木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 ― 2025/01/06
昨年(2024)の朝鮮半島は大きく揺れましたね。 ①1月、北朝鮮が「韓国は敵だ」として統一を放棄。 ②11月、北朝鮮軍がウクライナ―ロシア戦争に参加。 ③12月3日、韓国の尹大統領が非常戒厳令を宣布したことに端を発して、韓国の政局が大混乱。 この余波はまだまだ続くようです。 ④12月29日、韓国の務安空港で飛行機事故により179人死亡。 朝鮮半島は激動の時代を迎えているようです。 目が離せませんね。
そんなことはともかく、拙ブログを続けます。 木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)を購読。
全斗煥は韓国では非常に評判が悪いですが、大統領時代にソウルオリンピックを誘致し、北朝鮮からの露骨な妨害に耐え抜いてオリンピックを成功へ導き(ただし開催前に退任)、韓国経済の高度成長を持続させ、そして韓国の世界的地位を高めて次の盧泰愚時代にソ連・中国等との国交樹立に繋げるなどの業績は評価せねばならないと考えています。
全斗煥 元大統領 死去 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/23/9442532
全斗煥政権がオリンピックを誘致し成功に導いた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784411
全斗煥の功績 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/13/8787078
オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778939
ところで木村幹著『全斗煥』を読んで、全斗煥について私の知らなかった事実を多く知ることができました。 今はこれらのうち、私が全斗煥について思い込んでいたことがこの本によれば実は違っていた、ということを書きたいと思います。
1979年12月の粛軍クーデターで韓国全軍を掌握した全斗煥は、翌年5月17日に非常戒厳令の拡大や金大中ら有力政治家の逮捕など、軍がすべてを支配するというクーデター(5・17クーデター)を起こしました。 これに対し光州では学生らが反発して軍部隊と衝突したのが1980年5月18日の光州事件(「5・18光州民主化運動」と呼ばれる)です。
この5・17クーデターについて全斗煥は、“北朝鮮が戦争を仕掛ける”という情報があったということを理由としました。 私は、“それはあり得るだろう、北朝鮮と長年に渡って対峙してきた韓国軍なのだから北朝鮮情報は確かだろう”と思っていました。 ところがこの本では次のように記されています。
(1980年)5月10日午前、日本の内閣情報調査室から極秘の情報が来た、と全斗煥の『回顧録』は記す。 彼によればその内容は以下のようだった、という。
「北朝鮮は、韓国政府が1980年4月中旬、金載圭を処刑すると予想していた。 そして金載圭処刑時に激しい抗議デモが発生し、決定的な機会が訪れると判断し、南侵の時期を4月中旬頃に予定した。 しかし、金載圭の処刑が遅れたことにより、この計画を延期し、5月に入って学生と労働者の騒乱が激化すると、北朝鮮は韓国国内の騒乱事態が最高潮に達すると予想される1980年5月15日から5月20日の間に、南侵を敢行することを改めて決定した。」
全斗煥はここから「情報を分析した結果」北朝鮮が仕掛けてくるのは、正規戦ではなく非正規戦だと判断した、と『回顧録』に記述する。 即ち、北朝鮮の正規軍が休戦ラインを肥えて侵攻するのではなく、学生運動や労働争議に紛れる形で韓国国内に浸透し、韓国政府を転覆させようとするのだ、というのである。 (以上 木村幹『全斗煥』ミネルヴァ書房 2024年9月 167~168頁)
つまり北朝鮮が南侵するという情報は韓国軍が探知したものではなく、日本から、しかも内閣情報調査室から提供されたものだというのです。 北朝鮮軍事情報を韓国軍が知らないで日本が先に知っていたなんて、常識的に言ってあり得ないです。 しかも自衛隊ではない内閣情報調査室が韓国軍に直接通報したとなると、これは更にあり得ないです。
この北朝鮮情報を知らされた韓国の野党政治家は、アメリカに本当かどうか問い合わせます。
しかし、政治家たち、とりわけ野党の政治家たちは‥‥この「情報」と「分析」を信じなかった。 野党党首の金泳三は即日、アメリカ大使館を訪問し、ここから韓国政府の伝える北朝鮮の韓国侵略説は妄説だとする情報を得た、と発表した。 慌てた全斗煥は、翌5月13日、米韓合同司令部を訪問し、この点を確認しようと試みるも、アメリカ側の反応は、「米韓合同司令部は北朝鮮による侵略がひっ迫しているという情報は持っていない」という突き放したものだった。 (同上 168頁)
アメリカは“北朝鮮が侵略する”という情報を否定したのでした。 とすると日本の内閣情報調査室から提供されたとする情報は本当なのかという疑問が出てきたはずと思うのですが、全斗煥は突っ走りました。
(5・18光州事件前日の)5・17クーデターについて、全斗煥は次のように述懐する。(『回顧録』)
