ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(4)2024/10/01

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/26/9719415 の続きです。

 トンデモ話がどのような経緯で始まり、どのように信じられて広がっていったのか、分かりやすくするために時系列でまとめてみました。 これまでの『朝鮮日報』記事だけでなく、検索して得られた記事も参考にし、私のコメントを挿入しました。

・1988年11月:  詩人の高銀が『ハンギョレ新聞』に、「ホーチミンは茶山丁若鏞の『牧民心書』を読んで感動し、丁若鏞の命日にはチェサ(法事)を挙げるくらいに尊敬した」というトンデモ話を投稿。 今のところ、これが文献上に残る最初のトンデモ話記録である。 なおこの年にソウルオリンピックが開催され、ベトナムは北朝鮮がボイコットを呼びかけたにもかかわらずこの呼びかけに応じずに参加した。 このことがトンデモ話に関係した可能性はある。

・1992年:  作家のファン・インギョンが小説『牧民心書』を出版し、その序文に「ホーチミンは終生『牧民心書』を枕元に置いて教訓とした」と記した。 この年に韓国はベトナムと国交を正常化したので、両国友好の象徴としてこのトンデモ話が広がったとも考えられる。 

・1993年:  嶺南大学教授のユ・ホンジュンが『私の文化遺産踏査記』を出版し、その中で次のように記した。 「ホーチミンが不正と非理追放のためには朝鮮の丁若鏞の『牧民心書』が必読の書だと言ったという話が伝えられているので、これがあの方の偉大さを証明するものとしたい」。 ユ・ホンジュンは後に盧武鉉政権の文化財庁長官を勤めるような人だったので、韓国では権威ある研究者がこのトンデモ話にお墨付きを与えたことになる。

・1994年:  高銀が『京郷新聞』の「私の山河 私の人生―革命家の死と詩人の死」というタイトル記事で、「ホーチミンは少年時代、激動の朝鮮後期の実学者である丁若鏞の牧民心書を求め、彼の命日を知って追悼することを忘れないようにした」と書いた。 高銀は6年前の1988年にも同じことを『ハンギョレ新聞』に書いているから、トンデモ話を本当と信じ込んでいたと思われる。

・2004年6月:  『東亜日報』フランス特派員が、「フランスの作家が書いた『ホーチミン評伝』を見ると、ホーチミンは最も尊敬する人物として茶山を挙げた。 彼は『牧民心書』を読んで、体が震えるほどの感動を受けたという。 そしてこの本から霊感を得て、ベトナムを引っ張っていく方向を定めたと告白した。 毎年、茶山の命日にはチェサ(法事)まで執り行なったというから、彼の尊敬する心がどれ程かを推察できる」という記事を書いた。 なおフランスの作家が書いたという『ホーチミン評伝』の所在について、この特派員記者は15年後の2019年に問い合わせされた時に「忘れた」と回答している。

・2004年:7月  茶山研究所パク・ソクム理事長はHPで、「ホーチミンの枕元には『牧民心書』がいつも置かれていたという。 茶山の命日まで知っていて、毎年チェサ(法事)を手厚く執り行なっていた」と記した。 丁若鏞の専門研究機関までもがトンデモ話を持ち出した。 トンデモ話に更なるお墨付きを与えたのである。

・2005年:  丁若鏞の生地である韓国の南揚州市とホーチミンの故郷であるヴィン市との間に、姉妹都市が結ばれる。 このトンデモ話に基づいて、国際交流まで行なわれるようになった。

・2006年:  『聯合ニュース』は茶山研究所理事長とともにベトナムのホーチミン博物館を訪ねたところ、ウンウォン・ティ・ティン館長から「わがホーチミン博物館には『牧民心書』はない‥‥『牧民心書』に関連する主張は明らかに誤伝である」と言われたと記した。 これがトンデモ話を否定する最初の記事のようである。 しかしトンデモ話は鎮まることはなかった。

・2009年:  朴憲泳の伝記である『朴憲泳評伝』が発行される。 その中に「朴憲永はホーチミンに『牧民心書』を贈った。 この本は将来ベトナムの指導者になるホーチミンに生涯の指針になった。 ‥‥ 朴憲永が贈った『牧民心書』はハノイにあるホーチミン博物館に保管されていて、朴憲永は“親しき友”という意味の『朋友』と署名して贈った」と書かれていた。 実際にはホーチミン博物館は丁若鏞の『牧民心書』を保管していないし、過去にそんなものがあったとする記録も全く存在しない。 『朴憲泳評伝』はトンデモ話を検証せずにそのまま書き入れたようである。

