韓国人が台湾植民地支配を論じる(3)2023/10/01

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/26/9620637 の続きです。

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日帝の徴兵は台湾21万、韓国は2万

日中戦争当時、約21万人の台湾人が日本軍に徴集されて中国軍と戦ったのに対し、韓国は1938年から1943年までの間、徴集された兵力が約2万人に過ぎなかった。 この数字は、当時の朝鮮が台湾の人口の4倍程度であることを勘案する時、驚くべき違いだった。 朝鮮人の場合、むしろ8万人の兵力が中国国民党軍と共産党八路軍または朝鮮独立軍に入って日本軍と戦っていたと記録されている。 日本に徴集された朝鮮人の場合、当時の日本軍の高位層では反乱を起こす可能性をいつも警戒するくらいだった。 1942年に朝鮮総督として赴任し、学徒兵制度を試行した当時の朝鮮総督である小磯国昭(1880~1950)は、彼の日記に「朝鮮出身兵士たちが前線でイギリスやアメリカと協力して、我々に銃口を向けるかも知れないという恐怖がある」と記述することもあった。 甚だしくは「日本の青年たちだけ死ぬことは出来ない。 そうなれば、朝鮮人ばかり増えて、もっと大きな脅威になるだろう」という見解まで登場するくらいだった。

日本が1945年8月15日に降伏宣言をし、その年の10月、大陸の中華民国政府が任命した行政長官兼警備総司令官が台湾の台北に到着し、日本の台湾総督から公式的に降伏を受け入れ、台湾人たちの熱烈な歓迎と期待のなかで業務を始めた。 当時の行政長官だった陳儀(1983~1950)は日本の陸士出身で、台湾通として知られていた人だった。 しかし台湾で業務を始めてからの状況は、台湾人たちの期待に及ばないどころか、全ての面で惨い状況ばかりが続いた。

当時国民党政府は、台湾に対する理解が十分ではなく、甚だしくは政府の一角では、台湾人たちを日帝の中国侵略に手助けした潜在的協力者くらいに考えるほどであった。 特に戦争が終わって、徴兵および徴用で海外へ行って台湾に帰国した人たちに対しては日本に協力した「売国奴(漢奸)」として追及して、露骨な弾圧をすることもあった。 さらに台湾の行政府の要職だけでなく教師や末端公務員、警察、軍人まで、大陸から渡ってきた外省人たちが大部分を占め、住民たちに対する搾取も酷かった。 当時流行していた「犬が去り、豚が来た(狗去猪来)」という言葉が彼らの心情をよく代弁してくれていた。 「日本人は犬のように台湾人を虐めはしたが、国民党は豚のように台湾人の財産を食べ尽くしている」という意味だった。 このような雰囲気の中で発生した2・28事件は数万人の死亡者が生じ、台湾人たちの心に深い傷跡を残した。 全ての政治的・経済的条件が、日本支配の時よりも劣っていて、台湾人たちの特にエリート階層の間では自然と日帝時代に対する郷愁が深まっていった。

その後、1949年の国府遷台(中華民国政府を台湾に移転すること)で蒋介石の国民党政府が入ってくると、今度は日本を重要な政治的・経済的パートナーと考えて、緊密な関係を続けこととなった。 日本に対する台湾国民の好意的感情とともに、共同の敵である共産党政府に対する対応意識が大きく作用したのだ。 反面、韓国は独立後20年が経った1965年になってやっと国交が正常化するくらいに、関係正常化の速度が遅かった。 国交が正常化する時も、韓国は植民地の賠償金を粘り強く要求して受け取ったが、台湾は求償権請求を自ら放棄し、最初から要求すらしなかった。

台北を彩る日帝の建物群

台湾の首都である台北を西側から分ける中華路という大通りがある。 ある日、この通りに沿って観光名所として有名な西門町近くに近付いて行って、一方の歩道の大きな壁面に意外な場面を見ることになった。 「台湾 歴史 風貌 絵画彫刻」という題目の下、17世紀のオランダ支配遺構から今までの台湾の歴史から、発展の契機となった重要な場面を作品として制作し常設展示しておく所であった。 ところで内容の相当部分が日帝植民地時代の建築業績であった。 展示を通して、当時の相当数の建築物が今まで変わらず台湾の重要な機関、および官公署の建物などとして利用されているのを知ることができた。

特に台湾の「七大クラシック鉄道駅建築(台湾七大経典車站建築)」という小さな題目で、日本人たちが作っておいた鉄道駅を自慢するように並べているのを見て、驚くしかなかった。 わが国ならば、想像すらできない試みであるからだ。 これ以外にも、台湾では日本統治時代の痕跡が所々に色濃く残っているのを見ることができる。 古くからの日帝時代の家屋も今でも市内中心部で見ることができるほどだ。

台湾地下街は台北の鉄道駅から始まって、何と五つの地下鉄まで連結される巨大な地下商店街として毎日多くの訪問客がやって来る所である。 ところで、この地下商店街の出入り口の一つの壁面には日本風がはっきりと表れた壁画がいくつか展示されている。 さらに、すぐ横には日本式で願をかける絵馬と短冊も一緒に行かれている。 わが国民の立場では、口をあんぐりさせるしかない。 現在台湾のどこでも見ることができるコンビニの両雄であるセブンイレブンとファミリーマートも日本企業で、百貨店も主流が日本系列だ。わが国でも日本式の店を容易く見ることができるが、台湾ではその種類と数が我々とは次元が違う。

台湾人の60%「一番好きな国が日本」

台湾での実質的な大使館業務を担当している日本台湾交流協会では、定期的に台湾人の選好国家と国家親密度などを調べる世論調査を現地専門世論調査機関に依頼して施行している。

