玄善允ブログ(2)―在日の錦衣還鄕がトラブルに2024/04/04

 玄善允さんのブログ「連作エッセイ『金時鐘とは何者か』2」  https://blog.goo.ne.jp/sunyoonhyun5867kamakiri/e/14b31cbf81eda5ac72f05dac66804bb5 のなかで、次の体験談に目が行きました。  

その一方で、両親が日本で懸命に働いて得たお金を済州に持ちこみ、親戚にばらまくと同時に、いつかはそこに帰って余生を過ごすために確保した不動産などを巡って、親戚や地元の多様な人々との間で深刻な争いが生じ、それを父の生前に解決しない限り、将来に亘って解決不能な問題を抱えかねない状況に追い込まれ、母からその解決のために、済州に同行するようにしきりに頼まれるようにもなっていた。

 玄さんは「両親が日本で懸命に働いて得たお金を済州に持ちこみ、親戚にばらまくと同時に」と書いておられますが、在日の間ではこれはよく聞く話でした。 1960~70年代、在日一世は日本の高度経済成長の波に乗って必死に働き、錦衣還鄕(錦を飾る)で懐かしの故郷を訪問します。 その時にお土産をたくさん持って村中に配り、またお金も親族らにバラ撒くことになります。 当時の日本と韓国とではかなりの経済格差があり、在日が持ってくるお土産やお金は日本での感覚では大した費用でなくても、韓国人には目もくらむようなものだったようです。 ですから韓国人には“在日はお金持ち”というイメージでした。 在日一世たちは、韓国の故郷でそのイメージ通りの振る舞いをしたのでした。

 ですから故郷の韓国人は在日親族に金品をたかるのは当然という気持ちになって更に近付こうとし、逆にたかられる在日、特に子や孫の二世以降はもう付き合っていられないとなって遠ざかろうとしますので、そこに感情の行き違いが生じます。 在日二世が親に連れられて韓国の故郷に行ったときの話を聞いてみると、親戚連中の悪口をよく言っていましたが、それはこんな事情でした。 一方、故郷の親戚たちはおそらく、“日本でお金持ちになっているのに구두쇠(けちん坊)だ”と悪口を言っていることでしょう。

 また在日一世と故郷の親族・親戚との間で財産トラブルがあったこともよく聞く話です。 一世はいずれ故郷に帰ろうと考えていた人が多く、日本で一生懸命働いてお金をため、故郷の朝鮮で生活できるように田畑を買い、時には自分が入る墓地を確保したりするのでした。 そういった不動産は故郷で両親の墓を守ってくれている兄弟などに管理を任せるのですが、問題が起きるのはこの時です。

 一番よく聞くのは、そういった土地を所有者の自分に断りもなしに勝手に処分された、という話です。 相手方の言い分は、一族で経済的に困っている家があれば助けるのが当然だ、日本では金持ちになったのだからその土地を売って一族のために使うのがなぜ悪い、とかになるようです。 もうちょっと詳しく聞くと、一族の中で頭のいい子がソウルの大学に行くことになり、その費用のために売った、というような話だったですねえ。

 玄さんのご両親も、詳しくは書いておられませんが、おそらくこれと同じようなトラブルが生じたようです。 私がなぜこれに目が行ったかというと、世に在日を論じる本はたくさんあっても、このような生々しいことに言及するような本は全くと言っていいほどにないからです。

 在日といえば“強制・剥奪・差別され続けてきた”という被害話が定番です。 そして、この定番イメージに合わない話は無視されるのでした。 在日は作り上げられた定番ではなくリアリティのある話をすべきであるということが私の考えで、今回は玄さんのブログを契機に書いてみました。

【拙稿参照】

在日韓国人と本国韓国人間の障壁 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/12/9641974

関東大震災「倉賀野事件」-被害者は日本人では‥2024/04/10

 朝日新聞の4月9日付に、「関東大震災、判決に朝鮮人殺害の記述 政府『記録見当たらない』」と題する記事が出ました。  https://www.asahi.com/articles/ASS492SHBS49UTIL00TM.html?iref=pc_ss_date_article   https://news.yahoo.co.jp/articles/b71f0c71f918ce617dea98feefda1a0c8fa7333b