・2017年1月:  丁若鏞の生地である韓国の南揚州市は、2005年に姉妹都市となったベトナムのヴィン市に援助して道路を作り、その道路名を丁若鏞の号から「南揚州茶山道路」と名付けた。 韓国のトンデモ話は、国際交流を進展させていった。

・2017年11月:  ベトナムで開かれた「世界文化エクスポ」に、文在寅大統領が開幕祝賀メッセージで「ベトナム国民が最も尊敬するホーチミン主席の愛読書が、朝鮮時代の儒学者である丁若鏞公が書いた『牧民心書』だということは広く知られている事実です」と書き送った。 世界では誰も知らないトンデモ話は、韓国では大統領までもが信じ込んで国家レベルの外交にまで利用された。 

・2018年以降:  大統領発言が契機になったのか、韓国のマスコミらはベトナムを訪問してファクトチェックを行ない、「虚偽」と判定したという報道が相次ぐ。

・2019年4月:  在ベトナム僑民雑誌の『グッドモーニング・ベトナム』が、茶山研究所のHP掲示板に「『牧民心書』とホーチミンとの関係」について問い合わせの投稿をした。 これに対して研究所は「ホーチミンが『牧民心書』を耽読したという話は根拠が全くない。 朴憲泳とホーチミンの牧民心書にまつわる逸話も確認できるものはない」と回答した。 しかしHPの“ホーチミンは牧民心書を愛読し丁若鏞のチェサ(法事)をしている”という文は削除されなかった。

・2019年11月:  茶山研究所のパク・ソクム理事長はローカル新聞で、「2004年の研究所HPにホーチミンと丁若鏞の関係について、『東亜日報』の記事を信じて書いたが、その根拠とされる『ホーチミン評伝』は見つからない、『東亜日報』記者に問い合わせたら“忘れた”という答えだった、あれを書いたのは自分の不覚であり間違いだった」と否定した。  なお理事長は2006年にホーチミン博物館を訪れた際に、丁若鏞関係の資料は一切ないことを確認していたにも拘らず、それを公表しなかった。 つまり2019年までの14年間、茶山研究所は韓国内でトンデモ話が飛び交っていることを黙認してきたのである。

 以上、年表風にまとめました。 ところで韓国ではこのトンデモ話を今でも信じて語る人が後を絶たず、ネットでも時おりそんな記事や映像が上がっています。 歴史の歪曲・捏造を正すには長い時間が必要ということですね。 (終わり)

  【追記】

 日本では東北文化学園大学の文慶喆教授が2016年に「この『牧民心書』はベトナムのホーチミンが愛読した本の一冊でもあった」と書いておられますね。https://www.tbgu.ac.jp/faculty/bl/kunimi-terrace/kunimi-blog/18914  文さんは韓国出身で、当時韓国に広がっていたトンデモ話を信じ込んでいたのでしょう。 これはトンデモ話が韓国以外で公表された唯一の例と思われます。 

ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/16/9717148

ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/21/9718240

ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/26/9719415

日韓市民運動の悲観的記事-ハンギョレ新聞2024/10/04

 韓国で左派性向が強いとされる『ハンギョレ新聞』に、日韓の市民連帯の将来を悲観するちょっと異例な記事がありました。  https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/51262.html

 『ハンギョレ』のキル・ユンヒョン論説委員が、韓国の「アジア平和と歴史研究所」と日本の「九州韓国研究者フォーラム」が共同開催する「学術大会」に出席しての感想です。 この学術大会の理念やこれまでの経緯を先ずは説明した後、次のように記しています。

しかしその後、状況はどんどん悪化していった。 毎年少なからぬ市民たちが会い、互いの考えを語り合っても、溝は大きくなるばかりだった。 ここで安倍晋三元首相(1954~2022)の名を取り上げずにはいられない。 日本軍「慰安婦」問題をめぐり韓日の立場がぶつかる中、「(日本の)子どもたちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という安倍談話(2015)が出た。 それ以降、日本の首相はもう謝罪と反省を語らなくなった。尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が「屈辱外交」という厳しい批判を受けても2018年の最高裁(大法院)判決に対する「一方的な譲歩案」を提案したが、日本は応えなかった。おそらく最後まで応えないだろう。

