金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名 ― 2025/04/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006 の続きです。
⑥ 「流麗な日本語がしゃべれる」のに「いびつな日本語」
金時鐘さんが講演等でしゃべっておられる日本語は、私の知る在日一世の朝鮮訛りの日本語と違っているし、1970~80年代に韓国旅行中に出会った韓国人のお年寄りたちが話すきれいな日本語とも違っていて、私には違和感がありました。
彼は植民地時代、小学校(当初は普通学校、後に国民学校)で朝鮮語が禁止されるなかで日本語を徹底して教え込まれ、「皇国少年」としての日々を過ごし、さらに光州師範学校で日本語普及の教師になるための教育を受けました。(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 67頁) ですから読み書きはもちろんのこと、会話でも完璧な日本標準語を駆使できたはずです。
ところがそれから数十年経って、彼がしゃべる日本語を実際に聞いてみると、 そんな日本語ではありませんでした。 これについて以前に拙ブログで論じたものがあって、これを改変・追加して改めて論じます。
2019年6月8日付けの『ハンギョレ新聞』に、「在日70年は〝4・3への痛恨” 胸に秘めて生きてきた抵抗の歳月だった」と題する金時鐘氏取材記事があります。 https://japan.hani.co.kr/arti/politics/33623.html この記事の冒頭で、金さんは次のように発言しておられます。
「私の日本での〝在日”暮らしは、流麗で巧みな日本語に背を向けることから始まりました。情感過多な日本語から抜け出ることを、自分を育て上げた日本語への私の報復に据えたのです」
ここに「流麗で巧みな日本語に背を向ける」とあるように、きれいな日本語が使えるのに使わない、それが「日本語への私の報復」なのだそうです。
次に、2024年7月27日付の『毎日新聞』に、「詩人 金時鐘さん/下 祖国、民族、在日 日本語で書く」と題する連載記事があります。 https://mainichi.jp/articles/20240728/ddm/014/040/005000c (ただし有料記事です) このなかで金時鐘さんは、自分のしゃべる日本語について次のようにおっしゃっています。
「植え付けられた抒情は日帝(大日本帝国)の後遺症だ。 小野さんの作品と出合い『流されない言葉』への執着が生まれ、自分は何者か、民族、祖国とは何か、問い直しました」。 詩こそ人間の生き方そのものと気づき、「問い直し」は自分の内に巣くう抒情的な日本語を洗い流すことでかなうと考えた。 「流ちょうでない私のいびつな日本語は、日本語への報復です」
ちょっと以前のものでは、次のような発言もあります。
あくせく身につけたせちがらい日本語の我執をどうすれば削ぎ落とせるか。 訥々しい日本語にあくまで徹し、練達な日本語に狎れ合わない自分であること。 それが私の抱える私の日本語への、私の報復です。 (『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 29・30頁)
以上の三つの記事から言えることは、彼は元々「流麗で巧みな日本語」「練達な日本語」がしゃべれるのに「流ちょうでない私のいびつな日本語」「訥々しい日本語」をあえて使っており、それは「日本語への報復」だということです。 彼の口から出る日本語にかなりの違和感があるのは、彼が意図的に「いびつな日本語」「訥弁の日本語」を使っているからなのですねえ。 しかもそれが「日本語への報復」だというのは、どういうことなのでしょうか。
また彼は、「日本の支配から解放するために、日本語に報復する」とも言っておられます。 https://book.asahi.com/article/11576563
日本に渡ったことで日本語を使って生きざるをえなくなった私は、個人としての私を日本の支配から解放するために自らの日本語に報復する必要がありました。
「日本に渡って日本語を使って生きる」ことは即ち〝日本の支配を受け入れて日本語を使う”ことに他ならず、またそれを自ら選択したことになります。 そうであるのに何故「日本の支配から解放のために日本語に報復」となるのか? これも疑問となるところです。
日本という土地で、日本語ばかりの環境の中で、日本人(在日を含む)を相手に繰り広げる日本語作品の数々、そしてその作品を売って得る収入と生活。 それらの作品が毎日出版文化賞や大仏次郎賞などの日本の文学賞をいくつも受賞し、彼は今の名声と地位を築いたのでした。 ですから書き言葉の日本語は完璧です。 そうであるなら先ずは日本語への愛情と感謝から始まるべきだと思うのですが、そうではなく「日本語への報復」だとして、しゃべる言葉は「いびつな日本語」「訥弁の日本語」を敢えて使う‥‥。 なぜそうなるのか? 疑問ばかり出てきます。
近年、金時鐘さんを研究する論文がいくつか出ており、この「日本語への報復」が彼の思想の核心のように論じられています。 彼らは理解できるようなのですが、私には「日本語への報復」が〝ウケを狙った決まり文句“ように感じられて、違和感ばかりが残ります。
【拙稿参照】
金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285
金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635
金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790
⑦ 創氏改名の日本名は「光原」なのか「金山」なのか
金時鐘さんは、著作で記される思い出話では植民地時代の自分の日本名は「光原」だったとしています。 しかし玄善允さんという方が金さんの母校と思われる済州島の小学校を訪ねた時、1943年卒業者名簿に「金山時鐘」という名前を発見しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877 とすれば彼は「金山」と創氏改名したことになります。 彼の思い出話に出てくる「光原」とは違います。
これが指摘されて数年ほどが経ちます。 しかし金時鐘さんはこれにコメントすることはなく、また彼に関する記事を多く書いてきた各種マスコミもこれには言及していないようです。 果たして彼の創氏改名は「金山」なのでしょうか、「光原」なのでしょうか。
この文を書いている途中、金時鐘さんの創氏改名について、2018年5月28日付の5chで神戸新聞記事が取り上げられているのを見つけました。 卑猥な広告があって不快になるでしょうから、開く時はご注意ください。 https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/news4plus/1527492394/
私の近在の図書館にはローカル新聞のバックナンバーや縮刷版を置いておらず、確かめていないところです。 しかしここで出てきている金時鐘さんの発言は当時の彼の発言内容と一致しており、おそらく神戸新聞に掲載された記事は間違いないだろうと思います。
この中で彼はご自分の創氏改名について、次のように言っておられます。
創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に。
「金谷(かなや)」は「金山(かなやま)」の言い間違い(あるいは聞き間違い)と考えることが可能です。 一方の「光原」は姓ではなく名であり、しかも訓読みで「みつはら」となっています。 姓で「みつはら」ならまだ分かりますが、名が「みつはら」となると違和感が残ります。 これが創氏改名した日本名だというのなら、本当かな?という疑問を抱きます。 (続く)
金時鐘氏への疑問(1)―在留資格 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626
金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818
金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006
【創氏改名に関する拙稿】
第12題 創氏改名とは何か http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai
第30題 創氏改名の残滓 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai
第70題 創氏改名の手続き http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai
朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596
宮田節子の創氏改名論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557
民族名で応召した朝鮮人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817
民族名での人探し三行広告 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/24/7807103
辺見庸さんの創氏改名論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/06/1838919
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