参院内閣委で9日、1923年の関東大震災時に群馬県高崎市などで起きた朝鮮人虐殺をめぐる政府の認識を問うやり取りがあった。政府側は「政府内に記録が見当たらない」とする従来の答弁を繰り返した。

立憲民主党の石垣のりこ氏は、「倉賀野事件」の判決を示した。判決によると、震災発生後の9月4日、現在の高崎市倉賀野町で駐在所に保護されていた朝鮮人男性を連れ出して暴行し殺害したとして、自警団を組織した被告ら4人に有罪が宣告されている。

法務省の担当者は、判決原本が前橋地検高崎支部に保管されていることを認めたが、内容については「裁判所の事実認定が正しいかどうか評価する立場にはない」と答弁した。林芳正官房長官も同様に答えた。

 これを読んで、あれ!? 倉賀野事件の被害者は朝鮮人ではなく、日本人(当時の言葉では「内地人」)だったのでは‥‥と思い、姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房 1963年10月)を取り出して調べてみました。

 この資料集の437頁に、倉賀野事件があります。 これは「第五章 鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯」の中の「第四 犯罪事実個別的調査表」で列挙された事件の一つです。

 内容は、「日時:9月4日午後9時」 「場所:群馬郡倉賀野町巡査駐在所付近」 「犯人氏名:島田政吉 外三名」 「被害者氏名:氏名不詳男一名」 「罪名:殺人」 「犯罪事実:巡査が被害者を保護中、駐在所より連れ出して殺害す」と記載されています。

 この資料によれば、事件は上述したように“内地人殺傷事例”に入っていますので、被害者「氏名不詳男」は朝鮮人ではなく日本人です。 ところが朝日新聞の記事では被害者は「朝鮮人男性」としており、その元となった資料は立憲民主党の石垣のり子さんが示した事件判決としています。

 ということは、事件は日本人が殺されたという資料と、朝鮮人が殺されたという資料との二つの相矛盾するものがあるということです。 みすず書房『現代史資料』が間違いなのか、石垣のり子・朝日新聞が間違いなのか、どっちなのでしょうかねえ。

 ただ『現代史資料』は60年以上も前に出版されていて、関東大震災朝鮮人虐殺事件を研究する上では必須のものです。 これまで間違いとされていなかったと思うのですが‥‥。

【関連する拙稿】

関東大震災―自警団は警察も襲撃した https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/10/9616540

関東大震災の日本人虐殺     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607

【その他の拙稿】

関東大震災―自警団を擁護した政治家の発言 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/15/9617769

朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/31/9613843

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591

関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387

水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058

関東大震災の朝鮮人虐殺  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009

関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629

「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314

金義晴さんの思い出―本名について2024/04/17

 「金義晴」といっても、ほとんどの人は知らないでしょう。 かつて民族差別と闘う運動の地域団体のリーダーでした。 18年前の拙HPで記した「Kさん」が、その人物です。  https://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

在日は本名(朝鮮名)を名乗るべきだと強く主張する活動家Kさんがいた。彼は通名(日本名)を名乗る在日に会ったら、本名を名乗りなさいと言い、在日の子供たちにも本名を名乗るよう強く指導していた。

このKさんの運転する車に同乗した時のことである。警察の検問にあった。警官から「お名前は?」と尋ねられると、彼は「Fです」と通名を答えた。私はビックリした。相手が警察なら本名を名乗らなくてもいいのだとその時は無理に納得させたのだが、本名を呼び名乗る運動への疑問を持つきっかけとなった。

彼はかつて運動のリーダーとして名前が出ていましたが、今は運動団体から離れているようです。 もう何十年も経っていますし、彼の名前を明らかにしてもいいと考えます。 

 彼と知り合った時は「金義晴」という民族名を名乗り、周囲もそう呼んでいました。 ですから私は当初、彼の日本名なんて知らなかったのです。 しかし金さんは警察の検問の時に日本名の「F(ふなこし)」(漢字表記は控えます)と名乗りました。 その時に初めて、彼には「F」という日本名があることを知りました。 