一方で、日本の右傾化の流れに立ち向かい小さくも力強く抵抗してきた日本の市民団体は、後世がいない問題から、5年後も見通せない状況に追い込まれている。 国際情勢の悪化により、韓日を越え北朝鮮・中国を包括する民間交流はもはや遠い夢だ。 これがここ20年余り続いた東アジア市民交流の現実なのではないだろうか。

 『ハンギョレ』記事では、安倍談話(2015)以降「状況はどんどん悪化していった」「後世(後継者)がいない問題から5年後も見通せない状況に追い込まれている」と非常に悲観的な展望です。 歴史問題の市民連帯運動は、この「学術大会」の趣旨に賛同し参加した記者がこんな見通しを書いて記事にするくらいに追い詰められている、ということでしょうか。

 私が考えるには、そんな市民運動では若者が後に続いていこう思わないほどに魅力がなくて関心を持たれなくなっているからでしょう。 市民運動を続けてきた活動家や研究者たちは、お互いだけで話が通じ合う狭い関係のまま高齢化したという事情があったと思われます。

 記者は次のように言います。

行事が終わって訪れた居酒屋で、「日本にはもう期待できるものはない」と挫折する私に、日本のある友人は「あきらめてはいけない」と言った。「キルさん、私たちはまだ河野談話(1993)と村山談話(1995)を捨てていませんよ。あきらめたら、日本の右派の望み通りになってしまう」

 記者は「日本に期待できない」とまで言うのですが、日本の左派市民活動家が30年も前の河野談話や村山談話を持ち出して、「あきらめてはいけない」と慰めたといいます。 日本の左派リベラルは、「(日本の)子どもたちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という安倍談話を否定できず、右派に対抗することだけを続けてきたようです。 これでは若い人は元気が出ないだろうし、ついてこないだろう、というのが私の感想です。 

 記者は最後に次のように言います。

安部が作り、尹錫悦が受け入れた「残酷な現実」をそのまま受け入れるわけにはいかない。そうだ。これからも力の限り書き、考え、抵抗するしかないのだ。

 最後になってやっと『ハンギョレ新聞』らしい記事になりました。 しかし歴史問題で日韓の連帯を続けてきた運動は、やはり縮小していくのでしょうねえ。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国日は本当か?2024/10/10

 韓国の週刊誌『週刊朝鮮』2825号(2024年9月9日~15日 34~35頁)に、「北朝鮮の9・9『共和国建国日』は虚構だ」と題する論稿が掲載されています。 論者はピョードル・チェルチズスキーという人で、肩書は「博士 『金日成伝記』の著者」となっています。

 拙ブログでは以前に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国過程について論じたことがあります https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056 。 今回紹介する論稿もそれに関係するものですが、私の知らなかった事実が記されていて、参考になりました。 主要部分を翻訳して紹介します。 所々に、私のコメントを挟みます。

来たる9月9日は北朝鮮の「朝鮮民主主義人民共和国 建国日」である。 「九・九節」と呼ばれるこの日、韓国のマスコミでは「北朝鮮政権が1948年9月9日に建国された」と繰り返している。 そしてほとんどの読者たちは、これを事実として受け入れている。 だがこの主張は事実ではない。 北朝鮮政権は実際には1948年9月9日に建国されていないのである。 ‥‥ 実は北朝鮮の歴史では「政権樹立宣布」が明確になされた日がいつなのか、明確に分からないのである。

「建国行事」がなかった1948年9月9日

1948年9月9日に何か特別な「建国行事」を開かなかったという点を注目すべきところだ。 ‥‥ 北朝鮮の建国に至る過程を振り返ってみよう。

1948年初め、北朝鮮は事実上ソ連軍のソビエト民政部の支配下にあった。 ただし形式上では北朝鮮を統治した公式機関は「北朝鮮人民委員会」である。 この人民委員会の委員長は金日成であるが、実際のところ人民委員会自体はソ連軍の指示と命令によって運営されていた。 北朝鮮の建国を決定する権限は人民委員会にはなく、ソ連軍とソ連政府だけが有していた。

 ここはその通りです。 世に出回っている北朝鮮の歴史によれば、金日成をはじめとする朝鮮の指導者が北朝鮮を動かしていたような記述が多いですが、それは形の上だけで、実際はソ連が北朝鮮を動かしていたのです。 

1946年、ソ連はアメリカとの「米ソ共同委員会」で親ソ連の統一政府提案書を提出しようとしたが、協議が失敗したため、北朝鮮地域で「単独政権」を立てることに方向を変えた。