一番最近である2022年に20歳以上の成人1068人を対象に、電話やオンライン調査で行なった統計によれば、好きな国の何と60%の回答者が日本を選び、中国、アメリカがそれぞれ5%と4%ではるか離れて2・3位を占めた。 親しくせねばならない国としても、日本が46%と1位で、アメリカ、中国がそれぞれ24%と15%だった。 国家信頼度もやはり日本が60%と圧倒的1位だった。 2008年に始まり7回目であるこの調査で、日本は国家選好度記録で歴代最高を更新していると報道している。 (終わり)

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 以上、『週刊朝鮮2756』2023年5月1日 58~62頁を翻訳しました。

 今回の最初の部分に、「1942年に朝鮮総督として赴任し、学徒兵制度を試行した当時の朝鮮総督である小磯国昭(1880~1950)は、彼の日記に『朝鮮出身兵士たちが前線でイギリスやアメリカと協力して、我々に銃口を向けるかも知れないという恐怖がある』と記述することもあった。 甚だしくは『日本の青年たちだけ死ぬことは出来ない。 そうなれば、朝鮮人ばかり増えて、もっと大きな脅威になるだろう』という見解まで登場するくらいだった」という記述に驚きました。 こんな資料があるのですねえ。

韓国人が台湾植民地支配を論じる(1)―『週刊朝鮮』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/21/9619300

韓国人が台湾植民地支配を論じる(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/26/9620637

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1)2023/10/07

 在日朝鮮人の詩人・文学者として著名な金時鐘さんについて、本名が「金時鐘」と「林大造」の二つあることを拙ブログで論じてきました。(下記【拙稿参照】) これに密接に関係するのが在留資格です。 金さんは現在韓国国籍を有している外国人ですから、入管法あるいは入管特例法に基づく在留資格を持っています。 金さん自身が自分の在留資格についてどう語ってきたのか、ちょっと調べてみました。

 小熊英二・姜尚中編 『在日一世の記憶』(集英社新書 2008年10月)に、「朝鮮現代史を生きる詩人  金時鐘(キムシジョン) 男」と題する取材記事があります。 金時鐘さんに直接取材したもので、取材日は2006年3月9日です。

これまで沈黙していた済州道四・三事件について、語り出したきっかけは、金石範にせっつかれたこと。 彼との対談の前に、東京で四・三事件52周年記念講演会(2000年4月)という集まりがあって「もうしゃべってしまえば」と促された。

今までいえなかったのは、いくつか理由がある。 一つは、四・三事件に思いを馳せている人への配慮。 彼らはあの事件を「人民蜂起」といっていた。 ぼくが経験した惨劇を語ることで「人民蜂起」という正当性がなくなるのではと思ったんだ。

そしてもう一つは僕自身の在留資格の問題。 韓国に強制送還されると生きていけないから。

そして一番の理由は、思い出したくないことだった。 九死に一生を得て、宝くじに当たったように日本に逃れてきた。 酸鼻をきわめた経験は、思い出すと眠れなくなる。 あの事件で親父も亡くなり、逃げてきた自分に負い目がかぶさっていた。 (以上 565~566頁)

 金さんは金石範さんの勧めで2000年頃から自ら体験した済州島四・三事件を語り始めました。 ならば、なぜそれまで事件を語らなかったのか。 その理由として、もし語れば ①「人民蜂起」という正当性がなくなる ②自分の在留資格の問題で韓国に強制送還されるかも知れない ③思い出したくない、の三つを挙げています。 この二番目に「在留資格」が出てきます。

 これはどういうことかというと、四・三事件を語れば事件当時(1948年)に彼が韓国にいたことが判明することになり、戦前より継続して日本に居住していたとする在留資格との間に齟齬が生じるからです。 そうなると翌年の1949年に日本密入国したという事実までもが判明し、逮捕されて韓国に強制送還される可能性が出てきます。 金さんはこれを恐れて四・三事件を語らなかったのでした。 しかし2000年になって、金石範さんに促されてようやく語り出した、ということです。

 金さんは1949年に密入国した後に、外国人登録証を入手しました。 尹健次さんの「在日朝鮮人の文学―植民地時代と解放後,民族をめぐる葛藤」という論文には、次のような経緯が書かれています。

金時鐘は、1948 年4 月以後,済州島4・3 事件に関わったため、父が手配してくれた「密航船」で、1949 年6 月に神戸沖(須磨付近)で上陸する。 すぐに日本共産党に入党して活動をはじめ、組織の支援で外国人登録証を手に入れる。 (140頁)    

http://human.kanagawa-u.ac.jp/kenkyu/publ/pdf/syoho/no52/5208.pdf

 金さんは密入国翌年の1950年1月に日本共産党に入党し、この組織の支援で外国人登録証を入手しました。 当然違法です。 この時に不正入手した外国人登録証の名義が「林大造」と推定されます。 この情報を尹健次さんはどこで知ったのか書いていませんが、おそらく金さん本人から直接聞いたものと思われます。

 金さんはそれ以降今日までその外国人登録証(今は特別永住者証明書もしくは在留カード)を更新してきましたから、それは正規に発給された登録証と考えられます。 とすると金さんは「林大造」名の正規の登録証を入手し、「林大造」に成りすましたと推定できます。

 当時は戦後の混乱期であり、在日で届けを出さずに韓国に帰国した人が多かった時代です。 その場合この人は法律上日本にまだ在住していることになり、そういった人にも外国人登録証が発給され、時にはそれが売買されました。 密入国者がこういった外国人登録証を入手すれば警察の職務質問にも対応できるので、とりあえず安心して日本で暮らせるようになります。 おそらく金さんが入手した外国人登録証はこういう経緯のものだったのではないか、と想像します。 ですから金さんは不正に発給された「林大造」名義の正規外国人登録証を持っている不法滞在者ということになります。