 しかしその後に分かったことですが、彼の父親は朝鮮人、母親が日本人で、彼は母親の籍に入って日本国籍だったのです。 だから免許証に記載されている名前は「金義晴」ではなく、「F義晴」でした。 つまり本名は「F」であり、「金」が通名だったのでした。 

 彼は在日の「本名を呼び名乗る」運動を主導し、通名を使う在日を見つけては本名を名乗るように指導していました。 しかし彼自身がその運動の中では本名を使わず、通名の「金」を使っていました。 この矛盾に、運動団体の他のメンバーは何も問題視しませんでしたねえ。 

 この運動団体のメンバーに李さんという方がおられました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/09/9421529 彼が、「日本は在日の本名(民族名)を奪い、通名(日本名)を強制している。 本名を呼び名乗って、日本の差別を告発せねばならない」という運動団体の理念を強く主張していました。

 私が「けれど、あの金義晴さんは警察の検問で “F”と日本名を名乗っていましたよ」と言ったら、「相手が警察なら構わない」と反論されました。 そこで「だったら “相手によって本名と通名を使い分ける” でいいんじゃないですか。 何が何でも “本名を呼び名乗る” という運動はおかしいんじゃないですか」と言いますと、「金義晴さんは日本国籍だから、それでいい」と反論。 私は「金義晴さんは “本名を名乗れ” と在日の子供たちに迫っていたけど、自分の本名を隠して他人に “本名を名乗れ” は、やはりおかしいでしょう」。 李さんとの議論はここで終わりました。

 12年ほど前ですが、拙ブログで次のように書いたことがあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/04/6500499

このように戸籍名ではなく、通名の朝鮮名を本名としている方は、在日の活動家では意外に多いものです。自ら朝鮮名を名乗り、在日の青年・子供たちに本名を名乗れと迫った活動家が、実は日本国籍で、朝鮮名は通名であるという話はよくあることでした。

 「意外に多い」としましたので、もう一つ例を挙げます。 川崎にも同じように民族差別と闘う地域団体があったのですが、そのメンバーの一人に「朴世一」という方がおられました。 この方も運動団体のメンバーだったので、名前を明かします。 その方と知り合った時、「僕は、実はF(ふじた)世一です。 母親が日本人で、その籍に入っていて、日本国籍なんです」と言っておられました。 

 私の知り合った在日のうち二人が、日本国籍なのにその戸籍名を名乗らず、通名の民族名をまるで本名のように使っていました。 事情は理解できたのですが、そんな彼らが “在日は名前を奪われてきた、本名を名乗り民族を取り戻そう” と呼号する運動団体のメンバーであることに、大きな違和感を持ったものでした。

 これ以外にも「金」「朴」さんと同じように、在日活動家として活躍している方が実は日本国籍で、名乗っている民族名は通名だという噂を聞くことが少なからずありましたねえ。 確かな情報ではないので、ここに名前を出すのは控えますが、意外と多いように思えます。

 今は昔の話ですが、民族差別と闘う運動では、民族名を名乗ることが正義で、そうすれば差別者である日本人に対して “あなた方日本人は歴史を知らない” とか言って委縮させて優位に立てる、という風潮がありましたねえ。

【拙稿参照】

 第21題 「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai

 第85題 (続)「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

 第84題 「通名と本名」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai

通名を本名と自称する在日        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/04/6500499

在日の本名とは?            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/01/6497383

日本名を本名とする在日朝鮮人      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/18/6663657

通名禁止、40年前から「左」が主張と実践  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/05/6681269

在日の通名使用の歴史は古い       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/12/6688526

ある在日の通名騒動記          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/16/6904707

通名・本名の名乗りは本人の意思を尊重せねば  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/28/6925152