当時のソ連は、平壌政権が38度線以南の南朝鮮までを領土とするのかどうかについて、明確な立場を明らかにしなかった。 その結果、「朝鮮民主主義人民共和国 臨時憲法草案」には領土と関連した内容を含めなかった。 首都についての規定は二重的だった。 共和国臨時憲法草案には「朝鮮民主主義人民共和国の首府はソウルである。 統一政府が樹立される時まで、平壌市を首府とする」とした。 これはこの憲法が最初は北朝鮮地域にだけ効力を持ち、もし統一政府が樹立されれば南朝鮮まで拡張されることを意味する内容だったのである。

この臨時憲法草案書は1948年2月11日に公表された。 この2月11日という日付は、当時の朝鮮半島では誰もが知っている日だった。 まさに大日本帝国の紀元節の日だったのだ。 北朝鮮当局はこの日の意味を、「人民民主主義の憲法」という新しい意味に替えようとしたわけである。

1948年4月12日、ソ連は平壌の北朝鮮人民委員会に、南朝鮮の李承晩政権に反対する政治家たちを集めて会議を組織せよという指示を下した。 「全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議(南北連席会議)」という名前で知られるこの会議は、その年の4月19日から22日まで平壌で開かれた。 南朝鮮から金九や金奎植などが参加したこの会議では、ソ連政府の指示に従って朝鮮半島から外国軍隊の撤収と全国的な選挙実施を要求する決議案を通した。

会議が終わった後、ソ連の党政治局は北朝鮮の立法機関である北朝鮮人民会議に臨時憲法草案を決議するよう指示を下した。 これにより4月28日の人民会議はこの指示に従い、決議した。 新しい憲法には「臨時首都平壌市」の文言がなくなり、ソウルが「朝鮮民主主義人民共和国の首府」と宣布された。 これはすなわち、北朝鮮政権の領土が南朝鮮まで含むこと主張する意味であった。

   この時(1948年)の憲法では「第103条 朝鮮民主主義人民共和国の首府は、ソウル市である」となっています。 これはわが北朝鮮が南朝鮮を解放して祖国を統一するという意思を示したものと解されています。 なお参考までに1972年に憲法が改正されて「第149条 朝鮮民主主義人民共和国の首都は、平壌である」となり、首都が変更されました。 祖国統一がなされれば首都を平壌にするという意味ですが、北朝鮮は南朝鮮解放路線を放棄したのだろうかという憶測が流れましたねえ。 

4月28日にこんな内容を骨子とする北朝鮮憲法が通過したのだが、その効力はまだ発生していなかった。 ソ連指導部は南朝鮮で北の主導する選挙が完了した後に、憲法を実施するよう指示した。 一方の南朝鮮は1948年5月10日に単独総選挙を実施したのだが、これに対して北朝鮮人民会議は7月10日に朝鮮民主主義人民共和国憲法を北朝鮮地域で施行することに決定した。 だからこの7月10日が「北朝鮮政権樹立の日」に一番近い日と思われる。 憲法施行が決定されるや、北朝鮮はそれまで使っていた太極旗を廃止し、新しい旗である「人共旗」を掲げた。 この時、当時の北朝鮮人民会議副議長である崔庸健は「朝鮮民主主義人民共和国憲法実施万歳」と宣言した。

 ここは、ややこしいですね。 「選挙」が二つ出てきます。 一つは「北の主導する選挙」で、朝鮮民主主義人民共和国憲法(北朝鮮)を実施するための選挙です。 もう一つは韓国(南朝鮮)で5月10日に実施された単独総選挙です。

 北の選挙で選ばれた北朝鮮最高人民会議は1948年7月10日に憲法を北朝鮮地域だけで施行することを決め、国旗を「太極旗」から「人共旗」に変えた、というのは初めて知りました。 これは勉強になりましたね。 なお「人共旗」は北朝鮮国旗の韓国での呼び方で、北朝鮮では「共和国旗」と言います。 この北朝鮮の国旗はこの時に始まるのですねえ。 解放後からこの日までは、北朝鮮は韓国と同じ太極旗だったのです。

