日本統治下朝鮮における教育論の矛盾2007/02/01

 姜在彦さんは『近代における日本と朝鮮』第三版(すくらむ社 1981)で、朝鮮総督府が施行した教育について次のように評価しています。

>日本における“皇民化”教育の基本方針は、1911年8月の朝鮮教育令の公布に先だち、第一代朝鮮総督寺内正毅が同年7月、各道(日本の都道府県に相当)長官にあたえた訓示のなかに明示されている。つまり“今後朝鮮ノ教育ハ専ラ有用ノ知識ト穏健ナル徳性トヲ養成シ、帝国臣民タルヘキ資質品性ヲ具ヘシムルヲ以テ主眼”とする、日本の植民地支配に従順な奴隷教育である。>(96~97頁)

 このように学校に行くことが「植民地支配に従順な奴隷教育」であるという評価をしています。ところが、彼はその直後に次のように論じています。

>初等教育であれ中等教育であれ、朝鮮人子弟の就学率はきわめて低く、未就学児童の比率はきわめて高かった。例えば1936年現在の適齢児童の就学率は25%(男子40%、女子10%)にすぎない。いわば教育機会を制限する愚民化政策である。>(98頁)

 ここでは学校に行かないことが「教育機会を制限する愚民化政策」であるという評価をしています。

 日本統治下朝鮮における教育が前者のように「奴隷教育」であるならば、就学率の低さは喜ばしいはずです。  しかし就学率の低さを後者のように「愚民化政策」とするならば、就学率を高くすべきであったとなるはずです。

 いったい姜在彦さんは、当時の朝鮮人の子供たちは学校に行ってはならなかったと言っておられるのか、それとももっと多く行くべきであったと言っておられるのか。  朝鮮史研究者には、このような矛盾した記述をすることがあります。

支配者側の名前をつける性向2007/02/07

 ちょっと昔の朝鮮史の本には、時どき面白い記述が出てきます。

>蒙古の影響は‥‥数多くの高麗貴族が自分の名として、朝鮮名以外に蒙古式人名をつかった。そのあまりの熱心さに、さすがのフビライ汗も疑いを抱いたにちがいない。ともあれ、一二七八年かれは高麗王に、“なぜ、なんじは自国の習俗を捨てるのか”とたずねたという。>   李玉著、金容権訳『朝鮮史』(白水社 1983) 75頁

 これが史実かどうか分かりませんが、朝鮮民族が支配者側の名前をつけようとする性向は、結構古くからあるということです。  創氏改名の理由の一つに、朝鮮人側が日本名を求めたから、というのがありましたが、これに関連して考えると興味深いものです。

朝鮮名での設定創氏が可能な場合2007/02/12

 創氏改名のうちの「創氏」には、日本風の名前を届け出る「設定創氏」と先祖伝来の朝鮮名をそのまま創氏する「法定創氏」との二種類があることは、周知のことと思います。  それでは先祖伝来の朝鮮名でもって設定創氏が可能であったのかどうかです。このことについて、金英達さんは『創氏改名の研究』(未来社)の27頁において、次のように論じています。

>実務上では「林、柳、南、桂等の姓を有する者が、林(はやし)、柳(やなぎ)、南(みなみ)、桂(かつら)等内地式の読み方を以て氏と為さんとする場合其の届出の要なきところ」という一九四〇年四月二二日付の法務局長通牒でうかがわれるように、戸主の姓をそのまま氏とする創氏届は必要ないとされており、戸籍窓口の実際においては、そうした創氏届は受理しなかったことが推測される。  ということは、事実上、設定創氏は日本風の氏の設定に限定されていたのである。>

 ところがここで引用されている「一九四〇年四月二二日付の法務局長通牒」なるものが不正確でした。実際のところは次のようになります。

京城地方法院開城支庁判事から朝鮮総督府法務局長への照会 昭和15年3月18日付け

>六.林、柳、南、桂等ノ姓ヲ有スル者ガ林(ハヤシ)、柳(ヤナギ)、南(ミナミ)、桂(カツラ)等内地人式ノ読ミ方ヲ以テ氏ト為サントスル場合其ノ届出ノ要ナキトコロ強テ届出ヲ為ス場合ハ受理スルノ外ナキヤ>