外国人が通名で銀行口座を設ける場合   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/13/6945717

外国人の名前              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/16/6948002

在日の通名は特権ではない        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/23/7019964

通名登録制度を悪用した事件       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/02/7031887

本名強要は人格権侵害ー判決       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/24/7618561

梁泰昊さんの思い出― 活動家と一般人との結婚  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/01/9252979

黄光男さんの思い出      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337

黄光男さんの思い出(2)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261345

在日活動家 李さんの思い出   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/09/9421529

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1)2024/04/24

 北朝鮮のスパイであり日本人拉致犯であった「辛光洙」について、韓国の雑誌『週刊朝鮮』にちょっと詳しく解説されていました。 北のスパイが日本でどのような工作(スパイ)活動をしていたのか、私も関心のあるところです。 韓国語を忘れないためにも、翻訳してみました。 ところどころに私の説明を挟みます。

北に堂々と送還されたスパイ辛光洙 日本人拉致も彼の作品だった  (『週刊朝鮮』2803号 2024年4月8日 36~39頁)

2000年9月2日午前10時ごろ、板門店を通して63人の、いわゆる非転向長期囚が北朝鮮に送還された。 言葉は非転向長期囚であるが、北朝鮮の南朝鮮革命戦略を遂行するための破壊・転覆活動を行なって検挙された武装共匪(パルチザンを含む)や南派(南朝鮮に派遣)されたスパイたちだ。 北朝鮮は板門店の北側地域の統一閣にキム・ヨンスン(金容淳)党対南担当秘書、キム・イルチョル(金鎰喆)人民武力相、子供たち(花童)など500余人を整列させて、いわゆる革命英雄たちの機関を熱烈に歓迎した。朝鮮中央TVから、彼らの送還を平壌に中継した。 彼らの中には、死刑宣告を受けた、日本迂回浸透スパイであるシン・グァンス(辛光洙)が含まれていた。 辛光洙とは、誰なのか?

 「金容淳」はかつての北朝鮮ニュースによく出てきていましたねえ。 私にはちょっと懐かしい。 「花童」というのは、北朝鮮での歓迎式なんかに花束などを持って並んでいる子供たちのことです。 日本語で何というのでしょうかねえ、

辛光洙は1929年6月27日、日本の静岡県で出生した。 日本に徴用で引っ張られて来た父と母がそこに居住していたためである。 彼が16歳になった1945年、光復(解放)後すぐに家族は帰国した。 1948年、辛光洙は浦項中学校(慶尚北道)に通っている時に、いわゆる2・7闘争(左翼暴動)に加担し、警察の追跡を避けてソウルに逃げ、普成中学校(ソウル)4年に編入した。 1950年6・25南侵戦争(朝鮮戦争)が勃発するや、北朝鮮軍の義勇軍に自ら入隊し、越北した後、北朝鮮軍下士官として戦争に参加した。

 2・7闘争とは、政府樹立のために南朝鮮で行なう予定だった選挙に反対するために南朝鮮労働党が起こした暴動。 この2カ月後に、済州島で4・3事件が起きました。

朝鮮戦争後、功績を認められて1954年10月にルーマニアのブカレスト工科大学機械学部に入学し、1960年に卒業するまでの6年間、滞在した。 帰国後、政務院(現在の内閣)傘下の科学院機械工学研究所で研究技師として在職した。 1971年2月に中央党に召喚されて人民武力部(現在の国防省)偵察局傘下の対南工作機関である198部隊所属として2年5ヶ月間、スパイ訓練所である清津招待所で工作員教育を受けて、対日工作に投入された。