そうして同年9月2日に開かれた第1次最高人民会議は、自らを「全ての南北人民を代表する」と主張した。 そして9月8日の最高人民会議は「朝鮮民主主義人民共和国憲法」が全ての朝鮮で施行されると宣布した。 同日、北朝鮮の初代内閣が設立されて、北朝鮮人民会議委員長である金日成が初代首相に推戴された。 もちろん金日成の首相推戴は、後日に初代駐北朝鮮ソ連大使になるソ連軍将軍のテレンチー・シュトコフの事前決定によるものであった。

 「9月2日に開かれた第1次最高人民会議」には、ちょっと説明が必要ですね。 この二ヶ月ほど前の7月に、南朝鮮ではいわゆる「地下選挙」によって代表者が選出され、翌8月21日~26日に北朝鮮の海州にこの代表者たちが集まって「南朝鮮人民代表者会議」を開いて代議員を選出して、翌9月の2日に始まる「最高人民会議」にこの代議員を送った、という経過になります。 「最高人民会議」は北朝鮮だけでなく南朝鮮でも選挙で選ばれた代議員で構成されたということになりますから、自らを「全ての南北人民を代表する」と主張したのでした。

 9月8日にその最高人会議で、憲法は全ての朝鮮で施行されると宣布して、政府の樹立と首相推戴を決めたのでした。 この経過からすると、朝鮮民主主義人民共和国の建国は9月8日です。 ところが北朝鮮では建国日を翌日の9月9日にしています。 これは何故か?

「審美的な歴史歪曲」の最初の事例

北朝鮮の公式の歴史では、捏造された記念日がいくつかある。 例を挙げると、朝鮮労働党は1945年10月10日に設立されたとあるが、実際はそうではない。 また北朝鮮当局は金日成が1932年4月25日に「朝鮮人民革命軍」を創建したとするが、実際にこんな組織は存在したことがない。 あるいはまた金正日の公式の生年は1942年と知られているが、彼は実際には1941年に生まれた。

 確かに北朝鮮の定める記念日には、疑問点が多いです。 論稿はそれを「審美的な歴史歪曲」としています。 分かりやすく言えば、“語呂がいいように日付を変えた”という意味です。 語呂合わせですから、「審美的」と言えばそうかも知れません、

「9月9日 建国論」は、これらの捏造記念日のうちでも一番早くに作られたものだ。 この捏造は、北朝鮮の「審美的な歴史歪曲」のうちの最初の事例である。 これは数字の9・9の視覚的・聴覚的な美しさを浮き彫りにする意図だった。 これによって北朝鮮の建国節はブルガリア人民共和国の国慶日である「解放の日」と同じ9月9日になった。 

以降、同じやり方で朝鮮労働党の創建記念日である「10月10日」も捏造され、また金正日の生年はやはり金日成と30年間隔を維持するために1941年から1942年に捏造された。 金日成が生まれた年である1912年と確かに30年間隔だ。 これは北朝鮮政権が歴史的事実を尊重するよりは、審美的目的のためにも歴史歪曲を正当化していることをよく表している。

 国家の記念日を語呂合わせで定めたということです。 本当か?と疑問に思う人がいるでしょう。 残念ながら、北朝鮮ではあり得る話と言わざるを得ません。

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056

金正恩10・7演説「韓国を攻撃する意思はない」(1)2024/10/15

 金正恩が10月7日、創立60周年を迎える国防総合大学を祝うために訪問し、演説をしました。 そのなかで「韓国を攻撃する意志はない」という発言があり、翌10月8日付けの労働新聞に掲載され、「ハンギョレ新聞」等の韓国メディアが報道しました。 https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/1161475.html 

 一体どんな演説だろうかと思い、労働新聞の当該記事を探しました。 http://www.rodong.rep.kp/ko/index.php?MTVAMjAyNC0xMC0wOC1OMDAyQA 長文の演説文で、その中に確かに「我々は正直言って、大韓民国を攻撃する意思が全くありません」という文言がありました。 この一文だけを見ると、まるで平和共存を言っているように思えます。

 それではこれが一体どういう文脈の中で出てきたのかを見るため、翻訳してみました。 長文になり、また感情のこもった北朝鮮独特の修飾語ばかりの言葉が続きますが、その中にその文言が出てきます。 どういう考え方でこういう文言が現れるのか、実際に読んで確認する翻訳作業です。

 翻訳は「韓国を攻撃しない」が出てくる部分の前後を含めて、全体の4分の1程度です。 直訳したところが多く、また北朝鮮独特の表現もありますので、意味がちょっと不明のところが出てきますが、飛ばして読んでくれてもある程度意味は分かるでしょう。

敬愛する金正恩同志におかれまして  金正恩国防総合大学を祝賀訪問なさって述べられた演説 (10月8日付け『労働新聞』)

同志たち!