これに対して法務局長は同年4月22日付けでこれに対して

>貴見之通>

と回答しています。 以上のやり取りを関係部署に周知させたのが「一九四〇年四月二二日付の法務局長通牒」です。(出典は朝鮮総督府法務局編纂『昭和十八年新訂 朝鮮戸籍及寄留例規』)

 つまり林、柳、南、桂といった朝鮮名は、そのまま設定創氏として届けられても受理することとされたのです。

 ところが金英達さんの著作では、引用した資料の後にあった「強テ届出ヲ為ス場合ハ受理スルノ外ナキヤ」という質問と、それに対する「貴見之通」と回答の部分が抜け落ちています。このために「設定創氏は日本風の氏の設定に限定されていたのである」という結論となってしまいました。  ここは彼の明白な間違いです。彼は緻密な考証家なのですが、こういうところに陥穽がありました。彼のような方でも鵜呑みにしてはならない、という教訓を得ました。   この資料を紹介してくださったdreamtale様に感謝申し上げます。

鄭大均さん2007/02/19

 鄭大均さんの近著『在日の耐えられない軽さ』(中公新書)は、彼の自叙伝風のもので、興味深いものです。特に彼の父母の生き様については、ちょっと考えさせるものがありました。  好著なので皆様にもお勧めするのですが、一点だけ間違いを見つけました。

「わが家のがらくたの山を探っていたら、白と青のチマ・チョゴリを着た女性が、川辺で砧を打つ姿が描かれた板切れを見つけたことがある。絵の横には“ぱろれー”とひらがなで記されていて、“洗濯”を意味するらしい。‥‥  ある霧の深い朝、北上川の堤防を歩いていたら、その女性が砧を手に、川辺で洗濯をしているではないか。」(7~8頁)

 朝鮮の洗濯は昼間に川辺で汚れを落とすために叩き洗いするもので、その後に洗濯物を家に持ち帰って夕方頃から皺を伸ばすために打つのが砧です。洗濯は朝鮮語で「パルレ」、砧は「タドゥミ」です。  鄭氏は叩き洗いに使う木槌を「砧」としていますが、洗濯で打つ槌と砧で打つ槌は、形状が違うし、叩き方も違います。  洗濯と砧を混同しているだけでなく、木槌を「砧」とすることも間違いです。

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai

飛鳥会事件―「心から謝罪」は本当か?2007/02/24

 飛鳥会事件をはじめ、同和にからむ事件について、解放同盟大阪府連が「心から謝罪」をしたそうです。(2006年9月9日) http://blhrri.org/topics/topics_0181.html

 このなかで事実関係で明白な誤りがあります。

>小西氏と暴力団関係者との不透明なつきあいは事件発覚まで継続されており、相当の額が暴力団の資金源にまわっていた事実が発覚している。こうした行為は、部落解放運動を隠れみのにしていたといわざるを得ず、そのことを見破れず是正できなかった指導責任は重大である。>

  この飛鳥会=解放同盟飛鳥支部については、かなり以前に仕事の関係上、付き合わざるを得ないことがありました。その時に周囲から出てきた噂が、山口組との関係でした。

 1985年に四代目の竹中組長が吹田にある愛人宅のマンションで暗殺された時、このマンションの名義人が解放同盟飛鳥支部長の小西邦彦でした。  そして山口組と中野会でしたか、激しい抗争が勃発した頃、1997年9月この飛鳥支部に銃弾が撃ち込まれました。これは新聞報道されています。  これらは単なる噂ではなく、事実でした。

 解放運動に無関係で、偶然付き合わざるを得なかった私ですら、これぐらいの情報はすぐに入手しました。  また2002年に発行されて大きな話題を呼んだ『同和利権の真相』(宝島社、今は宝島文庫にあり入手しやすい)のなかに、小西は「山口組系金田組組員」として明記されています。

 つまり解放同盟が支部長小西と山口組との関係をこれまで「見破れなかった」と言うのは、虚偽であるということです。知っていながら放置・容認してきたというのが本当のことでしょう。  同盟の「心からの謝罪」は信用できるものではありません。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/27/382079 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/26/381520