民族を明らかにするのに勇気がいる、という発言2009/05/10

 地方新聞(中国新聞)に次のような記事がありました。

>「広島の『在日』を考える集会」が9日、広島市南区の市留学生会館であった。在日外国人が置かれた現状や課題について理解を深めてもらうため、全国在日外国人教育研究協議会などが開いた。

 シンポジウムには、在日韓国人3世で高校3年の岩本炯来さん(17)、山口大1年の呉祐昊さん(20)たち5人が登壇。学生たち約60人を前に、今の暮らしや社会への要望について意見を出し合った。

 岩本さんは「(初対面で)韓国人だと言うのは勇気がいる」と打ち明け、差別意識をなくしてほしいと要望。呉さんは「在日外国人について知らない人が多い。自ら考え、どう行動したらいいか考えてほしい」と述べ、教育の充実も求めた。 http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200905100205.html

 ここで注目すべきは、在日3世が「韓国人だと言うのは勇気がいる」という発言です。  しかし、ニューカマーの韓国人は、自分が韓国人であることを何らためらいません。また在日1世も大体の方が自分が朝鮮出身であることを隠しません。

 つまり自分の民族性を隠すという性向は、在日2世以降の特徴と言えます。(ただし全ての人が隠すわけではなく、傾向性という意味です。)  拙論では第84題・第41題で論じました。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuichidai

ここでは2世以降の<自らの民族性を隠したい>という性向は、国籍上は外国人だが、中身は全くの日本人であることの矛盾の現れだ、と論じました。

 さらに中国新聞の記事では、「差別意識をなくしてほしいと要望」「自ら考え、どう行動したらいいか考えてほしい」と述べ、教育の充実も求めた。」という締めくくっていますが、次に大きな問題とすべきはここです。

 つまりその隠したいという気持ちから脱して、日本人に対して民族性を打ち明ける時、日本側に何かを要求するという考えが伴なっていることです。  日本の一部の教師や在日活動家が、在日の子供たちに本名を名乗れ!と訴える時に付随する考えがこれです。というより、それが彼らの活動の根拠です。  活動の目的があって、本名宣言=民族性の名乗りがあることに、注意が必要です。