 さらに金さんはこの外国人登録証を入手した際に、同名の米穀通帳も入手したようです。 金さんの『「在日」のはざまで』という本の中にある「日本語のおびえ」に、次のような一文があります。

かく言う私にも二つの名前が併存している。 日本国政府の政令によって保障されている名前と、「筆名」という本名である。  理由は簡単だ。 出入国管理令が制定された当時の、いわば戦前から持ち越された「米穀通帳」の名がそのまま登記されたことによって、私の本名は副次的な筆名になり変わったのである。 もちろんその日本人まがいの名の継承は‥‥ (金時鐘『「在日」のはざまで』 立風書房 1986月5月 65頁)

 かつての日本では米の配給制度があって、米穀通帳がないとお米が買えない時代がありました。 そして米穀通帳は当時の身分証明書として通用しました。 例えば宝くじ高額当選した場合今でも本人を確認できる身分証明書が必要ですが、それが昔は米穀通帳でした。 米穀通帳はそれくらいに信頼性が高いとされていたのです。 現在で言えば運転免許証か健康保険証のようなものだったのです。 

 金さんは「林大造」名の米穀通帳も入手しました。 しかも「戦前から持ち越された」ものと言いますから、この米穀通帳によって戦前から引き続き日本に居住してきたことを証明できるものでした。 ですから金さんは外国人登録証と米穀通帳の両方を入手することによって、完璧な在日朝鮮人になれたわけです。 つまり「金時鐘」という人間は「林大造」という実在する在日朝鮮人に成り変わり、「金時鐘」という本名はペンネームになりました。

 次に金さんがこの不法状態を認識していたかについてですが、これは明白に認識していた言わざるを得ません。 密入国してから50年経って、金さんは尹健次さんとの「『在日』を生きる」と題する対談のなかで、次のように語っておられます。

金時鐘: ‥‥正常でない入国の事実を話すことになっている。

尹健次: いやーぁ、改めてびっくりしますね。 日本にいらして49年でしょう。 50年として、半世紀越えるわけでしょう。 それでもなおかつ日本に来たいきさつを心配しているという事実に、驚愕します。 50年も住んで、まだ捕まるかもしれないということの恐怖心というのは何なのかと。

金時鐘: 現に捕まった人がいますよ。 あれも40数年経っているのに捕まっているんだ。 ただ金時鐘は反天皇とか反政府のことはあまり言わないから、もうちょっと置いてやろうかぐらいなことだと思う。

尹健次: 逆の意味でいうと、捕まって、金大中救援運動ではないけれど、金時鐘救援運動をやった方が、日本は国家がよくなると思いますよ。 日本社会改善のために、一回捕まってください(笑)。  (以上 対談「『在日』を生きる」―藤原書店『歴史のなかの「在日」』2005年3月 450頁)

 つまり自分がかつて密入国し、不正の外国人登録証(今は特別永住者証明書)を持つ不法滞在者であり、いつ逮捕されてもおかしくないことを自覚しておられたのでした。

 さらに金さんの不法滞在はずっと続きます。 2019年に在日総合誌『抗路』での座談会で次のように発言しておられます。

金時鐘: ‥‥もう一つややこしいのは、「金時鐘」は日本ではペンネームに過ぎないんだ。 法的には「林大造」という外国人登録名がある。 私の「在日」の由来とも絡んでいる名前でもある。 (『抗路』第6号 2019年9月 15頁)

 金さんは不正の外国人登録名である「林大造」を70年以上も使い続けておられるわけです。 密入国という罪と、さらに外国人登録証を不正に入手して使用してきたという罪も犯しているのですから、罪を重ねたとも言えます。 (続く)

【拙稿参照】

本名は「金時鐘」か「林大造」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)2023/10/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500 の続きです。

 金さんは20年前の2003年に韓国で戸籍を創設するのですが、その戸籍名は親から名付けられた「金時鐘」ではなく、日本で不正入手した外国人登録証名である「林大造」とされました。 これについて『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』(平凡社)という本の中で金さんは金石範さんなどから質問され、これに答える形でその間の経緯を語っておられます。

金石範: 彼(金時鐘)は、両親を置いて済州島から逃げてきて、親も亡くなっているし、(外国人)登録証の「林大造(イム・テジョ)」も本名じゃない。 金時鐘は本当の名前だけれども、それを客観的に証明するものは何もない。 私は、そういう事情を知っているからね。‥‥(金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』平凡社ライブラリー828 2015年4月 195頁。 以下同書から引用)

金時鐘: ‥‥ 後日、墓参の折、妻が僕の家族関係の写真が一枚でも残っていませんかと聞いたのね。 そしたら、この40年間墓守をしてくれている甥が、とたんに自分の胸を叩きながら泣きだしてね、「な、テリョジュプソ(どうか私を叩いてください)‥」と言ってね、「みんな燃やしてしまいました。何も残っていません」と言って謝るんですよ。‥‥

金石範: 時鐘につながる証拠のようなものはすべて焼いてしまった。 残して見つかったら、捕まって殺られてしまうじゃない。 だから、私を叩いてくれって謝ったわけや。(以上 198~199頁)

金時鐘: ‥‥なぜ私は4・3関係を隠して口にしなかったか、そのことから話すと‥二つ理由があります。‥‥ もう一つは、やむ得ない事情でこちらに来たにせよ、4・3事件で追われて来たことを明かすということは、不法入国者ということを自ら名乗り出るということでもあるのですから。