国防総合大学は自尊、自立の強国を粘り強く支える革命工業の栄光の過去と今日を作り上げただけでなく、これからの永遠な勝利を建設する戦略的堡塁です。 ここは気持ちのいい校庭ではなく、尖鋭な戦場に他なりません。

同志たちが相手にしている敵は滅亡する瞬間まで反共和国敵対意識を変えない徹底した反共勢力であり、高度に発展した軍事科学技術と軍需工業、世紀を継ぐ戦争史を誇る帝国主義侵略実体です。 反共と戦争に命をかけている侵略の元凶とその家来たちは、汚らしい命が絶たれる時を感じるほどに更に発狂的に出てくるものであり、自分の最後の力がすっかり消耗する時まで突っ走ります。

去る10月1日、大韓民国の執権者たちがあの何と《国軍の日》という行事をやって、凶妄で浅薄な文をだらだらと読み、非正常的な事由を満天下に晒して見せたことを見てもそうであります。 傀儡政府は、あの《核心的国政課題》といって推進してきた《戦略司令部》が発足されたことに特別な意味を付与しながら、《ついに》自分たちを《先端在来式戦略とアメリカの拡張抑制能力が統合》されたと力説しました。

 南朝鮮を「大韓民国」と正式名称と呼んだかと思うと、「傀儡」と呼んだりします。 この落差が、やはり分かりませんねえ。

ろくな戦略武器一つないことが、ご主人様の核を借りて見せかけの《戦略司令部》を作り、それを《核心部隊》《国防戦略の大幅強化》だと持ち上げて、後には40年ぶりにアメリカの最新鋭戦略核潜水艦が韓国に入り、戦略爆撃機が初めて着陸したことについてくどくどと言い訳し、ご主人様と野合して地域情勢を故意的計画的に悪化させてきた彼らの行為を自画自賛の中でそのまま自認しました。

力の劣勢に対する強迫観念と、我が国家に対する病的な被害意識から出発し、苦労して虚勢で組み立てられた《記念の辞》というものをよくよく見ると、核に基盤を置く軍事ブロックで変異した《韓米同盟》に依存して、我々との力の均衡を何が何でも維持しようという愚かな心算です。 同志たちも敵がどんな敵なのか、直ぐに知っておかねばならないだろうと私は言うのです。

 韓国と米国との同盟に対する批判です。 批判するための言葉を選んで使ったみたいで、“結局、中身は一体なに?”ですね。

尹錫悦も記念の辞で、共和国政権の終末について浅薄で卑しい妄言を吐き出しましたが、ご主人様の《力》に対する盲信に完全に深く溺れています。 同志たちも新聞報道を通して見たでしょうが、これに対して私は何日か前に私の見解と立場を明らかにしたところです。

賢明な政治家であれば、国家と人民の安全を放っておいて調子に乗るのではなく、核国家とは対決や対立より、軍事的衝突が起きないように状況管理の方に力を入れるのです。 それが自国の安全のためにも絶対に正しい選択であり有益な取り扱いであるためです。 そのようにすることが正に政治家としても老練で巧みな資質と手腕です。

ところでソウルでいま湧き上がっている声はどうでしょうか? あの人間が核保有国の門前で軍事力の圧倒的対応を云々しましたが、その光景を見ながら世間が何だと言うでしょうか? 珍しく度胸一つ見せて、何だかんだとこのように褒め称えるのでしょうか? そうでなければ何か愛国名将にでもなるというのでしょうか? たとえ悠久の歴史になかった無敵の名将が出現するとしても、核と在来式戦力の格差を克服する秘訣を引き出すことができないのです。

大韓民国が安全に暮らす方法は、我々が軍事力を使用しないようにすればいいのです。 方法はこのように簡単です。 我々を常に苛立たせないように、我々を差し置いて《力自慢》をしなければいいだけですが、そんな簡単なことができる偉人はソウルにいないようです。

 韓国の尹錫悦大統領は“北朝鮮を恐れない”ということで自国の軍事力を誇ったのですが、それに対する批判です。 韓国を国家と認めながら、このようなちょっと品のない表現を使うのは、やはり北朝鮮です。 (続く)

金正恩10・7演説「韓国を攻撃する意思はない」(2)2024/10/20

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/15/9724192 の続きです。

我々は正直言って、大韓民国を攻撃する意思が全くありません。 意識することすら鳥肌が立ち、あの人間たちとは向かい合いたくもありません。

以前の時期には、我々があの南の解放という声も多くあって、武力統一とも言いましたが、今は全くこれに関心がなく、二つの国家を宣言してからは更にもっとあの国を意識することもありません。ところで問題は、ひっきりなしに我々を苛立たせていることです。

 ここで「韓国を攻撃する意志はない」という言葉が出てきました。 今まで「南の解放」「武力統一」と言ってきたが、もう韓国を「意識することはない」から「攻撃すらもしたくない」ということです。 そうであるのに韓国はごちゃごちゃ言ってきて、「我々を苛立たせる」というわけです。

我々は最近の我が国家周辺の情勢環境を鋭く注視せねばなりません。 ありもしない脅しを《抑制》するという妄念にとらわれて、《韓米同盟》という核を基盤とする同盟に変異させて武力増強に熱を上げながら、狂的に繰り広げる米帝と傀儡の戦争騒動と挑発的行動は、いつ朝鮮半島で力の均衡が崩れるかも知れないという危険性を内包しています。 自分たちの軍備拡張と軍事行動は正当で防御的性格であり、我々の該当する活動は危険で挑発になるという非論理的で変態的な理由がまさに米帝と手下たちが声を上げている盗人猛々しい主張です。

 イヤでイヤでたまらない韓国が、米国と同盟して我が北朝鮮を挑発し、戦争を企んでいるということですね。

朝鮮半島で戦略的力の均衡の破壊は、すぐさま戦争を意味します。 正にそのために、敵をいつも抑え込んで情勢を管理できる物理的力を持たねばならないという我々の自衛国防建設論理は、針を通す隙間もなく完璧で正当です。 軍事超強国、核強国へ立ち向かう我々の歩みは更に早くなります。 韓米軍事同盟や傀儡たち自らが言うように核同盟へ完全に変異された現時点で、我が国の核対応態勢は更にもっと限界のない高さまで完備しなければなりません。

 韓米同盟が核を保有する我が北朝鮮を攻撃してもすぐさま完璧に対応するぞ、というのです。

話のついでに指摘しておくと、去る10月4日、国連事務総長代弁人は我々に《修辞の水位を低めることを望む》と要請してきました。 このような要請がソウルにも伝えられたのか不分明ですが、この席を借りて再び強調することは私の発言を世の中が聞こうとするなら直ぐに聞かなければならないことです。 私は明らかに、そして一貫して軍事力使用に関する我々の立場を鮮明にするたびに《万一》という前提をつけました。その《万一》という仮定のもので、我々の憲法は我が軍に厳格な命令を下すのです。

敵たちが我が国家を、反対する武力使用を企図するならば、共和国武力は全ての攻撃力を躊躇なく使用するのです。 ここには核兵器使用が排除されません。

 ここで北朝鮮は「万一の仮定」と言いながらも、核兵器を使用するぞと脅していますね。

また何度も強調するところですが、そんな状況で生存に希望をかけることは無駄なことであり、幸運も《神の保護》も、大韓民国を守ってやれないのです。 これは国連が言う修辞的水位に関する問題ではなく、明らかに実地行動的警告です。

我々の前には、世界最大の核保有国と一緒にいじり回そうとする一番奸悪な傀儡があります。 このような環境下で我々の見解と選択、決心は絶対に変わることがありません。 敵は軽挙妄動をしてはなりません。 敵たちは我々の警告をいつものように間違って聞けば、更に凄絶で酷毒な対価を払うようになるということを深く噛みしめなければならないのです。

現在、我々が保有する絶対的力は、実地の戦争を抑制し平和を守る使命を責任もって遂行しています。 どんな勢力も、朝鮮民主主義人民共和国に反対する軍事力使用と軍事力間の衝突という選択はできません。 しかし敵たちが《核同盟》を武器に力の優位を占め、戦略的形勢をひっくり返そうと足掻けば足掻くほど私たちは国防科学と工業の継続的な跳躍を成し遂げ、自衛の戦争抑制力を無限大に強化していかねばなりません。 我が党と共和国政府は、朝鮮半島で力の均衡が破壊されることを少しも許容しないのです。