六回にわたって成功した日本浸透工作

辛光洙は1973年から1984年までの12年の間、何と六回も日本に浸透し、成功的工作任務を遂行した。 このうち三回は日本人の身分を盗んで合法の形で浸透した。 第一回の浸透は、1973年7月2日だった。 北朝鮮の元山連絡所(スパイ浸透基地)で無電機と米国紙幣2万ドルなど、工作の道具を準備して工作船に乗り、日本の石川県猿山海岸に浸透した。 任務は北朝鮮に帰国した者の縁故家族を包摂(抱き込む)し、日本内に地下組織を構築することだった。 辛光洙は浸透後、大阪に移動し、帰国者の縁故を使って工作対象者であるホン・ギョンセン(65 女)を探す。 1961年、北朝鮮に帰国した一人息子のイ・ジンベ(45)の写真と自筆の手紙を渡して、協力しなければ北朝鮮の息子の身の上が危なくなると言って脅迫し、包摂した。 彼女の斡旋で近くの履物工場に配達員として就職し、朝鮮総連系のキム・チャフン(51)を紹介されて、彼の義父であるウン・ムアム(79)が管理する観光地有料道路の通行料徴集員として再就職して、活動拠点を確保した。 辛光洙は大胆にも、1960年1月に北に帰国したウン・ムアムの次男のウン・ヨアン(43)を人質に、同じ手法で彼を包摂した。

 北朝鮮スパイが敵国に密入国して活動することを「浸透」、敵国内でのスパイ活動を「工作」、自分の味方に引き込んで組織の一員にすることを「包摂」と言うのですが、日本人には馴染みにくい言葉です。 「包摂」は左翼用語の「オルグ」が一番近いですかねえ。

縁故を利用した工作で、縁故者家族を包摂

また縁故を利用した工作で、朝鮮総連系の在日同胞であるコ・ギウォン(高基元 52)を通して、大阪の朝鮮総連系の初級学校長出身の衣類商のキム・キルウク(金吉旭 57)と彼の義弟のイ・ジェヒ(37)まで包摂した。 辛光洙は彼らを民団(在日本大韓民国団)に偽装転向させて韓国に自由往来する道を開き、韓国にいる親戚や友人たちを包摂して地下組織を構築するよう指示した。 これは北朝鮮のスパイ網を扶植する典型的な手法である縁故線工作である。 すなわち血縁と地縁などの縁故関係を媒介に包摂するやり方である。

 ここまでが第一回目の「浸透」「工作」活動です。 ここでは触れていませんが、辛光洙はこの時に東京で「朴春仙」という在日女性を騙して同棲し、そこを活動拠点としました。 彼女は後に『北の闇から来た男』という本を出版して、その時の様子を明らかにしています。 「金吉旭」は日本人拉致の実行犯で国際手配されていましたが、最近韓国で死亡したと伝えられました。  (続く)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(2)2024/04/29

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436 の続きです。

3年間、工作を成功的に終えた辛光洙は、日本の海岸から北の工作船と接線(連絡を取る)して、1976年9月12日に元山に復帰した。 辛光洙は平壌近郊のスパイ教育訓練所であるヨンソン(龍城)招待所とスナン(順安)招待所で3年7カ月間の再教育の後、第二回浸透に乗り出す。当時、金正日が直接辛光洙に「日本人を拉致して北朝鮮に連れてきて、その身分事項を熟知し、日本人に変身し、工作任務を遂行せよ」と指示した。

   「成功的に終える」は日本語としてはちょっと変ですが、韓国語では時々出てきます。 ところで「接線」も馴染みにくい言葉ですねえ。 「再教育」というのは、日本など資本主義国で生活した北朝鮮スパイが自由主義に染まって亡命などしないように、北朝鮮に戻ってきた時に再度洗脳教育をすることです。 昔は「洗濯する」なんて言っていたように思います。

1980年4月、北朝鮮の南浦港から出発して日本の宮崎県日向市海岸に浸透した辛光洙は、一回目の浸透時に包摂したウン・ジョンウン(55)の斡旋で、東京で工作対象者であるイ・キルドン(73 朝鮮総連大阪商工会長)に接近し、北に帰国した彼の長男と次男の写真と自筆の手紙などを提示して、同じ手法で脅迫し、包摂した。