 金さんは4・3事件に関係したために韓国に自分の痕跡がなくなった、そして今4・3事件を語ることは不法入国者であることを自ら告白するのと同じだ、と言っておられます。 自分が密入国者であることを、明白に認めておられますね。

金石範: 時鐘は、北で生まれているから出生記録もないだろう。 この人間(金時鐘)の存在を証明する書類は何もない、時鐘は幽霊みたいな存在じゃないか。 それが今回やっと済州島に本籍ができて、幽霊が人間になったようなものだけど、どうやって、韓国に戸籍を作ったんや。

金時鐘: ‥‥当時の在大阪副総領事、情報部の責任者である外交官ですが、親の墓参りを続けたいという僕の思いを殊のほか親身に受け入れてくれて、国籍取得の方法まで講じてくれました。 外国人登録証名での新たな戸籍の取得を大法院に申請して、裁可を受けてくれたのです。 「金時鐘」では、手続きが複雑すぎて駄目だとのことでした。 それでも特別な計らいであったようには思っています。 戸籍は他人が使用している住所でなければ、韓国のどこでもいいと言ってくれていましたが、済州島以外に故郷を作る気などないしな。 ‥‥

文京洙: 領事館も、金時鐘先生だから特別にしたんでしょう。(以上 200~201頁)

 以上が日本で不正入手した「林大造」名で韓国の戸籍を創設した経緯なのですが、本人だけが語っておられることなので本当なのかどうか検証できず、何とも言えないところでです。 ただ韓国も一応法治主義ということなので、こんな風に他人の名前で戸籍を作るなんてあり得ないと思うのですが‥‥。

 どんなに「手続きが複雑」でどれほど手間暇がかかろうとも、法的に筋を通すのが法治主義です。 もし「特別な計らい」「金時鐘先生だから特別にした」のが事実ならば、これは超法規的措置になります。 国家的危機が切迫した時期でもないし、しかも韓国の大法院(最高裁判所)が裁可したというのですから、更に理解できなくなります。 ひょっとして韓国ではこのような超法規的措置が珍しくないのでしょうか。 ここは韓国政府の説明を聞きたいところですね。

文京洙: 韓国に戸籍を作って韓国籍を取られて、韓国との関係はそれで決着がついたわけですけど、日本の入管法との関係はまだ解決していないですね。 

金時鐘: 韓国籍を取ったとき、挨拶状を2003年の12月10日付で出しました。その挨拶状をどこで見たのか、大阪府警外事課の警官がすぐさま問い合わせに来ました。 私の家までです。 登録証の名前と「金時鐘」との違いをあれこれ聴いて言いましたが、「金時鐘」はペンネームだと言い張りました。(以上 201~202頁)

 文京洙さんが「日本の入管法との関係はまだ解決していない」というのはその通りです。密入国して外国人登録証を不正入手し、その後その不正登録証を更新し、生活してこられました。 ですから法的には今なお「解決していない」のです。

 ところが金さんは警察に対して「林大造」が本名で、「金時鐘」はペンネームだと言い張っておられるそうです。 そうなると金さんが体験として語っておられる4・3事件や密入国の話は、実はフィクションということになります。 自分は戦前から継続して日本に居住してきた「林大造」という人間であり、4・3事件や密入国なんかの話をしているが、それは作り話であると主張しておられるわけです。

 しかし作り話なのか本当の話なのか、証拠が出てこない限り分からないとしか言いようがありません。 証拠がない以上、金さんの主張は通用することになります。 つまり警察としては今のところ、金さんの在留資格は法的に「解決している」とせざるを得ないのです。

 まとめますと、金さんは表向き(建前)では戦前から日本で暮らしてきた「林大造」であり、在留資格も問題なく合法・正当に生きてきた、だから4・3事件なんて見たこともないし、密入国もしていない、自分はそういう小説を体験談のように書いただけだ、ということです。

 一方、裏向き(本音)では、4・3事件の凄まじい体験をしてそれから逃れるために日本に密入国し、不正に「林大造」名の外国人登録証を入手してその名前と在留資格で生きてきた、だから4・3事件や密入国の体験談は実話であり、それ以降ずっと一貫して不法滞在者であった、ということです。 

 おそらくは言動から前者の表向きが虚偽で、後者の裏向きが事実でしょう。 金さんは「林大造」名の外国人登録証(今は特別永住者証明書あるいは在留カード)の更新を続け、その間に兵庫県の公立高校に「林大造」の名前で教師(実際には実習助手。金さんは教員免許を持っていない)として定年まで勤め上げ、おそらくその後「林大造」の名前で年金を受け取りながら現在に至っていると思われます。

 最初の外国人登録証が不正であるなら、その後の更新された登録証も不正であり、その名前を使用した法的行為(米穀通帳、健康保険、年金などの行政手続きや公務員就職)もまたすべて不正となります。 ですから金さんは密入国の罪だけでなく、その後も70年以上にわたって罪を重ねてきたことになります。 玄善允さんの言葉を借りれば「金時鐘にとっては、日本での生活そのものが非合法に他ならず」(同時代社『金時鐘は「在日」をどう語ったか』 170頁)だったのでした。

 金さんは本来なら早い段階で警察や入管に自首し、一旦退去強制命令を受けた後、法務大臣から「在留特別許可」をもらって「金時鐘」という元々の本名での外国人登録証を取得するという過程を経ねばならないところでした。 そうすれば何の心配もなく日本に堂々と在住できました しかしそれをせずに、さらには不正の外国人登録をそのままにしておいて韓国の戸籍まで作ったというのですから、日本での罪に本国での罪を重ねたことになります。 

