北朝鮮の火葬状況2007/01/01

拙稿で北朝鮮の火葬について関心があるとしました。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/10/360577  これは私自身が諸民族の民俗事象に興味がありますので、その一つとしての関心です。

 ところで、横田めぐみさんを荼毘に付したとする火葬場について、疑惑が生じています。  http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=KCH&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006071801001156  「オボンサン火葬場」は1999年に建設されたのか、それとも1997年にすでに存在していたのかです。  それ以前に、日本の記者団に見せたこの火葬場が、本当に火葬施設なのかどうかも疑わなくてはならないでしょう。

 北朝鮮側の説明で気になることは、火葬の記録は「1995年」から、横田めぐみさんを火葬したのは「1997年春」としている点です。

 よど号事件の首謀者である田宮高麿は「1995年12月」に死亡し、すぐさま火葬した、と発表されています。  曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんによれば、同じく脱走米兵であったドレスノクの妻ドナが「1997年1月」に死亡した際、本人の希望により火葬した、とあります。(角川書店『告白』174頁)

 この「1995年」と「1997年」の一致が気になります。北朝鮮は、それなりに整合性を持たせようと年を一致させたのではないか、という疑問を抱きます。  北朝鮮の火葬状況について、余りにも情報が少なく、もどかしいものです。

日本の白米至上主義2007/01/06

 私は「白米至上主義」、他では「米食至上主義」、「コメ中心主義」とも言うようです。  この考え方の歴史をちょっと調べてみましたが、まとまった論文はなさそうです。  私なりに調べたことでは次のようです。

 江戸時代は、武士階級および江戸や大坂などの都市生活者の多くがコメを常食としていた。農村では麦や雑穀も重要な食材で、コメだけを常食とする農民はほとんどいなかった。

 この傾向は明治になっても変わらなかった。都市生活者は食料を購入するが、主食のほとんどがコメで、雑穀はなかった。軍隊ではそれが徹底された。コメは活力の源泉とされて、白米ばかりの食事となり、麦飯などは食べることがなかった。

 この白米至上主義が大きな弊害となって現れた。脚気である。脚気はビタミン不足からくる病気で、白米にはビタミンがほとんど含まれず、麦に多く含まれる。大日本帝国陸軍では脚気患者が大量発生した。しかし陸軍軍医総監の森鴎外は白米至上主義を貫き、特に日露戦争で多大な被害をもたらした。

 鴎外没後、陸軍ではやっと麦飯が導入され、脚気が少なくなる。しかし都市生活者の米食至上主義は続く。そのため、コメが食べられないとは即ち生活困窮であるとする思想が広まっていった。

 このときに起きたのがコメ買占めが原因の「米騒動」である。都市生活者が麦飯や雑穀を食べていたら、このような騒動はなかったであろう。かつて池田首相が「貧乏人は麦飯を食え」と発言して、大きな問題となった。その背景には、都市では白米、農村では麦飯・雑穀飯を食べていた社会状況があったのである。池田首相自身がそれを体験していた。

 コメは日本の食料政策の基軸となる。これは戦後も続く。そして農民もコメ生産に最もエネルギーを注いできた。そのため今度はコメ過剰が大きな問題となり、現在に至っている。一般農民も戦後になるとコメを常食とするようになった。

 このような歴史でした。白米至上主義は近世・近代に発生し、現代に定着した日本独自の考え方と思われます。  朝鮮では日本とは食文化が違い、白米至上主義の考え方がありませんでした。  この考えを朝鮮史に持ち込んで、「植民地時代にコメを食べられなかった朝鮮人の恨み」を説く歴史観の誤りは明らかでしょう。

朝鮮の雑穀食2007/01/11

 元来朝鮮民族の食文化には、雑穀が重要な地位を占めていました。  落合雪野「朝鮮半島における雑穀の民族植物誌」(新幹社『「もの」から見た朝鮮民俗文化』2003所収)という論考では、次のように論じています。

「これに対し韓国では現在でも雑穀が畑作物のひとつとして広く栽培され、アワを中心に多くの地方品種が活用されている。同時に雑穀は日常生活にごく普通に利用される身近な食材である。‥‥  日常食にも行事食にも取り入れられてきた雑穀が、朝鮮半島の食文化に欠かせない穀類になっている点も考えなければならない。朝鮮半島における食文化の特徴のひとつに食材の多様性がある。‥‥アワ、キビ、モロコシ、ハトムギ、ヒエについてそれぞれが特徴を持った穀類として認識され、その持ち味が尊重されてきた‥‥  雑穀という言葉から、価値の低い穀類といったネガティブなイメージをもつ人もいるだろう。だが、朝鮮半島ではその本来の意味のとおり多様な穀類としての雑穀がいまも生きているのである。」(196~197頁)

 朝鮮の場合、米だけでなく雑穀も重要な食料であったということです。  従って米だけを取り上げて、「日本が米を収奪した。朝鮮人は雑穀ばかり食べさせられた」などと歴史を語るのはナンセンスなのです。

朝鮮人の暴食2007/01/17

 ヨーロッパ人による李朝時代の記録に、朝鮮人の暴食の性向が報告されています。シャルル・ダレ『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫 金容権訳)では、次のように書かれています。

「朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持ちも、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。  朝鮮人は、常に食べる準備をしている。機会があれば手あたり次第に食うが、それで十分だとは決して言わない。‥‥ いつもの食事時がくれば、さながら二日も前から飢えていたような食欲で食膳につく。‥‥  労働者一人の一回の食事量は、ふつう米約一リットルで、炊けば大きな丼にたっぷり一杯はある。しかし、それだけでは彼らの腹を満たすのに十分ではなく、多くのものは、可能でさえあれば、三,四人分の食事を平らげてしまう。九人分や十人分の食事を食べても何ともないと言っている人さえいる。‥‥  果物が出されるとき、例えば桃や瓜の場合、もっとも控えめな人でさえも、皮もむかないでまたたくまに二十個や二十五個は食べてしまう。  もちろん、この国の人びとが、いま述べた分量を食べているというのではない。すべての人が、いつもそれを食べる準備をととのえており、そんな機会に実際にぶつかれば、食べてしまうのだろうが、しかし彼らは、そんな機会にありつくには、あまりにも貧しすぎる。‥‥」(273~274頁)

 イサベラ・バードの『朝鮮奥地紀行1』(平凡社東洋文庫 朴尚得訳)では、次のように書かれています。

「私は中台里で、また多くの場所で、朝鮮人の極度の大食を指摘する機会を得た。朝鮮人は空腹感を満たすためにではなく、満腹感を享受するために食べる。‥‥  大食に関しては、全ての階級が同じである。食事の大きな値打ちは、質ではなく量にある。幼い頃からの朝鮮人の人生の目的の一つが、胃袋に可能な限り多くの収容力と弾力性を持たせる事にあるのである。だから、一日四ポンド(1.8㎏)もの米で、不快な思いを感じないのかも知れない。  安楽な環境にいる人は食事のあいまに酒を呑み、大変な量の果物、木の実、そして菓子を食べる。それにも拘わらず、あたかも一週間も飢えに苦しんでいたかのように、今にも次の食べ物に掴みかかろうとしている。‥‥  私は朝鮮人が食べごたえのある肉を、一食に三ポンド(1.36㎏)以上食べるのを見たことがある。“一人前”にしては多い量を、朝鮮人が三人前、四人前さえも食べるのを見るのは、珍しいことではない。」(249~250頁)

 このような朝鮮人の暴食の性向は、百年前の李朝時代だけでなく、現在の北朝鮮からの脱北者にもそれがあります。彼らの脱北時の生活を記した本の中に、しばしば出てくるのです。例えば、最近の韓景旭『ある北朝鮮兵士の告白』(新潮新書)に次のような記述がありました。

「中国に来たばかりのとき、彼が茹で卵を一度に六十個も食べたことがあると、台所に立っていた奥さんが恥ずかしそうに言った。」(4頁)

 北朝鮮は李朝時代の再来なのでしょうか。  それにしても、この暴食は一体何なのでしょうか。  野生動物は常に飢餓状況にありますから、目の前に食料があるとすぐさま腹いっぱいに食べる、いわゆる食い溜めをするものなのですが、これに似ているように思えます。

朝鮮の飢饉2007/01/25

 李朝時代に飢饉は慢性的にありましたが、その具体的な様相を示す資料がなかなか見当たりません。その数少ない資料のなかにシャルル・ダレ『朝鮮事情』金容権訳(東洋文庫 1979)に次のような報告があります。

「しかし政府は、おのれの保持のためには必要であると信じこんでいるこの鎖国を、細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、これを放棄しようとしない。一八七一年、一八七二年の間、驚くべき飢饉が朝鮮をおそい、国土は荒廃した。あまりのひどさに、西海岸の人のうちには、娘を中国人の密貿易者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東にたどりついた何人かの朝鮮人は、むごたらしい国状を図に描いて宣教師たちに示し、“どこの道にも死体がころがっている”と訴えた。しかし、そんな時でさえ、朝鮮政府は、中国や日本からの食糧買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」(322頁)

 これは大院君政権時代のことです。そして閔妃は第一子を失ってその供養に国費を乱費するとともに、その原因を大院君に求めて憎悪を燃やし始めた時でもありました。国土に餓死者が累々と横たわっている時に、大院君と閔妃の権力闘争が開始されたのです。

> 李朝時代が慢性的に飢餓であれば約500年も、もたないのではないかという素朴な疑問を感じます。 > いかがでしょうか。

 北朝鮮は戦後数十年、特にここ十数年は酷い飢餓状況で、多数の餓死者が出ています。しかし体制はビクともしません。  李朝時代も同じです。餓死者が累々と横たわっていても、それが原因で体制が変わることはありませんでした。  李朝時代も北朝鮮も、農業生産性が非常に低くそして苛斂誅求の社会です。