金正日「日本人を拉致した後、身分を盗め!」

辛光洙は、一回目の浸透の時に構築した在日スパイである金吉旭に、未婚で家族がいない者、旅券を一度も取らず人物写真を出したことがなく、前科もなくて指紋で捺印したこともない者、個人の金銭取引や銀行取引がない者、長期間行方不明となってもバレる心配がなく、日本で安全に活動できる45~50歳くらいの日本人を物色して報告するよう指示した。 その結果、朝鮮総連大阪商工会理事長が運営している中華料理屋の調理師である「原敕晁」が適格だとした。 1980年6月、原敕晁を青島海岸まで誘い出して待機していた北朝鮮工作船に乗せ、自分もそれに乗って拉致に成功する。 金正日の指示の通りに日本人を拉致し、身分の盗用を通して対日・対南工作に活用しようというのであった。

 日本人の「原敕晁」さんを拉致した時の様子です。 実行犯として、「辛光洙」とともに「金吉旭」の名前が出てきます。

辛光洙は原敕晁と平壌近郊の東北里招待所で5ヵ月間いっしょに宿泊しながら、彼の身体的特徴や性格、人的事項、学力・経歴、親族関係、居住事項、中華料理法などを熟知して、自ら原敕晁に変身した。 このような手法は、本誌第2799号(2024年3月10日付)で紹介した「伝説の女スパイ 李善実」の身分盗用の手法をそのまま使ったものだ。

 辛光洙は原敕晁さんの身分を背乗り(はいのり)しました。 これ以降、原さんに成りすましてスパイ活動をします。 

「李善実」も同時期に暗躍した有名なスパイです。 昔『北朝鮮の女スパイ』という本が出版され、詳しく解説されていました。 講談社でしたかねえ。

1980年11月26日、辛光洙は北朝鮮の南浦港を出発し、日本の青島海岸に三回目の浸透をする。 彼は一・二回目の浸透工作の時に構築した在日スパイ網を動員して、追加として北朝鮮帰国者家族の包摂工作に乗り出す。 清津に暮らしている北朝鮮帰国者のイ・スンギュの甥であるイ・ドンチョル(李東哲 45)が当時民団幹部にいたが、同じ手法で接近し、包摂する。 特に李東哲が法政大学在学時に北朝鮮の奨学金を受けていた事実を取り上げて、3000万円を工作資金として自分に支援するよう脅迫した。

また在日スパイ網のイ・ギルビョンの照会で、パン・ウォンジョン(方元正 50)に会い、北朝鮮にいる義弟の話をして、同じ手法で包摂する。 辛光洙はこの方元正を利用して、北朝鮮に拉致した原敕晁名義の旅券、運転免許証、印鑑証明証、国民健康保険証などを取り、日本人に成りすました。 1982年2月、北朝鮮の貿易代表団の一員に偽装して、工作の検閲をして渡日して日本のホテルに投宿中であった調査部副部長のカン・ヘリョンに対して、方元正に挨拶させた。カン副部長は方元正に民団に偽装転向して、韓国旅券を作ることと韓国にいる親戚・同窓のうち、影響力のある者を包摂することなどを指示した。

   辛光洙は原敕晁さん背乗りのためにパスポートや運転免許等々を取得するのですが、その時に「方元正」という在日が協力したのですねえ。 日本の実情に詳しくない外国人スパイが日本人に背乗りしようとすると、こういう人が必要になるのでしょう。

1982年3月23日、辛光洙は日本人原敕晁名義で作った旅券を利用し、スイス-パリ-モスクワを経由して北朝鮮に堂々と復帰した。 以降、平壌東北里の招待所に収容されて、再教育を受けた。 1982年4月15日、金日成の誕生日に一級国旗勲章を授与された。 辛光洙は金日成の挨拶を受ける接見席上で、日本人の身分を利用して東南アジアに拠点を早く確保することと、日本人拉致の事実がバレると国際問題に飛び火するだろうから、徹底して秘密を維持し、在日スパイ網を活用して対南浸透工作を積極的に展開するなどの業務命令を受けた。

 辛光洙は日本人パスポートを手に入れたので、国際的に活動の場を広げることができました。 (続く)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436