 金鑽國を父、金蓮春を母とする金時鐘という人間は、日本にも韓国にも存在しないのです。 存在するのは、「金時鐘」を自称する「林大造」という人間だけです。 「林大造」の韓国戸籍(今は家族関係登録簿)の父母欄には、「林」名の人物が掲載されていると思われます。

 金さんは年に一・二回、済州島にあるご両親のお墓参りをしておられるということですから、韓国に入国する際に「林大造」名の韓国パスポートを使っておられるはずです。 つまり自分を証明するパスポートは「金時鐘」ではなく他人である「林大造」です。 ということは、韓国に存在しないはずの「金時鐘」が両親の墓参りに行っていることになるわけです。

 金さんは両親のお墓に「不肖子 時鐘」と刻んだ石碑を建てられたそうです。 http://www.gendainoriron.jp/vol.05/serial/se01.php  「不肖の息子」の意味ですが、ご両親の死に目にも会えず、また40年もお墓参りをしてこなかっただけでなく、今は他人の身分でお墓参りをしていることにも「不肖」と表現されたのではないでしょうか。 これは法的な罪ではないですが、道義的にはどうなのかと疑問を抱きます。

金時鐘さんはもう90代半ばに差し掛かるご年齢ですから、今さら軌道修正できない状態なのでしょうかねえ。 (続く)

【追記】

 「金時鐘」のウィキペディアによると、その経歴のなかで次のような一文があります。

在留特別許可を得て在日朝鮮人の政治・文化活動に参加した

 「在留特別許可」ですから、次のような手順が踏まれたはずです。 密入国が発覚(密告もしくは自首)して、入管の留置場に数日間収容されて取り調べを受け、そして退去強制処分が決定された上で、保釈金数十万円と外国人登録法違反の罰金数万円を支払い、法務大臣から「在留特別許可」を与えられた、という手順です。

 その特別許可を与えられた人物は本名の「金時鐘」ではなく他人の「林大造」であり、この名義の外国人登録証が発給されたことになります。 つまり「在留特別許可」ならば法的にこのような手順を踏んでいるはずなのですが、金さんの著作や発言の中にこれが全く出てきません。 そもそも警察や入管の取り調べを経ているのに、他人の名前の外国人登録証が発給されるなんて、あり得ないでしょう。

 金時鐘さんに在留特別許可が出たというウィキペディアの記述は、虚偽と考えて間違いないと思われます。

【金時鐘さんに関する拙稿】

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

毎日の余録に出た金時鐘さん http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/27/8950717

本名は「金時鐘」か「林大造」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

金時鐘さんの出生地        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか2023/10/17

 金時鐘氏の不法滞在について、拙ブログの https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809 で次のように書きました。

<金さんは本来なら早い段階で警察や入管に自首し、一旦退去強制命令を受けた後、法務大臣から「在留特別許可」をもらって「金時鐘」という元々の本名での外国人登録証を取得するという過程を経ねばならないところでした。 そうすれば何の心配もなく日本に堂々と在住できました。 しかしそれをせずに、さらには不正の外国人登録をそのままにしておいて本国の戸籍まで作ったというのですから、日本での罪に韓国での罪を重ねたことになります。> 

 金さんがなぜ警察や入管に自首して不法滞在を解消し、安定した日本滞在資格を得ようとしなかったのかが気になって、彼の来日以降の経歴を調べてみました。 まずは密航(密入国)時にはどのような状況だったのか、金さんは次のように語ります。

(1949年の密航直後に大阪鶴橋にやって来て、行く当ても泊まる所もなく)‥‥私は意を決してふらりふらり表通りを歩き出しました。 警官を見つけて自首するつもりでいたのでした。 日本に来たいきさつを語り、北朝鮮への送還を願い出れば、よもや殺戮の地(韓国のこと)へ送り返しはしまいと、呪文をつぶやくように何度も何度も自分に言い聞かせていました。 (金時鐘 『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 以下同じ 240頁)

 日本への密航は、最初から北朝鮮に行くことが目的だったことが分かります。 そしてそのために日本の警察に自首することを考えます。 金さんはGHQ占領下の日本が反共陣営に組み込まれている現状を全く知らなかったのですねえ。 GHQは日本政府に密航の取り締まりを厳しくするよう命じていましたから、この時に自首すれば逮捕されて北朝鮮どころか最も恐れていた韓国に送還されていたでしょう。

 ところが自首しようとする前に偶然に知り合いに出会い、住み込みの仕事を探してもらって日本での生活が始まりました。 金さんは韓国では南朝鮮労働党の党員でしたから、日本でも共産主義者として生きていく決意をします。 半年ほど経ってからのことです。

なんとか在日朝鮮人の運動体につながらねば、と思っていたところへ、日本共産党への集団入党が地区単位でできるとの誘いが、生野区の朝連(朝鮮人連盟)活動家からもたらされました。‥‥私は1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員の一人になりました。‥‥中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦(在日朝鮮統一民主戦線の略称。日本共産傘下にあった在日朝鮮人活動組織)大阪府本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。 (同上 248頁)

 こうして金さんは日本共産党員として、その傘下の在日朝鮮人組織で働くようになります。 ですから当時の共産党の武装闘争路線に従い、1952年の吹田騒乱事件に参加するなど過激な活動も行ないます。 そして次の任務を与えられます。

1953年が明けて‥‥(民戦から)私に、またもや新たな任務が伝えられてきました。‥‥未組織の朝鮮青年たちが寄り合える文化サークルを作り、文学関連の雑誌を発行して、朝鮮民主主義人民共和国の正統性と優越性を平場から宣伝するように、との決定通知でした。‥‥「大阪朝鮮詩人集団」という、仰々しい看板を掲げて詩誌『ヂンダレ』を発行することに急遽決まりました。 (同上 276頁)

 金さんはこの『ヂンダレ』18号(岩波書店『わが生と詩』138頁によれば20号)に朝鮮総連の権威主義・政治主義・画一主義を指摘する論稿「盲と蛇の押問答」を発表したのですが、これによって彼は総連および北朝鮮から激しい批判を浴びます。

ある日突如、民戦に取って替わって北朝鮮一辺倒へ舵を切ったばかりの朝鮮総連から、思想悪のサンプルにされる「ヂンダレ批判」、これはイコール金時鐘への組織批判でもあったものですが、その批判にもし私がさらされていなかったならば、私はいの一番に北朝鮮に帰っていたはずの者です。(同上  277頁)

私は北に帰ることばかり夢見て耐えた。 日本に来るときも、日本から北に帰る船が出ると聞いていた。 それだけが希望だった。 それが新潟に対する憧れだった。 (金石範・金時鐘の対談『在日を生きる思想』東方出版 2004年7月 119頁)

1959年末に北朝鮮への帰国第一船が出ます。 朝鮮総連は北朝鮮の国家権威を笠に着て、全盛期を謳歌していました。 あの当時の僕は、組織的に国家的に疎外されていながらでも、それでも北朝鮮に早く帰国せねばと思っていました‥‥(金時鐘・佐高信『「在日」を生きる』集英社新書 2018年1月 174頁)

 金さんは北朝鮮帰国事業の帰国船に乗るつもりをしていたのですが、「ヂンダレ批判」によって朝鮮総連と北朝鮮から反組織分子・民族虚無主義と決めつけられ、「思想悪のサンプル」というレッテルまで貼られたのでした。 これによって、金さんは北朝鮮に帰る道を閉ざされました。

結局のところ北朝鮮には帰れない。 韓国にも帰れない。 それで僕は否応なしに、かつての宗主国だった日本に暮らさざるを得なくなるわけですが、日本でしか生きてゆけない自分とは何者だろう? どう生きてゆけばいいのだろうと、もがいてあがいたあげく手探りでつかんだのが、「在日を生きる」という命題でした。 (『「在日」を生きる』集英社新書 174~175頁)

 金さんは日本では一時的滞在者のつもりで生きてきましたが、北朝鮮にも韓国にも帰ることができなくなりました。 そして1960年ころから「在日を生きる」を言い始めます。 もはや日本からの脱出を諦めたのでした。 しかし直ぐには気持ちを切り替えることはできなかったようです。

荒れに荒れて、毎日浴びるように安酒ばかり呑んでいました。 その日暮らしもおぼつかないというのに(診療所の事務職も、総連の地域支部からの横やりで、半年ももたずに辞めていました)、なぜか酒だけはなんとかありつけるのです。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書  284頁)

 荒れた生活が10年以上続き、金さんはいよいよ「在日を生きる」ことを実践することになります。 具体的には1973年に兵庫県の公立高校に教師として働き始めます。 ただし金さんは教員免許を持っていないので、公式には「実習助手」としての採用でした。 この高校で16年間勤め上げ、1988年に退職しました。

 金さんは「在日を生きる」を掲げて、在日朝鮮人問題で何冊もの著作を出し、各地を講演して回ります。 そして1998年に韓国に金大中政権が誕生したことにより、金さんは「朝鮮籍」を維持したまま故郷の済州島を訪問して、両親の墓参りを実現します。 これ以降、数回墓参りをするのですが、「朝鮮籍」のままでは墓参りを続けることが難しいとの理由で、2003年に韓国に戸籍を創設し、韓国籍者となりました。 この時の韓国戸籍名は金時鐘ではなく、50年以上前に日本に密入国して不正に入手した外国人登録証名の「林大造」でした。

 以上、金時鐘氏の経歴をざっとまとめてみました。 金さんは1960年頃までは北朝鮮に帰国することを切に願っていました。 それがかなわないと知ると飲んだくれの荒れた生活を1970年頃まで続けたということなので、それまでは日本に在住することに積極的な意味はなかったと言えます。 従って日本での在住資格なんて金さんにとってどうでもいいことだったでしょうから、とりあえず日本での生活に便利なように「林大造」名の外国人登録を続けてきたのではないでしょうか。

 しかし1970年以降、「在日を生きる」実践を真剣に決意してからは、在留資格は重要な意味を持ちます。 安定した在留資格を得るには、法務大臣から「在留特別許可」をもらうしかありません。 そのためには警察・入管に自首して、過去の密入国と外国人登録証不正入手・使用の不法行為を明らかにせねばなりません。

 自首はいつでも出来るのですが、 金さんの経歴を見ると自首すべきであった機会が二回ありました。 一つは地方公務員に就職した1973年であり、もう一つは韓国に戸籍を作った2003年です。 しかしどちらも自首せず、従って新たに在留資格を得ることもなく、「林大造」のまま不法滞在を続けたのでした。 これは何故なのか。

 ここは憶測になりますが、金さんには子供さんがおられないようです。 もし正当な在留資格を持つ子供がいればほぼ確実に「在留特別許可」を得られるのですが、そもそも子供がいないとなれば強制送還の可能性がかなり高くなります。 「在日を生きとおす」(集英社新書『在日一世の記憶』574頁)と宣言したからには強制送還を避けねばなりません。 そのためにこれまで通り、正規の外国人登録証(今は特別永住者証明書)を有する他人の「林大造」に成り変わったまま生き抜く決意をされたのではないか、だから自首されなかったのではないかと思ったのですが、どうでしょうか。 (終わり)