「韓国への侵略という内容の極秘の情報を受け取った私は、学生たちの抗議行動が流血事件を引き起こし、野党勢力が最終通牒を政権に突き付ける状況に至り、この極端な社会不安が北朝鮮の誤った判断を引き起こす可能性があると考えた。 また、中央情報部長署理と保安司令官を務める立場から、国家の危機を収拾するため、自ら積極的な役割を果たさなければならないという責任感を再確認せざるを得なかった。 日本を通じて入手した極秘の情報は、韓国への侵略を決定した北朝鮮が、とりわけ大学での紛争を「導火線」として利用するという内容のものであり、北朝鮮による挑発と大学での紛争はもはや切り離せない関係になっていた。」 (以上 186頁)
「日本を通じて入手した極秘の情報は、韓国への侵略を決定した北朝鮮が、とりわけ大学での紛争を『導火線』として利用するという内容」というのは、軍事同盟国でもない日本からの情報ですから本来は確認を取らねばならないところだったでしょう。 しかし全斗煥はそんなことをせずに5・17クーデターを起こしました。 そしてこれが翌日の光州事件(5・18光州民主化運動)へ繋がっていったのでした。 ですから全のクーデターの口実に、日本が利用されたということです。 とすると、「日本を通じて入手した極秘の情報」というのは誤情報というものではなく、最初から捏造だったのではないかという疑問が生まれます。
光州事件について私は、“北朝鮮の侵略に韓国内の学生らが呼応しようとしていたから、全斗煥が危機意識を持って韓国軍を動員して対処しようとしたところ、市民が反発して事件が起きた”と思っていたのですが、それは間違いだったようです。 全斗煥はクーデターを起こして権力を掌握する際の口実に、“日本から北朝鮮侵略情報が通報された”という話を捏造したのだろうと思われます。 私の韓国現代史の知識を改めねばならないところです。 (続く)
【光州事件に関する拙稿】
光州事件は民主化運動として普遍化できるのか? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/25/8859204
光州事件の方がましだった―朝日ジャーナル(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/20/8772995
光州事件のほうがましだった―朝日ジャーナル http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/15/8769881
「5・18光州事件」小考 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/25/8712337
1970~80年代の韓国民主化連帯闘争 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/01/16/5639024
木村幹『全斗煥』(2)―歴史問題は中曽根訪韓から ― 2025/01/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027 の続きです。
日本と韓国は歴史問題でこれまでずっと摩擦を続けてきたし、これからもなかなか収まりそうもありません。 ところで日本側の認識では1965年の日韓条約で歴史問題は「最終的かつ完全に解決」としてきたのですが、韓国側ではくすぶり続けてきました。 歴史問題が日韓の外交問題に浮かび上がったのは、全斗煥大統領の時からです。
全斗煥大統領は1984年に日本を国賓訪問した時、天皇から植民地支配を謝罪する言葉が欲しいと要求し、すったもんだの末、宮中晩さん会の際の天皇陛下が挨拶に「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と述べたことで一旦は決着しました。
しかしその次の盧泰愚大統領が国賓訪問した際、韓国側は前の全大統領の時よりも〝さらに一歩踏み込んだ謝罪“の言葉が欲しいと要求し、これもすったもんだの末、天皇陛下は「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません」という言葉を述べました。 これで歴史問題は決着してもう問題化しないと思いきや、その後の慰安婦問題等々で、日韓関係は泥沼状態からなかなか抜け出せずに今に至っていることは周知だと思います。
以上の経過から、日韓の歴史問題の原点というか出発点は1984年9月の全斗煥大統領国賓訪問の時であると、私は思ってきました。 しかし木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)によれば、出発点はそれより以前にあるということを知りました。
日本の現職首相の韓国訪問は‥‥1983年1月の中曽根康弘による訪問が初めてであった。 ‥‥ここで今日の日韓関係にまで繋がる大きな出来事がひとつあった。 それは韓国側が首脳会談において、中曽根からの「過去の反省」の言葉を求めたことである。 結果、中曽根は晩さん会の場で次のように述べている。
他方、日韓両国の間には、遺憾ながら過去において不幸な歴史があったことは事実であり、我々はこれを厳粛に受け止めなければなりません。 過去の反省の上にたって、わが国の先達はその英知と努力によって一つ一つ新しい日韓関係のいしずえを築いてこられました。
会談終了後、全斗煥は韓国国会にてこの首脳会談を次のように評価している。
日本首相のわが国への初の公式訪問を通じて両国政府は、昨日を反省し、明日を設計するについて志を同じくした。‥‥
