金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)2025/04/23

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221 の続きです。

⑩	4・3事件で蜂起した南労党の軍事力

 4・3事件はどのように始まったのでしょうか。 金時鐘さんは次のように言います。

遊撃隊のみすぼらしいいでたちも目に焼きついて離れません。 捕えられて処刑された遊撃隊員は、誰彼なしにだぶだぶのパジを膝下までくくった屍体でした。 せめて戦闘服くらい着せてやりたい素朴な勇士たちでした。 竹やり、鎌、鉈で闘った、一揆の範囲をでない〝暴徒”たちです。 これを共産暴動と強弁して殲滅を図ったのですね。 米軍政の横暴と単独選挙に反対して、止むにやまれず立ち上がった農村の青年たちです。 (『金時鐘コレクション11』藤原書店 317~318頁)

 これにはビックリ。 世間では「島民の蜂起」なんていう言葉が広まっているからでしょうか、〝一般島民が怒りのあまり身近にあった武器で立ち上がった”というようなイメージがあるようです。 金時鐘さんも「止むにやまれず立ち上がった農村の青年たち」のように、そのイメージで語っておられます。 事件の当事者だから事実であるかのように思えますが、実は全く違うものです。

 南朝鮮労働党(南労党)は1948年3月15日に武装蜂起を決定し、準備した上で、4月3日を期して警察や右翼人士宅等への奇襲攻撃を始めました。 つまり4・3事件は先ずは南労党が仕掛けたものでした。 島民が「止むにやまれず立ち上がった」のではなく、武装蜂起し暴力闘争を展開した南労党に多くの島民が同調・協力したのです。 それでは武装闘争を始めた南労党の軍事組織である遊撃隊は、どれほどの武力を持っていたのでしょうか。

 軍・警(権力側)は南労党(反権力側)を鎮圧していく過程で、南労党の文書資料を押収していきます。 これを「鹵獲文書」といいます。 その文書によれば、南労党は自分たちの武力がどれほどか、ちゃんと数えて記録していました。 玄吉彦『島の反乱』という本では、この鹵獲文書から次のように記しています。

> 最初(4月3日)に整備された組織は遊撃隊100名、それを補助する自衛隊200名、特殊な目的を遂行する独警隊20名など、総計320名で構成されていた。 武器は九九式小銃27丁、拳銃3丁、手榴弾(ダイナマイト)25発、煙幕弾7発で、その他は竹槍しかなかった。 (玄吉彦『島の反乱、1948年4月3日 済州4・3事件の真相』同時代社 2016年4月 44頁)

 4月3日、遊撃隊はこの軍事力で警察支署12ヵ所と右翼宅等を襲撃し、警察官4人、右翼人士等の民間人8人(うち2人は女児)を殺害し、これに対して遊撃隊の死者は2人にとどまりました。 そしてその後、遊撃隊は軍事力の増強を図ります。

> 第五次の組織整備は6月18日に着手し、7月15日に完了した。 その時の兵力は、各級指導部35名、通信隊34名、遊撃隊120名、特務隊312名で、総計501名だった。‥‥ MI小銃6丁、カービン小銃19丁、九九式小銃117丁、四四式4丁、30年式2丁、総計147丁の小銃があった。‥‥ 弾丸としては、MI弾丸が1396発、カービン1912発、九九式3711発、四四式721発など総計7740発で、軽機関銃1丁、擲弾筒2門、手榴弾43発、ダイナマイト69発、信号弾2個、軍刀16丁、拳銃は6連発1丁、8連発6丁、10連発1丁で総計8丁だった。  (玄吉彦『島の反乱』同時代社 44頁)

 わずか3ヶ月余りで、これほどに軍事力を増強しました。 兵員は320名→501名、兵器は小銃27丁→147丁、拳銃3丁→8丁、手榴弾・ダイナマイト25発→112発等々です。 大きく増えた要因は、遊撃隊が軍・警を襲撃して武器を奪取してきたことと、軍兵士が南労党側に寝返ったことです。 金時鐘さんは次のように書いています。

連隊長に不満をもった第九連隊所属の兵士41人が、5月18日、大量の武器弾薬と装備をたずさえて脱走し、山の部隊に加担します。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 217頁)

 このようにして、南労党遊撃隊は軍隊なみの兵器・兵員を有する武装集団となりました。 それでは、どれほどの戦果を挙げたのか。 鹵獲文書には、7月末までの4ヶ月足らずの間の戦果報告があります。 殺害者数だけを抜き出してみますと、

> 警察官殺害74名、警察官家族殺害7名。 反動殺害223名、反動家族殺害12名。 (『島の反乱』同時代社 56頁)

 これは南労党から鹵獲した記録によるもので、どれほど正確なのか分かりませんが、当時の南労党はこれだけの戦果があったと認識していたという資料にはなるでしょう。

 家族は偶然に巻き込まれたのではなく、遊撃隊の当初からの狙いでした。 「反動」は右翼人士および選挙管理委員会関係者などを指します。 「警官」「警官家族」よりも「反動」「反動家族」の殺害数が非常に多いことに目が行きますね。

 武装暴力闘争を担ったのは、金時鐘さんが言うような「一揆の範囲をでない〝暴徒”たち」「止むにやまれず立ち上がった農村の青年たち」の集まりで決してありません。 4・3事件の主体は、あくまで南労党の軍事組織である遊撃隊でした。

 

⑪	村人たちを強制移動させて選挙拒否するも弾圧を招く

 金時鐘さんによると、南労党は単独選挙を阻止するために、村人たちを投票所に行かせないように南労党の根拠地へ強制的に大挙して移動させたといいます。

「山部隊(遊撃隊)」は、これがのちのち4・3事件の悲劇を惨劇に変える因となった出来事ですが、投票拒否の証として村人たちを大挙入山させたりしたのです。 それは胸痛くも、無理強いの説得と脅しによってなされた行為でした。 (『朝鮮と日本に生きる』 201頁)

 金さんは「胸痛くも」と書いておられますので、「無理強いの説得と脅しによってなされた行為」に関与したと考えられます。

 北済州郡には甲乙の二つの選挙区があって、選挙当日(5月10日)にここの中山間部の大部分の村人が南労党の指示により村から出て、投票を拒否しました。 このためにこの二選挙区では投票率が過半数に至らず、選挙が無効となりました。 これによって権力側の軍・警は選挙から逃亡したこれらの村々を「パルゲンイ(赤)の村」と見なし、大量虐殺へ繋がることになるのでした。 

 済州島という孤立した島で他からの応援・支援がない中で、圧倒的武力を有する軍・警を相手とした武装暴力闘争は選挙無効という成果を勝ち取りましたが、多くの島民の犠牲者を出しながら最後まで闘い抜いて、結局は「無惨な敗北」に終わりました。

 南労党は早い段階で、〝全ての責任は我が党にある、島民には罪はないから島民を殺すな”として投降すべきだったのではないでしょうか。 何万人もの島民が犠牲となった責任は権力側(軍・警・右翼等)だけでなく、反権力側(南労党)にもあると考えます。

 私はこの事件について、権力側も反権力側も悪魔と化して残忍な暴力を応酬し合ったのですから、今となっては両者を区別せずに、犠牲になった多くの島民も含めて、すべての人々を平等に扱って慰霊するべきものと思っています。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

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