【密航者に関する拙稿】

在日の密航者の法的地位         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/23/6874269

韓国密航者の手記―尹学準        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/03/7933877

集英社『在日一世の記憶』(その3)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/12/31/4035996

本名を取り戻した在日のおばあさん  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/03/23/9050390

朝鮮総連幹部らには月3万円の教育費支給2023/10/24

 パクユソンさんという朝鮮学校出身者のユーチューブをみていたら、朝鮮総連幹部や朝鮮学校教員の子弟が朝鮮学校に通っている場合、月3万円の教育費が総連から支給されている、という話が出ていました。  https://www.youtube.com/watch?v=1E8Z7GZFqDc&t=11s

 パクさんは10年ほど前の朝鮮高校時代に、授業料無償化の適用を求める運動に参加するために、生徒みんなで駅前に立ってビラ配りや署名活動を熱心にやっていました。 その時に学校の先生らは活動の指示をするだけで、身をもって行動をしないことに少し疑問を抱いていたそうです。 ユーチューブを始めて、かつての朝鮮学校関係者から投稿があり、朝鮮総連活動家や朝鮮学校教師の子弟が朝鮮学校に通っている場合、月3万円の教育費が支給されていたことを知ったそうです。

 朝鮮学校の学費は当時月3万9千円(授業料3万3千円と北朝鮮修学旅行積立金6千円)でしたから、そういった人たちには月9千円の負担で済むということになります。 ここでパクさんは、あの時先生たちが高校無償化要求運動にそれほど熱心でなかった理由を知るようになったということです。

 事実かどうか確認のしようがありませんが、〝さもありなん″と思えます。 実は北朝鮮から日本の朝鮮総連に3億円ほどが「教育援助費と奨学金」ということで、一年に2回ほど提供されています。 今年も4月15日の金日成誕生日を期して、北朝鮮の前日付け労働新聞が2億7千万円の支給を報道しました。 拙ブログでは https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577360 で紹介しました。

 わざわざ新聞に掲載して世界中に知らせていますから、何億円ものお金が送られているのは事実でしょう。 経済状態が劣悪な北朝鮮が、これだけのお金を在日子弟の教育のために送っているという事実に驚かされます。 ただし朝鮮総連は北朝鮮に多額のお金を献上しているので、その一部がバックされているだけだという穿った見方をする人もいるようです。

 それはともかく、おそらくは総連幹部や朝鮮学校教師らに支給される月3万円の教育費の原資は、北朝鮮から送られたこの資金ではないかと思われます。 祖国からいただいた教育資金を一部の特権階級のみに支給して、他のみんなにはそれを黙っているというのは、いかにも北朝鮮っぽくって〝さもありなん″と思ったわけです。

【拙稿参照】 

『言葉のなかの日韓関係』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/14/6777003

『言葉のなかの日韓関係』(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/17/6780435

『華僑のいない国』―「週刊朝鮮」の書評2023/10/31

 韓国の有力誌『週刊朝鮮2770号』(2023年8月7日)に、イ・ジョンヒ『華僑のいない国』という本の書評・紹介がありました。 評者は人文学コラムニストのパク・ジョンソンという方です。 韓国の華僑については私も関心がありますので、訳してみました。

8・15を前にして見る「少女像」は、いろんな考えを呼び起こす。 しかし核心は簡単である。それは邪悪な加害民族を糾弾し、善良な被害民族を奮起させる。 このような二分法的な善悪の議論が、排他的民族主義の強力なエネルギー源として作用する。今日、全世界的に数多くの国々が先を争って「私たちが被害者」と叫んでいる。

そうであるならば被害民族は一人の例外なく、みんな善良であるか。 加害民族は例外なく無条件に邪悪なのか。 実際には邪悪な朝鮮人もおり、善良な日本人もいる。 ホロコーストされたイスラエル民族は、今日のパレスチナ人民族を逼迫している。 我々も例外ではない。 全世界で、わが国くらいに華僑を抑圧した国は珍しいのである。

こんな問題意識を持って、我が国の華僑の歴史を一目瞭然に見せてくれる印象的な研究書がある。 それは華僑研究家のイ・ジョンヒの『華僑がいない国』(2018)である。 我々は、慰安婦問題はもちろんのこと、在日同胞に対する日本の不当な待遇に憤怒する。 しかし実際には我々は、わが国に暮らしている華僑たちをどのように待遇したのかについて全く無関心である。 事実、我々は過去100年間、華僑たちに対して不当な差別と抑圧で一貫していたというのが著者の指摘である。

1882年の壬午軍乱が勃発すると、閔妃は清国に助けを求めた。 この時、清の軍隊とともに商人たちが入ってきた。 そのうちの一部が残留したことが、わが国の華僑の始まりである。それ以降、華僑の流入は増え続けた。 中国の政情は不安定であり、また日帝の開発事業によって朝鮮での賃金水準が中国より高かった。 彼らは優れた商売の腕と野菜栽培技術も、新しいチャンスとして作用した。

実際に華僑は労働者、農民、商人など多様な職種に進出した。 日本の植民地の時は、最高6万~7万人にまで増えた。 もちろん色んな事情で、大きな浮沈を繰り返した。 光復後の南北分断で、華僑も南北に分かれた。 韓国の華僑は1976年に3万人余りをピークとして次第に減り、現在は2万人を下回っている。 一方1992年の韓中国交正常化で、朝鮮族を中心に中国人が大挙して流入した。 それで以前から暮らしてきた華僑を‶老華僑″、国交正常化以降に入ってきた華僑を‶新華僑″と区分される。