今日において重要なのは、ここにおいて韓国側がこの首脳会談を本来の目的であった「経済協力」問題や朝鮮半島の平和と安定について議論することに加えて、「過去の不幸な歴史」を巡る問題を解決するものとして明確に位置づけ、また日本側の「反省」を求めたことである。 李承晩や朴正熙が訪日した際に行われた首脳会談では、韓国側は同様の「反省」を求めてはいないから、ここに大きな変化が存在することが分かる。 (以上 『全斗煥』 255~256頁)
1983年1月に訪韓した日本の中曽根首相は、韓国側が「過去の反省」を求めてきたのに応じて、「過去において不幸な歴史があったことは事実であり‥‥過去の反省の上にたって‥‥」と挨拶したのでした。 このような日韓間のやり取りが起きた背景には、前年8月にいわゆる教科書問題(「侵略」を「進出」に書き換えた)で日本が中国や韓国から批判を浴びた事件がありました。 これがあったからこそ、日韓首脳会談で歴史問題について韓国側が要求しそれに日本側が応じたという経過になったのです。 歴史問題が日韓首脳外交に取り上げられたのは、この時が初めてでした。
そして韓国側は中曽根首相の「反省」の挨拶を外交的勝利ととらえたようで、翌年の1984年大統領国賓訪問時にも要求して天皇陛下の「遺憾」発言を引き出したと考えられます。 『全斗煥』では次のように記しています。
このような全斗煥政権の姿勢がさらに明確になるのが、この中曽根訪韓の塀例を意味をも込めた訪日においてであった。‥‥ 全斗煥が重要視し、また韓国の世論も注目したのが、戦前に大日本帝国の元首として朝鮮をも君臨した、昭和天皇自身からの謝罪の表明であった。 全斗煥の訪日は、韓国の国家元首として初の公式な国賓訪問であり、当然それを迎える歓迎晩さん会は、国際慣例上は元首格として扱われる天皇の主催によって行われる‥‥ そこでは天皇による歓迎スピーチが予定されており、韓国側はここに植民地支配に関わる文言が入ることを強く期待した。
日本側は抵抗した。‥‥天皇が過去の問題について自らの意見を述べるのは「天皇の政治利用の禁止」を定める憲法の規定に反する、と主張したからである。 しかし韓国側は天皇による植民地支配に関わる発言を執拗に要求し、結果、1884年9月6日に行われた晩さん会で昭和天皇は、「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と述べることになった。 (以上 256~257頁)
結局、日本側は韓国側の「天皇の謝罪」要求を受け入れました。 そして韓国政府はこれを了承したのですが、韓国のマスコミは〝これでは謝罪になっていない”と厳しく批判し、世論を誘導していきます。
韓国メディアの多くは昭和天皇が用いた「遺憾」という言葉は謝罪を意味しておらず、韓国側が要求した条件を満たしていない、と批判した (257頁)
韓国では歴史問題で日本に対する厳しい世論が盛り上がります。 この世論を背景に、日韓の外交では韓国側が要求し日本側が謝罪するという「パターン」が生まれました。
重要なのは、こうして日韓両国が二回の公式首脳会談を通じて、外交関係における歴史認識の重要性を再発見し、会談ごとに日本側が謝罪の意思を示す、という一つのパターンが出来上がったことである。 (259頁)
この「パターン」は全斗煥大統領時代に生まれ、継続・拡大していきました。 次の盧泰愚大統領では1990年の国賓訪日時に更に強く要求し、「痛惜の念」という天皇陛下の言葉を引き出したのです。 つまり韓国がより強い「おわび」の要求を日本にしたら、日本はそれに応じてより強い反省で答えたのでした。 このようにして韓国側は歴史問題で日本に要求し、日本側はその要求に応じるという外交「パターン」が定着しました。 韓国の大統領が替わるたびにこの「パターン」が繰り返されたのでした。
そしてついに、2012年には時の李明博大統領が「痛惜の念とかいう言葉で誤魔化すな」と天皇発言を否定し、「天皇は韓国に来たければ独立運動家に謝罪しろ」と言うくらいに激化しました。 さらにその次の朴槿恵大統領は2013年に、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と、1000年経っても解決しないとまで発言したのでした。
以上を振り返ってみると、〝日韓外交の失敗”は1984年の全斗煥大統領の訪日ではなく、それより前の1983年の中曽根康弘首相訪韓の時から始まったと言えます。
『全斗煥』を読んで、韓国現代史の知識を改めねばならないところです。 (続く)
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027
【日韓歴史問題に関する拙稿】
韓国で歴史問題が国内政治化したのは2003年から https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/21/9474297
韓国が対日請求権解釈を変えたのは1992年から http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/15/9472590
韓国では日本の存在感はない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/17/8789342
韓国の反日外交の定番 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/01/22/7546410
世界で唯一日本を見下す韓国人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/06/8216253
