小松川事件―民族問題を絡めてはならない(2)2024/11/08

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/03/9728638 の続きです。

彼の抑圧され続けた在日朝鮮人としての苦しみと怒りは、それとして十分に認められるとしても、それらはすべては殺人という行為の瞬間には、性欲という原始的衝動の前に著しく重みを失い、行為の後、おのが行為を自他に分析し、説明し、弁明するにあたって、初めて注目され、重みを回復し、必要以上に幅を利かせ始めるのです。 そのことはR(李珍宇)自身の、行為の理由についての発言の“どうもよく分からない‥‥自分でも‥‥”というところや、また特に被害者がその犯罪時に、果たして絶対に日本人であって同胞でないという確認などを一切していないこと、要するに性欲のはけ口としての<女>でありさえすれば、それで十分であったらしい事からも十分にうかがわれるところです。 (加賀乙彦『ある死刑囚との対話』弘文堂 1990年3月 74~75頁)

 「彼の抑圧され続けた在日朝鮮人としての苦しみと怒りは、それとして十分に認められるとしても」は、李珍宇と何度も往復書簡を繰り返した朴壽南が李に民族意識を持たせようと説得したり、日本の知識人たちが「李少年をたすける会」という支援組織を作って世間に訴えた民族問題を指しているようです。 しかし正田は、そんな民族問題は「殺人という行為の瞬間、性欲という原始的衝動の前に著しく重みを失う」と主張します。 つまり李珍宇は民族とは関係なしに「性欲のはけ口としての女」でありさえすれば誰でも襲ったであろうと正田は言うのですが、その分析は正しいと考えます。 

 ところで李珍宇は第二審判決の6カ月後に、事件を起こした心境について、支援者で往復書簡を交わした朴壽南に次のような手紙を送っています。

私は二つの事件を起こしましたが、あのまま捕われなかったなら、機会あるごとに更に人を殺したことは確かです。 私が捕われてから、何の後悔も見せず、むしろ快活に振る舞ったことは、少なくとも故意ではなく、それは自然でした。 何故なら、私は自分の罪に対して何の後悔も感じていなかったからです。 私は人を殺したことについて何の後悔も感じませんでした。 私は捕われてからも、もしも自分が社会に出たら、また人を殺すかも知れない、ということを感じていました。

第一に、私は人を殺すということについて、何の感動もないのです。 この本性、これは今の、現在の私の心に相変わらずあるのです。 理性、心を考えに入れず、人を殺すという行為そのものを見る時、現在の私は、以前と同じように、それを容易に為し得るという本性を感じています。

‥‥親思いの私も、この本性には打ち勝てませんでした。 私が罪を犯さないのは、その機会がないからかも知れません。 あるいは親を悲しませたくないからかも知れません。 あるいは窮屈な刑務所に入りたくないからかも知れません。 とはいえ、私の本性はそれによって何にしても、無感動なこの本性にたいして堪らない憎しみを感じています。 私は被害者のこと、家の人たちのことを思って涙を流しました。 しかしそれは、ただの涙で、私の本性は無関心です。 (以上、朴壽南編『李珍宇全書簡集』 新人物往来社 昭和54年2月 192頁)

 李珍宇は「本性」という言葉を使っていますが、“強姦殺人衝動”という意味のようです。 その“衝動”が一旦湧き上がると、そのまま実行するだけで、そこには「後悔」も「理性」も「心」もなく、「無感動」「無関心」であり、涙を流してもそれは「ただの涙」にしか過ぎない、ということです。 李が事件は「夢」のなかで行なわれたと語った中身は、これだったようです。 そしてそれは、今でも殺人が「容易に為し得る」「社会に出たらまた人を殺すかも知れない」という「本性」なのです。 

 極悪事件犯罪者の心境というのは、こういうものなのでしょうか。 ここは犯罪心理学などの専門家の意見を聞きたいところです。

 しかし李珍宇の犯罪は民族問題(―朝鮮語を知らない)に起因するものだとする主張があります。 在日作家の高史明さんです。 彼は次のように言います。

李珍宇には大きな共感を持ちました。 彼は母親が聾唖者でコミュニケーションが成り立たない。 父親は日雇い労働者で家庭内教育などできない。 言葉を知らないで育った人間がアイデンティティ表明しようとすれば、他者を殺すしかなくなる。 彼は自分の殺人があったか否かを新聞社に電話して確認しましたね。 私なりに言うと、彼はそこまで自らを喪失した者だった。 ‥‥私の彼への共感は言葉を持たない者の次元です。 それに彼の犯罪は民族差別の歪みだけによるのではなく、歴史的、社会的な人間存在総体の奈落によるものと思います。 (『ルポ 思想としての朝鮮籍』中村一成著 岩波書店 2017年1月 11頁)

 李珍宇は学校の成績上位者で短編小説を書いていたといいますから、日本語は自分の心情を文章化できるほどに十分にできたと思われます。 ですからここで「言葉を知らない」というのは、民族の言葉である朝鮮語を知らないという意味になります。 つまり李珍宇は朝鮮人なのに朝鮮語を知らないから「アイデンティティ表明しようとすれば、他者を殺すしかなくなる」というのが高史明さんの分析です。 しかしこんなことで強姦殺人事件を起こすものなのですかねえ。 あるいはひょっとして、高さん自身が朝鮮語を知らないために「他者を殺すしかなくなる」という心境になった経験があるという意味なのでしょうか。 どうも理解できないところです。

 また高さんは、「彼の犯罪は民族差別の歪みだけによるのではなく、歴史的、社会的な人間存在総体の奈落によるもの」とも分析していますが、李個人の責任を問わないで、犯罪の原因を社会や歴史に求めているように思えます。

 私は、小松川事件は人間として許されない凶悪犯罪であり民族問題に絡めるべきものではなかった、と考えます。 問題にすべきことは、犯行時少年だった者に死刑判決を下し、執行したことが妥当なのか、という点でしょう。 (続く)

小松川事件―民族問題を絡めてはならない(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/03/9728638

コメント

_ 海苔訓六 ― 2024/11/08 13:23

高史明さんがそのような分析をしていたというのは知りませんでした。
野村進「コリアン世界の旅」の最終章で新井英一さんを分析していた箇所は鋭いな、と思いましたが、今回の分析はバイアスがかかってるな、と感じます。

ちなみに蛇足ですが引用の「私が捕われてから、何の公開も見せず」という箇所は公開は後悔だと思います。

_ 辻本 ― 2024/11/08 14:28

間違いのご指摘、ありがとうございました。
訂正しました。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック