韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1)2024/08/30

 今回は私には興味深い話なのですが、皆さまにはどうでしょうか。 まあ、適当に読み流してください。

 韓国に「セノヤ」という歌があって、かなり流行していたというか、よく歌われたようです。 ごく短い歌で、今も大抵の韓国人が知っている歌だそうです。 https://www.youtube.com/shorts/QZ1pb6tcQq4 この「セノヤ」の作詞者は詩人として有名な高銀さんですが、彼は〝「セノヤ」はもともと韓国語だった″と主張しています。 高銀さんは民主化運動家として主導的立場にあった人であり、その方が言っていることですから、この説が韓国では定着しているようです。 しかし、「地の歴史」のパク・ジョンインさんが 〝そうではなく元々日本語だ″という反論していました。 ユーチューブでの発表ですが、興味深かったので訳してみました。  https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s

詩人の高銀氏、なぜ言い張るのですか? 「セノヤ」は日本語ですよ

大韓民国の人ならば、みんなが愛する歌「セノヤ」は、詩人の高銀が作った詩にソウル大学の作曲科の学生であるキム・グァンヒが曲をつけた歌です。 ところで題名に出てくる「セノヤ」は民族の情緒を込めた単語ではなく、日本語で「영차」を意味する「せえの」です。 高銀はこれを「古代韓国語が日本に渡って、日本人が使うようになった韓国語」だと言います。 果たして、そうでしょうか。 信念が間違いと証明されれば、撤回せねばなりません。 それこそが一般大衆が間違った歴史、間違った情報を知ることになります。 

 ここまでがこのユーチューブ番組の要旨です。 それでは番組が始まります。 まずは「セノヤ」はどのような歌で、どのように誕生したか、です。

みなさん、こんにちは。 「地の歴史」パク・ジョンインです。 今日は歌の歴史、そして「歴史のウソ」です。 「セノヤ」という歌があります。 知らない方より知っている方がもっと多いようで、たくさんの人が愛する歌です。 この歌にまつわる歴史の話で、この歌が持っている意味というのがウソだという話です。 今日のお題は、「詩人の高銀氏はなぜ言い張るのですか? 『セノヤ』は日本語です」になります。 

山と海と私たち。 セノヤはたった四行で私たちの情緒を表現した歌です。 伴奏もギターコードの単純なものです。 ヤン・ヒウンが歌って、広く知られるようになりましたが、実はこの歌を最初に歌ったのはキム・グァンヒという人です。 彼は「セノヤ」の作曲家でもあります。 ソウル大学作曲科の学生であったキム・グァンヒは、1970年のある金曜日に友人の弟であるキム・ミンギから歌を作曲してくれと依頼されました。 週明けの月曜日に放送する歌なのだが、さあ直ぐに作ってほしいと言うのです。 一方放送局では、キム・グァンヒが週末に曲を完成させるなら、作曲家本人である彼が歌えばいいと言います。 そこで彼は一週間だけ、匿名を条件に歌いました。 その時のソウル大学の作曲科では、大衆音楽は低レベルと考えられていたので、匿名で歌ったのです。

この歌は大当たりをしました。 だからキム・グァンヒのバージョンが四ヶ月の間、鳴り響きました。 その後、ジャズシンガーのチェ・ヤンスク、またフォーク歌手のヤン・ヒウンがこの歌を引き続いて歌い、「セノヤ」は国民の歌になります。 単純なメロディーに短く骨太の歌詞が、私たちの情緒にぴったり合ったのです。 

 チェ・ヤンスクの「セノヤ」は https://www.youtube.com/watch?v=eqaDX_3b90I で、ヤン・ヒウンの「セノヤ」はこのブログ冒頭部にリンクを貼っているものです。 この歌が1970年代以降の韓国人の心に響いたのですねえ。

それでは、今からこの曲の歌詞の話です。 元々「セノヤ」は歌の歌詞ではなく、詩です。 そしてこの詩を書いた人は高銀です。 はい、まさにあの元老格の詩人である高銀です。 今いろんな問題で活動ができないでいますね。 長い間、高銀という人は旺盛な創作活動と情熱的な民主化運動で尊敬を受けてきた人です。 その人が書いた詩にメロディーがついて、今は私たちみんなに愛される歌になりました。 さあ、「怪談」が始まります。

 「今いろんな問題で活動ができないでいます」というのは、高銀さんが長い間悪質なセクハラしてきたことが暴露されたためです。 拙ブログでは、http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/28/8795521 で高さんのセクハラに触れました。 それでは「セノヤ」の作詞者である高さんは、この歌についてどのような主張をしているのでしょうか。

高銀が語る〝始まり″の経緯。 (2:31)

高銀は、この「セノヤ」という詩を1960年に、南海の海の上で思い付いたと言います。 2012年11月1日付けのハンギョレ新聞に高銀は寄稿し、次のように言います。 

「1968年かその翌年か、私は未堂(徐廷柱の雅号)と一緒に、慶尚南道の鎮海の陸軍大学での文芸講演に行った。 陸軍高級将校たちが生徒だったが、全斗煥・盧泰愚らも生徒だったという事実を後に知った」 講演の後、陸軍大学総長のキム・イククォン将軍の好意で「陸軍大学専用の小型戦艦に二人が乗って、統営から麗水までの多島海を経由することとなった。 途中でパク・ジェサムの故郷である三千浦にも寄港して、焼酎を飲む余裕を楽しんだ。 すぐにその南海の沖合まで出て、私の思うままにイワシ取り漁船に注意して接近してくれた。 イワシの網を流して引っ張る船上労働は、歌なしでは不可能だ。 その漁夫がリフレーンで『せのや、せのや』という聞き慣れない言葉が私の脳裏に刻まれた。 この『せのや』は、私の故郷の群山の沖でのそれではなく、南海一帯の労働歌の心情を表わす。」 

 このハンギョレ新聞の記事というのは https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/558412.html です。

 徐廷柱(雅号は未堂)は古くからの著名な詩人でしたが、今世紀になって親日反民族行為者に認定されました。 60年近く前の1968年頃ですが、韓国ではかつての民主化闘士と親日反民族者とが一緒に行動していたというのですから、興味深いですね。 徐廷柱については拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283 に彼の詩を引用したことがあります。 

つまり高銀は、南海の海でイワシ漁師たちが網を引き揚げながら「せのや」と大声で叫んでいたのが偶然に聞こえたといいます。 彼はそこで大きなインスピレーションを得て詩を書き、これが今の「セノヤ」という歌になったというわけです。

結論から言いましょう。 「セノヤ」の「せの」は、韓国語の「영차」に該当する日本語です。 ですから意味をそのまま解釈すれば、この歌は「영차 영차 산과 바다에 우리가 간다(せーの、せーの、山や海に私たちが行く)」になります。 問題は高銀がこの「せの」が日本語だという指摘に、〝とんでもない″と否定したことです。 

                         (続く)

【追記】

 韓国の詩人として有名な高銀さんは、民主化闘争の闘士でも著名でした。 しかし2017年に彼のセクハラが暴露されて、その地位と評判が底まで落ちました。 どんなセクハラかといえば、調べればお分かりになると思いますがかなりエゲツないもので、それが長年続いてきたのです。 周囲の人たちはそれ知り、時には目の前で見ながら、文壇の長老格で韓国社会に影響力の非常に大きな方に逆らえないとして、黙って見過ごしてきたものです。