中韓は子供と思って我慢-藤井裕久 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/27/7157809
実は韓・中を見下している「毎日新聞」社説 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/02/19/7226754
毎日新聞 「“強い国”こそが寛容に」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/15/7344974
韓国を理解できるか https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/14/7572016
芥川賞「砧を打つ女」の李恢成が死去 ― 2025/01/14
1971年に「砧を打つ女」で芥川賞を受賞した李恢成さんがお亡くなりになりました。 合掌。
「砧」は在日社会では1960年代まで打たれていたのですが、廃れてしまいました。 在日女性が砧を打つ姿を記憶している人は、今は年齢では70歳以上でしょう。
私は1990年代に在日一世の方から、もう使わなくなった砧の道具をもらい、砧について調べ、論文を書いたことがあります。 これに関し、20年ほど前に某新聞のコラムで紹介されたことがありましたので、スキャンして掲載しておきます↑。 なお個人情報部分は空白にしましたので、悪しからず。 読みにくければスキャン画像をクリックして、ズームを調整してください。
拙ブログでも「砧」について新たな資料等を紹介しましたので、お読みいただければ幸甚。
【砧に関する拙稿】
砧(きぬた)―日本の砧・朝鮮の砧― http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
日本人に伝わった朝鮮の「叩き洗い」洗濯文化 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/07/9631945
砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618
砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008
砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894
砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/22/9308333
砧を頂いた在日女性の思い出(5)―宮城道雄(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/02/9312276
朝鮮で活躍した宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/05/6435151
「演歌の源流は韓国」論の復活 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/10/6285379
第66題 砧(きぬた) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai
第90題 朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai
第106題 砧 講演 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakurokudai
第107題 砧 講(続) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai
第108題 「砧」に触れた論文批評 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuhachidai
第109題 ネットに見る「砧」の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai
第114題 韓国における砧の解説 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku14dai
第115題 다듬이 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku15dai.htm
第118題 砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
北朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/22/2523671
砧という道具 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/05/2545952
韓国ロッテワールドの砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/11/5080220
韓国ロッテワールドの砧のキャプション http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/12/5082741
砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/05/6888511
角川『平安時代史事典』にある盗用事例 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485
「砧」と渡来人とは無関係 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192
「砧」の新資料(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/09/6655266
「砧」の新資料(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/10/6656721
「砧」の新資料(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527
「砧」の新資料(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/13/6659222
「砧」の新資料(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/14/6659970
「砧」の新資料(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/16/6661166
佐藤春夫の「砧」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/05/8008944
韓国の足踏み洗い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/18/1733824
韓国ドラマにおける洗濯場面 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/11/23/2453257
木村幹『全斗煥』(3)―反共主義で時代に取り残される ― 2025/01/19
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/11/9746259 の続きです。
木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)を読んで、それまで知らなかった韓国現代史の知識を多く得ることができました。 そのうち私が思い込んでいたものを訂正したことを、前回と前々回の拙ブログで紹介しました。 今回は全斗煥が有していた「反共主義」という思想について、この本で論じられていることに成程と思われたので紹介してみたいと思います。
先ずは子供時代の「共産主義」経験です。
全斗煥が(少年時に)暮らした大邱において重要だったのは、この街が「朝鮮のモスクワ」との異名を取った、左派勢力の極めて強い地域だったことである。 ‥‥ 全斗煥が中学校に入った頃の大邱では、左翼勢力の活動が依然続いていた。 多くの学校もその枠外ではなく、生徒たちをも巻き込んだ混乱が続いていた。 とりわけ全斗煥が入学した大邱工業中学校は将来の工場労働者を育成する機関であり、左翼勢力の影響力が相対的に強かった。 全斗煥は次のように回想している。 (22・25頁)
一中学校に過ぎない我が学校でも左翼分子たちによる扇動と暴力が頻発した。 理念や政治体制に敏感ではない学生たちはその様な学校の雰囲気に失望と憤怒を憶えざるを得なかった。 それは私自身も同じだった。 一部教師と上級生の中から飛び出す、授業ボイコットや反動教師の追放といった過激な言葉に、学生たちは混乱した。
ある日、左翼系列の責任者が化学の授業に乱入し、授業ボイコットを呼びかけた。 教室の外には左翼系列の上級生幹部10余名がゲバ棒を持って立っており、険悪な雰囲気が流れていた。 一部の学生はいち早く教室の外に逃げ出し、残る学生も恐怖心で息を殺していた。 私はこの状況に怒り、机を叩いて立ち上がり、左翼系列の上級生幹部に顔を向けて声を挙げた。 「俺たちの両親は苦労して学費を準備し、勉強をさせてくれている。 そうやって俺たちを学校に行かせてくれているのに、勉強しないなんて言うことがあっていいものか。 俺が責任を取るから、お前たちは安心して勉強しろ!」 (以上25頁)
このエピソードは、後に「テロの脅威の前に、あるいは命取りになるかも知れない恐怖の瞬間に、斗煥が見せた反共意識と胆力、そして筋の通った説得力はその後も長い間、校内の話題となった」と伝えられるほどのものでした。 従って全斗煥の「反共主義」の原点は、幼い時からの大邱での地域社会および学校生活での体験にあると言えます。
全斗煥は大人になって「反共主義」をさらに強化していきます。
彼の生涯において一貫しているのは、共産主義に対する敵意であり、‥‥ 陸軍士官学校に入学し、その「反共主義」を更に強化する。‥‥ そして士官学校卒業後、陸軍士官に任官した全斗煥は、この「反共主義」を自ら実践する機会を獲得した。 いち早くアメリカ式の特殊戦訓練を受けた彼は、その経験を生かして、北朝鮮からのゲリラを撃退し、ベトナム戦争で功績を挙げ、更には北朝鮮が掘った韓国内への進入用トンネルを発見して、朴正煕の寵愛を得ることに成功する。 事実、冷戦期においても、全斗煥ほどにこの時期の「共産主義」に関わる事件に、数多くの現場で遭遇した人物は稀である。その意味で、全斗煥は反共主義に影響され、反共主義の下で多くの機会を与えられ、そしてその結果、台頭してきた人物だということができる。 (334~335頁)