 我が北朝鮮を挑発・攻撃しても無駄だ、返って痛い目に遭うぞ、という意味ですね。

 以上で、金正恩の「韓国を攻撃する意志はない」という言葉がどういう話の流れのなかで出てきたのかを見てきました。 要は、韓国なんか顔も見たくないほどに嫌いだ、しかしその韓国が“自分はこれだけ強い”と力自慢をしている、これに対して核強国の我々は黙っていないぞ、けれど韓国が黙って大人しくしていればこちらから攻撃はしない、という主張のようです。

 今月、韓国が無人機を平壌に飛ばしてビラを撒いたとして北の金与正が「惨事が起きるぞ」「宣戦布告とみなすぞ」と報復の警告を発し、金正恩は「主権が侵害される場合、我々の物理力がためらわず使用される」と宣言しました。 おそらく、“韓国を攻撃する意志はないとせっかく言ってあげたのに無視しやがって、見てろよ”ということなのでしょう。 本気なのか虚勢なのか分かりませんが、“我が国は核武装と軍事強国で相手に恐怖を与える”という路線に変わりがないみたいです。 (終わり)

【拙稿参照 ―労働新聞】

金正恩2024年1月15日施政演説(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/30/9654884

金正恩2024年1月15日施政演説(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/03/9656008

金正恩2024年1月15日施政演説(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/07/9657120

金正恩の2024年1月15日施政演説(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/11/9658152

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/04/9607167

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/08/9608146

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(5) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/12/9609128

今日は「太陽節」-朝鮮総連に教育費2億7千万円 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577360

韓国のドイツ風住宅2024/10/27

 今から10数年ほど前、韓国の新聞に「ドイツ風住宅」の広告が載ったことがあります。 都会からちょっと離れた田園風景の土地で、第一期として何軒かの建売住宅を販売するものでした。 ですから最終的には十数軒か何十軒かの団地になるようでした。

 ところで、なぜドイツ風なのか? 韓国では何かドイツ文化が流行しているのかとも思いましたが、そんなことはありませんでした。 ですからその時は、一風変わった住宅をアピールする宣伝戦略なのだろうと思いました。

 それから何年かして、『国際市場で逢いましょう』という韓国映画がヒットしました。 家族を守り支えるためにベトナム戦争などの戦乱を体験し、ドイツに出稼ぎに行ったりした男の物語でした。 ここにドイツが出てきます。

 軍事政権時代だった1960年代後半~70年代前半、貧しかった韓国ではドイツ(当時は西ドイツ)への出稼ぎ労働者が募集されていました。 男なら炭鉱夫、女なら看護助手です。 映画の主人公は男でしたからドイツの炭鉱に行ったのですが、同時に募集された女性は看護助手としてドイツの病院・療養所等に行きました。 そして彼らは何年か働いて稼ぎ、契約が終わると韓国に帰ってきました。

 映画では韓国に帰ってその後の物語に続くのですが、実は一部の韓国女性がドイツに残ったのです。 看護助手は看護師の補助作業で、患者の身の回りの世話をします。 一番大変なのが沐浴や排せつの世話ですが、韓国から来た看護助手らは小さい身体で大柄なドイツ人患者らを嫌がらずに誠心誠意で世話をしました。 そうすると患者の息子たちがその姿を見て感動し、惚れ込んで求婚したそうです。

 詳しい数は分かりませんが、看護助手の韓国女性がドイツ男性と結婚した例がかなりあったと聞きました。 その結婚式には韓国の家族が参加できず、男性側は家族・親戚等大勢だったが女性側はごくわずかの友人のみ、という式だったそうです。 その時、花嫁は韓国の母親から送られてきた韓服を着たそうです。

 また韓国の家族のためにまだまだ儲けねばならないと新たな在留資格を取ってドイツに残ったり、同じく派遣された男性炭鉱夫と結婚してドイツにそのまま定着した女性もいました。

 それから数十年が経ち、彼女らは老境とともに望郷の念が募り、韓国へ帰ろうとする動きが出てきたのです。 冒頭の「ドイツ風住宅」というのは、そういった彼女たちのための家だったのです。 更にそれがこれまでの韓国にはないモダンでシャレた住宅ということで、ドイツとは関係のない韓国人にも需要が出てきたようです。

 韓国の新聞の載った建売住宅の広告なんて本来はどうでもいいことなのですが、その背景をちょっと調べると、韓国現代史の新しい知識を得ることができました。 雑学でも知識が広がれば、興味がさらに深くなりますね。