリョサラム)に民族意識と結び付いたアイデンティティについて尋ねると鼻で笑われるわけですよ。 とはいえ、これは2000年代の話で、韓国とのより太い経済的結び付きを願うようになっている彼らが今どのようにナショナルなものと結び付いたアイデンティティを構築しているのか分からないところではあるのですが、ともかく2000年代までは、中央アジアのような多民族社会に生きる少数民族に過ぎない高麗人が、民族的アイデンティティを主張することは自殺行為にしかならない‥‥という現実があったわけです。 (66頁)

 姜さんは、中央アジアでは「民族的アイデンティティを主張することは自殺行為」という現実があると指摘しています。 たしかにここ数十年ほどの世界史をみても、多民族が共存している場所においてアイデンティティの主張は激しい民族衝突をもたらす場合が多いですね。

 姜さんは中央アジアを例に挙げていますが、私は「民族的アイデンティティの自殺行為」としてもう一つ、20年前まで存在していたユーゴスラビアを挙げたいと思います。 旧ユーゴスラビアは多民族国家として仲良く共生してきたはずなのに、社会主義崩壊に伴い1990年から各民族間で凄惨な紛争が始まり、ユーゴ全体が何十年にもわたり惨烈極まる戦場と化したのです。 「民族的アイデンティティ」を唱えることが、ここまで残虐を引き起こすのかと考えさせる悲惨な紛争でした。

 姜さんは(民族的)アイデンティティについて、次のように論じます。

状況によって、生き方によって、アイデンティティなどいくらでも変わる。 「在日」としてのアイデンティティが分からなくて死ぬほど悩むような、アイデンティティという近代的概念が生きる武器どころか、足かせにしかならないような、そういう愚かな囚われは御免蒙りたい。 (66頁)

 ここは話し言葉をそのまま文字化したみたいで、ちょっと分かりにくいですね。 要は、在日が悩みぬくようなアイデンティティは「足枷」でしかないから自分は「御免蒙る」ということのようです。 在日を論じる本などでは、民族を取り戻してアイデンティティをしっかり持とうというような呼びかけがなされますが、それに対する反対意見だと私は受け取りました。

 ここで思い出すのは佐藤勝巳です。 1980年代までは日本朝鮮研究所(後の現代コリア研究所。今は閉鎖・消滅)の事務局長として、民族差別と闘う運動に参加して在日朝鮮人の権利拡大に努力した方です。 (ただし1980年代に民族差別と闘う運動と決別し、北朝鮮を厳しく批判しつつ拉致問題に深く関わる) 佐藤は、在日韓国・朝鮮人の活動家たちが自分たちの「民族」を訴えて日本社会に様々な要求をすることに異を唱えました。

在日韓国・朝鮮人の発言や書いたものを読んで驚かされることは、日本社会は非国際的だ、在日韓国・朝鮮人の要求に日本政府や日本人がどう応えるかが国際化の試金石であり、我々が日本社会を教育しているのだ、という趣旨の主張をしていることだ。‥‥在日韓国・朝鮮人の多くは、民族対立の恐ろしさをリアルに認識していない (『在日韓国・朝鮮人に問う』亜紀書房 1991年4月 191頁)

民族間の対立は、基本的には、文化や価値観が異なることに主たる原因がある。 これに宗教が違い、領土問題がからんできたら、ほとんどの場合人間の殺し合いに発展する。 それを防止する方法は‥‥ 国民化にあることには、間違いない。 (同上 195頁)

世界各国は、国民化をめざし血のにじむ努力をしている‥‥それが国家にとっても、少数民族にとってもプラスであることは、民族対立の例が証してあまりある。 国民化の過程における少数民族の人権尊重というのなら誰もが納得しよう。 

しかし、日本でいわれている在日韓国・朝鮮人たちの民族教育論や「共存」「共生」論は、国民化に対するアンチテーゼとしていわれているものだ。 明らかに民族対立を回避する努力に逆行する主張である。 (同上 208頁)

 「民族教育論」「共存」「共生」論に対する佐藤の批判は、これが過度な要求となって「民族対立」、さらに「宗教が違い、領土問題がからんできたら、ほとんどの場合人間の殺し合いに発展」に至る危険性を言っています。 ここで前回に紹介したフランスの映画監督アンヌ・ベルヌイユ(アルメニアから両親とともに亡命)の言葉が思い出されます。

父は常に「先住の人に優先権がある。ぶつかった時は我々が譲るべきなのだ」と諭した。家でアルメニア語を話し、アルメニア料理を食べても、外ではフランスの習慣に従った。‥‥アルメニア人としての誇りを一日も忘れたことはないが、受け入れてくれたフランスへの感謝も忘れたことはない

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/26/7812267

 佐藤の言う「国民化」というのは、おそらくはこのアンヌ・ベルヌイユの「受け入れてくれたフランスへの感謝」と同じものと思われます。 つまり佐藤の主張は、在日は日本への要求ばかりで日本への「感謝」がないことが「民族対立」につながる、在日は日本の「国民化」を受け入れよ、ということだと思います。

 ここで冒頭の姜信子さんの「民族的アイデンティティを主張することは自殺行為」だとして「御免蒙りたい」という発言を振り返ってみて、それが凄惨な「民族対立」を避ける考え方として私には納得できるものでした。

 姜信子、佐藤勝巳、アンヌ・ベルヌイユの三者に共通する思想を考えてみました。

【姜信子に関する拙稿】

姜信子『私の越境レッスン・韓国編』http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/20/7738016

姜信子『棄郷ノート』を読む   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/19/8977899

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