華僑は1960年代まで、中華料理をほとんど独占した。 華僑人口の70%が飲食業に従事するほどだった。 しかし1968年の外国人土地法が改訂で、華僑の営業用店舗土地は50坪を越えることができないと規定された。 事業の拡張や高級料理店の開設が不可能になった。 また中華料理店に対する様々な税金が賦課された。 特に同じ場所で長期間営業する場合、営業年限に比例して税金が加算された。 華僑はこれに怒ってアメリカなどに再移住する場合が多かった。

「絹物商の王さん(1961年の韓国映画の題名)」という言葉があるように、華僑は古くは服地の商売に手腕を発揮した。 当時の絹織物や麻布が中国の特産物であったが、華商の国際貿易網が堅固であり、朝鮮内での販売網も緻密だった。 ほとんど全ての地域で、華僑の反物商が進出していた。 資本は中国の本店が出し、朝鮮では経営責任者を置いた。 その責任者をチャングイ(掌櫃)と言った。 それが「チャンケ」となり、中国人を卑下する俗語となったようだ。 1924年の高関税などの日本の弾圧政策で、華商は衰退した。

洋服店と理髪店も一時華僑が牛耳っていた業種である。 我々より新文物で先駆けていた中国東部地域の出身者たちがいち早く朝鮮に進出し、洋服店や理髪店を開業した。 また華僑たちは朝鮮で需要が爆発し始めた鋳物の釜と靴下も一時独占するようになった。 一方、野菜の産地として有名な山東省の農民たちがインチョンなどに来て、西洋から伝来した野菜を栽培した。

明洞聖堂を始めとして、草創期の有名なカトリック教会の建物が全国的に多くある。 設計はほとんど外国人の神父がやった。 ところで施工を担当したのはほとんど華僑の建築技術者たちだった。 草創期の有名なプロテスタント教会も、華僑技術者たちが建てた。 技術者だけではない。 一般労働者としてもたくさんの華僑が活躍した。 彼らによって賃金が低くなったと思って、朝鮮労働者たちは彼らに反感を持った。 これが後に二回にわたる華僑排斥事件の背景となった。

何よりも華僑社会に衝撃を加えたのは、日本植民地時の二回にわたる華僑排斥事件である。 1927年、全羅北道の益山で、満州の朝鮮人に対する中国官憲の弾圧に抗議する集会が開かれた。 その日の集会参加者たちが華僑の商店に押し寄せて、器物を破壊した。 このような襲撃が全羅南道、ソウル、インチョンなどへ広がっていった。 特に華商の密集地域であるインチョンで、華商たちが多くの被害を受けた。

さらに深刻な事件が1931年に起きた。 ある新聞が吉林省の万宝山近くで朝鮮人農民が中国の官憲たちに殺傷されたという号外を出した。 これに激憤した朝鮮人たちがインチョン、ソウルで華僑を襲撃した。 これが全国に広がっていった。 全国で200人くらいが殺害され、負傷者が続出した。 この時、華商のネットワークがほとんど破壊された。

自分たち同士で一丸となって団結する華僑に対して、朝鮮人の感情は悪かった。 朝鮮人たちは最初からコミュニケ―ションする空間自体がなかった。 当時の経済沈滞で非常に窮乏しており、日帝の支配下で絶望感が深かった。 日帝も巧妙な韓中離間政策を駆使した。 しかしこんな理由で他民族を攻撃・殺傷してもいいとは決してならない。 さらに万宝山の記事の内容は伝聞によるものだけで、実は関係すら分からなかった。 たとえ万宝山でそのようなことがあったとしても、朝鮮に暮らす華僑たちとは何の関係もないものであった。

光復後でも、華僑に対する迫害は続いた。 特に先に指摘したように、外国人土地法によって財産権の制約を受けた。 この制約は1999年になってようやく解除された。 その他にも居住資格や出入国の制約があった。 2002年になってようやく老華僑に永住権が付与されたが、法的地位はそのままだ。 今日の老華僑は、2万人を下回っている。

ソウルの九老区にチャイナタウンがある。 しかし新華僑は主に朝鮮族が中心だ。 もちろんインチョンに有名なチャイナタウンがある。 しかし華僑によって自発的に形成されたものではない。 役所によって観光政策次元で開発(?)されたのである。 一言で言えば、我が国は本当の意味での「チャイナタウンがない国」だと皮肉る。 それくらい華僑を社会的・法的に排除・排斥してきたという意味である。

特に老華僑たちは「韓国で生まれて、韓国で教育を受け、韓国政府に税金を納めている。 それでも蔑視と差別と制約に苦しめられねばならなかった。 韓国人は自分たちが彼らを迫害したという事実すら忘却している。 全国津々浦々に立っている「少女像」を見て、何となく「私たちは善良な被害民族」という満ち足りた(?)思いにとらわれている。 しかしそんな民族的イメージは虚構である。 個人の次元であれ民族の次元であれ、潜在的・実際的に加害者であるという点を考えねばならない。

ところで植民地時代、朝鮮北部の華僑は南部よりはるかに多かった。 北朝鮮地域の労働者需要が多かったためである。 中国が共産化すると、韓国の華僑は故郷(主に山東省)に戻ることができなくなった。 一方、北朝鮮の華僑たちは大挙して帰国した。 残留した華僑たちは、特に野菜生産に頭角を現した。 今日では帰って行った華僑と残留した華僑が互いにネットワークを形成し、朝・中貿易の軸をなしている。

【拙稿参照】

韓国における外国人差別   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuugodainoichi

合理的な外国人差別は正当である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai

在日韓国人と華僑―成美子    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964788

 拙ブログでは以前に韓国の華僑について、昔読んだものを確認せず、うろ覚えのまま書いたことがあります。 やはり間違いが多く、汗顔の至りです。