このように全斗煥は「反共主義」を強固にし、またそれによって世に認められた人物となったのです。 ところでこの「反共主義」の中身ですが、この本では次のように「現実的なものではなく、イデオロギー的なもの」と論じます。
全斗煥にとっての「共産主義の脅威」とは、現実のものというより、イデオロギー的なもの、そして休戦ラインを越えた「向こう側」にある、非日常的なものに過ぎなかった。 (336頁)
全斗煥にとってベトナム戦争への参戦は、憎き共産主義を最前線で葬るためのものというよりも、自らがアメリカで学んだ最新の戦術を実行し、現実の戦争を経験し、自らの軍人としての能力を向上させる為の場として理解されている。 (336頁)
同様のことは、これまた全斗煥が遭遇した1・21事件(1968年)、つまり北朝鮮ゲリラの大統領官邸襲撃未遂事件についても言うことができる。 この事件における彼の回想において顕著なのは、北朝鮮ゲリラの身体的能力に対する驚嘆であり、畏敬にも近い感情である。 そこには彼らを共産主義者として憎むのではなく、同じ軍人として優れた彼らと競い合い勝利したい、という思いに溢れている。 それはあたかも彼らを戦場での相手としてよりむしろ、スポーツ競技の相手として見るのに近い視点になっている。 (336頁)
彼(全斗煥)は二度のアメリカ留学を経験した。 このような全斗煥の経験は、朴正煕に代表されるような先立つ世代の将校の多くが、日本軍やその統制下にあった満州国軍の出身であったのとは明瞭な対照をなしている。 全斗煥が受けた陸軍士官学校第十一期生以降の教育も徹頭徹尾ウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)式に行なわれたものであり、彼らはそのことに強い誇りを持っていた。 (337頁)
当時は東西冷戦の真っ最中で、アメリカとソ連は激しく対立していました。 その対立は自由資本主義か社会主義(最終目標が共産主義)かのイデオロギー的なものであり、イデオロギー=観念であるからこそ、その対立は厳しく鋭いものでした。 全斗煥は共産主義の現実(経済的な行き詰まりなど)を見てではなく、当時のアメリカに学んでイデオロギーの「反共主義」を強めたのでした。 そしてそのアメリカは世界で、時には黒幕として反共謀略工作を行ない、時にはベトナム戦争のように公然と反共行動をしました。 前者の反共謀略工作として、この本では次を挙げています。
1953年のイランのモサデク政権崩壊や、1972年のチリのクーデター等、冷戦下の世界では自らの政敵に「共産主義者」のレッテルを貼りつけるシナリオの下、アメリカの支援を受けて行なわれた政変が数多く存在した。 (339頁)
1980年に全斗煥は、「反共主義」のためなら謀略も辞さないという、それまでのアメリカのやり方をまねて5・18光州事件を起こし、韓国を掌握したのではないか、と考えられます。 さらに全が大統領になって国内の民主化運動を弾圧したのも、この強固な「反共主義」の信念から来るものでしょう。
しかし1970・80年代になってデタント(東西緊張の緩和)が進み、アメリカは共産主義であってもその存在を容認する方向に変わっていきました。 すなわち、頭から相手を否定するようなイデオロギーではなく、現実をそのまま見て受け入れるようになり始めていたのです。 ところが全斗煥は反共イデオロギーに凝り固まっていたのか、そういう世界の変化についていけませんでした。
重要なのはそのような彼らが触れた「アメリカ」が、冷戦期における超大国の多様な社会における限られた部分でしかなかったことである。 だからこそ、1970年代に入り東西両陣営の融和が進み、アメリカ自身が「反共主義」的な外交政策を放棄する時代になると、全斗煥らの考え方や方針はアメリカと大きな齟齬を見せるようになってくる。 (337頁)
時代は既に1980年代に入り、「冷戦後」の時代へ向かっていたことである。 つまり世界は既に、かつてのような「反共主義」の名のもとに行なわれる露骨で剥き出しの政治工作を許容しない時代に突入していた。 (339頁)
全斗煥は政権が獲得した最大の成果であり勲章でもあった1988年ソウル五輪を守らねばならないために、「『反共主義』の名のもとに行なわれる露骨で剥き出しの政治工作を許容しない時代」のもと、国際社会の歓心を買うために、国内の民主化を認めねばならないというジレンマに陥ります。
全斗煥が憧れ学んだアメリカは、最後には彼の敵対勢力(金泳三や金大中などの民主化運動人士)を支える最大の脅威の一つとなったのである。 (338頁)
東西冷戦のなか、「反共」のためなら謀略も辞さないという昔のアメリカに学んだ全斗煥は、そのアメリカを含めて世界が変わっていっているのに、「反共主義」に固執したと言えるでしょう。 この本の最後では、次のように結論付けています。
冷戦体制が生み出した「反共主義の子」全斗煥は、時代が「冷戦後」に向かう状況の中、政権を獲得し、時代から取り残されていくことになる。 世界が冷戦に本格的に覆われたのは、長く見ても1945年から1990年までのわずか45年間。 その期間は、90年に及ぶ全斗煥の人生の半分に過ぎなかった。 「反共主義の子」がその人生を全うするには、冷戦は余りに短かった、のかも知れない。 (339~340頁)
