壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3) ― 2024/07/10
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 の続きです。
https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s
技術放置の惨酷な結果 (11:42)
原文は「放置」ですが、「放ったらかし」あるいは「無視」「軽視」という意味ですね。
先端磁器製造技術の保有国がその技術者と生産品を軽視した結果は惨酷でした。 1597年の丁酉再乱(豊臣秀吉の慶長の役)の時、日本の将軍たち、鍋島直茂そして島津義弘は行く先々で朝鮮の沙器匠を大挙して連行していきます。 朝鮮の記録では連行したとなっていますが、日本の記録では自発的に応じて行ったとなっています。 この日本軍が荒らし回った慶尚道と全羅道、忠清道、咸鏡道、江原道です。 官窯がある京畿道広州は含まれていませんでした。 ですから各地域で民窯を運営していた沙器匠が大挙して拉致された、という意味です。
ここは私が知らなかったところで、慶長の役の際、鍋島や島津などの日本軍の進軍経路には確かに京畿道広州はないですねえ。 ですから官窯の陶工たちはこの時に日本に連行されなかったということです。 日本軍が朝鮮人陶工を連行したというのは、民窯の陶工(沙器匠)だったということは間違いないでしょう。 従って官窯の陶磁器生産技術は奪われることなく残ったのでした。
ところで先述したように官窯では定員が1140人から380人に減らされたのですから、排除された陶工たちは各地の民窯に行ったものと考えられます。 そこには官窯の白磁生産技術を持った陶工も含まれていたでしょう。 ですから日本軍が民窯の陶工を連行した中に白磁を焼くことを知る者がいたと推定できます。 さらに彼らが日本で有田焼や薩摩焼の白薩摩など、磁器生産を始めて発展させたと思うのですが、どうでしょう。
なお日本の進軍経路に「咸鏡道」が入っているのは、その前の文禄の役のことと混乱したと思われます。 文禄の役では加藤清正が咸鏡道まで進軍しましたが、慶長の役では日本軍は朝鮮半島南部に限られます。
その連行された陶工たちが本国朝鮮に帰還したという記録は、どこにもありません。 しかし本人たちが本国送還を拒否したというのは、日本の記録はもちろん朝鮮通信使の記録にもたくさん出てきます。 理由は十分に考えられるでしょう。 朝鮮では名前を残せなかった朝鮮沙器匠の後孫たちが、日本では「李参平」「沈壽官」、このような名前になって、今もその後孫たちが活動しているのですから。 朝鮮では無名でしかなかったあの賤しい身分の人たち、ひょっとしたら飢え死ぬ運命に置かれたかも知れないあの人たちが日本に行くと、とてつもなく素晴らしい製品を作っているのです。
소지등록という書類があります。 旧韓末(19世紀末~20世紀初)に外交担当部署である統理衙門の書類を集めた文書です。 1891年2月16日付けに、李ポンハクという人が建議した内容が記されています。 内容は次です。 「我が国の職人は100種の製造技術が極めて遅れていて、特に沙器匠・陶工が深刻なので、外国製品に押されて廃業するのが多数である。 だから日本の職人二人を雇用して学ばせたいのでご許可を願いたい」。 はっきり言って、ゲームは終わったのです。 あのように白磁と青磁を生産していた彼の国は影も形もなくなり、日本から学ばねばならないから許可をくれ、というのです。
「소지등록」というのが、どこを探しても見当たりません。 仕方なくハングルのままにしました。
結局、朝鮮はかつて白磁・青磁を生産するほどの技術があったにもかかわらず、その技術は消滅し、今や日本からそれを学ばねばならなくなったのでした。
このような状況を1900年のロシア政府の調査団が次のように要約します。 「韓国人たちは製造技術の分野ではかつて隣国の日本人たちの師匠だった。 日本は陶器や漆器などを韓国から学んでいった。 しかしそれから、韓国人たち自身はこの製造技術を完成させることができなかっただけでなく、過去の水準を維持する能力さえ持たなくなった。 最近ではさらに退歩して、ほとんど例外なく悲しい状態に置かれている。 現在の粗雑な磁器製品を見れば、かつて日本人たちが韓国人たちからその技術を伝授されたということは想像できない」ということです。
1881年です。 調査視察団、紳士遊覧団といいます。 その調査視察団の団員として日本に行って来た若い官僚、魚允中が高宗に次のように報告します。 「日本に何か隠し事があるのかどうかは我々の問題であって、彼らの問題ではない。 我々が富強の道を歩むようになれば、彼らはわざわざ隠し事をすることはない。 隣国の強さは我々には福ではない」と言うのです。
最後の「隣国の強さは我々には福ではない」という魚允中の言葉は、おそらくは、日本が強国であれどうであれ、まずは自国が強国とならねばならない、だから日本に頼ろうとしてはならない、強国の日本は我々には幸福をもたらすものではない、という意味と思われます。
あきれたことに、後日高宗は、皇帝になった高宗は、強国となった隣国の陶器会社であるノリタケに大韓帝国の李花模様の入った湯器を注文して使ったのでした。 先端窯業技術国家の完全な没落です。
いま私たちは「朝鮮」でもなく「大韓帝国」でもありません。 我々はこの技術を持って世界で活動している「大韓民国」で暮らしているのです。 「地の歴史」 パク・ジョンインでした。
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602
【追記】
日本に連行された朝鮮人陶工は、「李参平」「沈壽官」という名前で有田焼や薩摩焼を興しました。 このうち沈寿官については、司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』という小説にしており、これに基づいて最近「ちゃわんやのはなし」という映画まで制作されました。
司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の題名は、江戸時代に京都の町医者が薩摩焼の村を訪ねた際に、村の庄屋さんである「伸侔屯」が「故郷忘じがたしとよく言われるが‥‥」と語ったのを聞いたところから取ったものです。(下記参照) 「故郷忘じがたし」は中世~江戸時代の日本の慣用句であり、庄屋さんはそれを口にしたのでした。 ですから自分の故郷を具体的に思い出したのではなく、世に〝故郷忘じがたし″という諺がありますが私も一度訪ねてみたいものです、という程度のものでした。
先祖が日本に連行されてから200年、今風に言うと〝在日六世″あるいはそれ以上で、朝鮮に残っているはずの親戚らとは縁が切れています。 そして日本ではそれなりの地位を得て経済的にも安定した生活を送っていました。 果たして賤民身分として暮らした朝鮮の故郷を「忘れられない」という感情・感覚を有していたのかどうか、疑問です。
しかし、司馬はこれを〝薩摩焼の朝鮮人陶工たちは日本軍に強制連行されてきたが、故郷をいつまでも忘れられずに民族を維持してきた″という風にアレンジして小説を書き、世に広めたと考えられます。 (終わり)
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/02/9647749
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/09/9649336
【追記】
昨年12月11日と18日付けの『ハンギョレ新聞』に薩摩焼沈壽官のことが出ていましたので、ご参考ください。 日本語版は下記です。 朝鮮人陶工に関しての俗説・憶説を批判していますね。