韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(3)2024/09/09

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/04/9714238 の続きです。 https://www.youtube.com/watch?v=V1biWA3h4I4&t=20s の翻訳です。

高銀は「せのや」が日本語ではないと主張して何日か後に、今度は南海岸に直接取材したチェ・ソンイルPDが登場します。 「高銀氏の反駁文を見て、あきれた。 反駁文ではないと言いながら詭弁に近い反駁文を書いたためだ。 だから私は高銀氏の文に反駁する文を書いて『ハンギョレ新聞』に送った。 しかし、どういう理由なのか掲載されなかった。 それでここに文を載せた。」 自分のブログに載せました。

「『せのや』は日本のイワシ漁の船で網を引く時、船乗りたちが歌った民謡のリフレーンの一部である。 これに関する証拠はMBCが南海岸一帯で取材した《韓国民謡大全》資料も十分な上に、私が慶尚南道固城で取材したある語り部の証言でも確実に証明できる。 固城のその語り部のお年寄りは農民でしたが、賃労働するために、当時海岸に進出していた日本のイワシ漁の船に乗って操業しながら、日本の漁夫たちが歌について一緒に歌った、イワシ漁は多くの人が団結してやらねばならない仕事であるので、動きを合わせるために歌が必要だった。」

次はチェ・ソンイルPDがインタビューした慶尚南道固城の語り部のチョン・イセンさんの聞き取り記録です。

舟歌は「せのや、せのや」と言いながら、網を引く時は「せのや、せのや、せのや‥‥」、網を引く時。 「せのや」は、網を手で引っ張りながら言うと。ウィンチで巻き上げて、全部引っ張ってから入って「せのや」と言うんだ。「せのや」、それは朝鮮の言葉ではないんだ。 それは日本の奴の言葉だ。 船に乗った人は知っているよ。 本人が直接言っていたのだからね。 (MBCラジオ〈チェ・ソンイルの民俗紀行〉2007.10.21.放送) (11:35)

ハンギョレ新聞が掲載を拒否したチェ・ソンイルPDの文が続きます。 

「せのや」はイワシが取れた網を船の上に引き上げる過程で歌う歌の一部である。 日本に近い釜山の沖合から西側の南海、麗川、莞島に至るまで、日本のイワシ漁の船が残した痕跡は海辺の人たちが記憶する日本式の舟歌の形態として残っている。 日帝強占期に特定した状況で、日本の民謡が我々の民謡に割り込んだということを見せてくれる。 我々の民謡に日本語が挿入される現象は、ある意味では自然なことだ。 しかし我々は民謡だけでなく、我々が使う言葉に外来語がどれほど混じって入っているか、はっきりと知っていなければならない。 早くから大衆に馴染んでいる「せのや」という言葉が日本語だということを遅まきながら知ったなら、我々みんなの無知を反省して、またこんなことがないように教訓として残すのが正しい。」

そしてチェ・ソンイルPDが付け加えます。 「そんな面から、高銀詩人が『せのや』について出した弁明は、すぐに納得できない。 彼は『せのや』がひょっとして古代韓国から日本に渡って行った言葉なのかも知れないとか、韓日両国で共通して使った古代海上言語または国際語かも知れないので、『せのや』が日本語だと断定するのが難しいとする。 検証が困難な古代言語を持ち出しながら、目の前の真実は認めていないのである。 『せのや』が古代韓国から渡って行った言葉であるなら、なぜ日本にだけその言葉が残っていて、本土である韓国に残っていないのか、どんなハングル辞典を探してみても『せのや』という言葉を見つけることができず、その似た言葉さえも出てこない。」 

チェ・ソンイルPDの文は続きます。 「高銀詩人は、自分の反駁文でも『せのや』が日本の九州地方の『漁夫の歌』と明らかにした。 自分が南海で聞いていた『せのや』という言葉が実は日本語だったということを、すでにだいぶ前から分かっていたのである。 それでもなぜ今まで、それについて一言もなかったのか気になるところだ。 自分が間違って書いた詩一編が有名な大衆歌謡になり、映画やドラマのタイトルになり、酒場や美容室の商号になり、他の詩人の詩集の表題にも使われ、ある新聞社で発行した『民族の歌』にも選ばれもしたのである。 間違ったことは正直に認めて反省するところから新しい知識と文化の歴史が始まる。」

 以上のようにチェ・ソンイルPDは高銀さんへの長文の批判をしました。 この批判は正しいと思われます。 高さんは有名な詩人で社会的影響力も大きいから、批判も長文になったのでしょうねえ。

ベトナムの国父であるホー・チ・ミンが丁若鏞の書いた『牧民心書』を愛読し、丁若鏞の命日にはチェサ(祭祀―法事のこと)をしたという「怪談」を流布した人が、この詩人の高銀です。 事実と信じていたことが事実ではないと明らかになったなら、その信念を撤回し、事実を受け入れことこそが社会的責任を果たすことのできる大人なのです。 今もこの地のどこかで誰かが「せのや」を歌って深い思いにふけているでしょう。 私もこの歌が大好きです。

 丁若鏞は日本ではほとんど知られていませんが、200年前の李朝時代後期に実学思想を集大成したとして、韓国では有名な歴史上人物です。 〝ベトナムの革命家ホーチミンが李朝時代の丁若鏞の本を愛読していた!?″ 〝しかもチェサ(法事)までしていた!!??″ 高銀さんがこんなことを本当に言っているのかと思って検索してみると、どうやら本当です。 ベトナムを含めて世界の誰もが信じていない「怪談」(歴史上のウソ話)を、韓国だけが唯一信じていたのでした。 その「怪談」を新聞に書いて広めたのが、まさに今回話題としている高銀さんだったのです。 

 高銀さんは、「せのや」は元々韓国語であったという「怪談」を語るのですが、それはホーチミンと丁若鏞の「怪談」を語るぐらいにウソの歴史話が多い人だから、ということになりそうです。

 以上、私には面白い話だったのですが、皆さまには〝何が面白いの?″と疑問を持たれたかも知れません。 ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。 

 最後に出てくるホーチミンと丁若鏞の「怪談」について、少し詳しく調べましたので、次回に発表します。 捏造の歴史はこのように作られた、という話になります。 (終わり)

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/30/9712922

韓国愛唱歌「セノヤ」の語源は日本である(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/04/9714238

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