全斗煥の前の大統領だった朴正煕は、日米欧から資本と技術を導入して産業を興す経済政策が大成功を収めて高度経済成長を実現し、それが今度は中国等の発展途上国の経済発展モデルになったという点で〝時代を先取り”しました。 しかしその次に大統領となった全斗煥は反共主義に固執して、「時代から取り残された」のでした。 全斗煥大統領の執政は大きな成果があったにもかかわらず、それをぶち壊すような過ちを犯した原因はここにありそうです。 (終わり)
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027
木村幹『全斗煥』(2)―歴史問題は中曽根訪韓から https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/11/9746259
【全斗煥に関する拙稿】
全斗煥 元大統領 死去 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/23/9442532
全斗煥政権がオリンピックを誘致し成功に導いた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784411
全斗煥の功績 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/13/8787078
オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778939
かつて「韓国に学べ」が叫ばれた時代があった ― 2025/01/26
二十年前の2000年代初め、日本では「韓国に学べ」が流行のように叫ばれたことがありました。 韓流ブームの契機となった「冬のソナタ」より前のことです。 これを覚えておられる人は少ないでしょうねえ。 例えば当時の雑誌などには「韓国をうらやむ日本人―エステから経済改革まで」とか「韓国人気で分かる日本の失ったもの」のような見出しをつけた記事があふれていたのです。
韓国では1997年にアジア通貨危機が襲来し、時の金泳三政権はIMF(国際通貨基金)に救済を要請して国家破産をかろうじて回避しましたが、経済は大不況となり、失業者があふれかえり、自殺者が急増する事態となりました。 金泳三政権を引き継いだ金大中大統領は規制の大幅な緩和などの各種政策を断行し、この危機を乗り越えて2年後の2000年頃には経済を回復させ、韓国は元気を取り戻しました。
その時の日本はバブルが崩壊して10年ほど低迷が続いていた時期で、「失われた10年(今は失われた30年)」と言われるくらいでした。 そういう日本で、「韓国に学べ」がまるで合唱するかのように叫ばれたのでした。
まず経済面ではIT革命です。 韓国はブロードバンド普及率が世界一で、「日本はITの分野で韓国に完全に追い抜かれた」などと言われたのです。 また韓国では政府が主導してクレジットカードを普及させ、それによって消費が増大し、好景気につなげました。 一方、現金での買い物が普通である日本は「遅れている」と決めつけられたものです。
政治面では、金大中大統領は2000年に北朝鮮の金正日総書記と首脳会談を持つなど、大胆に外交路線を変えました。 それに対して日本では、「韓国に比べてわが日本は‥‥」とか「日本とは余りにも志操が違い過ぎる」とか「韓国では希望に満ちた大変革が起きているのに、わが日本では何の変化の可能性も見えない」とか言われたものです。
また韓国では2000年に総選挙が行われましたが、その時に「落選運動」というのがありました。 これは市民団体が、選んではいけない立候補者を定めて落選させようと運動するもので、20人中19人を落選させるという大きな成果を収めました。 これを見た日本のマスコミや市民団体は「韓国は世界で最も先進的な民主社会になる」と絶賛し、「韓国の落選運動に学べ」と呼びかけました。
そして2001年に仁川国際空港が開港しました。 滑走路数など規模が日本の成田や関空よりも大きいハブ空港とされ、世界の航空業界は日本よりも韓国の方を重視するようになったと言われたものです。 韓国はアジアと世界を視野に入れた戦略思考を持っている、それに比べて日本はそんな思考が欠けていると評されていましたね。
そしてまた韓国では金大中大統領以降、死刑執行を行なっていません。 金大中自身が政治活動ゆえに死刑宣告を受けたことがあったことが関係したようで、死刑への拒否感があったものと考えられています。 このために死刑廃止論者たちは、日本は韓国に立ち遅れていると批判しました。 ちょっと前までは独裁国家とされていた韓国でしたが、今は死刑執行しておらず人権国家の仲間入りをした、日本は韓国に学ばねばならない、となったのです。
以上のように2000年代初め頃の日本では、ちょっと思い出しただけでこのような「韓国に学べ」という声が叫ばれたのでした。 そして2002年の日韓ワールドカップと2003年の「冬のソナタ」を契機とする韓流大ブームへとつながっていったのでした。
今の日本では信じられないでしょう。 つい数年前の文在寅政権時代、日本の雑誌には「韓国社会の『深刻過ぎる問題点』」とか「韓国の『最大危機』、いよいよ『アメリカから見捨てられる日』がやって来る」とか「平昌五輪と韓国危機」とか「サムスン共和国の崩壊が始まった」とかの見出しを付けていて、それが売れていたのですから。
「韓国に学べ」と仰ぎ見たかと思えば、20年経ったら見下す‥‥。 日本のマスコミさんは腰が据わっていないと言うべきでしょうが、それよりもそんなことに躍らされる日本人が情けないですね。