外国籍の先生(毎日新聞の記事)2010/07/03

 毎日新聞に田中博子という記者が記者ノート欄に、「外国籍の先生」と題する記事を書いています。

>「子どもは先生を選べないから、仕方ないです」。 大阪府内の公立小学校に勤める韓国籍の教師は、担任をする児童の保護者にそう言われたという。

 朝鮮半島にルーツを持つ人が多い大阪では、社会の理解も他府県よりも進んでいるだろうと甘く考えていただけに、ショックだった。在日の子どもの在籍率が高い学校でも、日本名を使わせる保護者は少なくない。

 別の韓国籍の教師は、20歳にになるまで日本名を使い、韓国人であることを隠してきた。「民族の違いを男女の違いのように受け入れられる子に育てたい」。自らの経験を踏まえ、そう願う。

 府内の小中学校には外国籍の教員が100人以上いる。理不尽を感じながらもルーツに向き合ってきた大人が身近にいることで、違いを認めるとはどういうことか、子どもが肌で感じる部分もあるだろう。外国籍の教師の利点のを生かせるかどうかは、受け入れる日本人側にかかっているのではないだろうか。> (2010年7月3日付け)

 田中博子記者は保護者側の言い分を全く取材せず、韓国籍の先生の側の言い分だけで記事にしましたが、これはいかがなものかと思います。

 在日教師が「民族の違い」を学校内でも見せようとしているようです。自分が韓国人であり、君たちとは民族が違うんだと強調することになりますが、そのような授業をしているのでしょうか?それとも単に「本名」さえ名乗れば、それで「民族の違い」となると思っているのでしょうか?    また田中記者は在日が日本名を使うことを「理不尽」としていますが、日本名を名乗るかどうかは本人や保護者の選択の一つです。日本名を名乗ることをおかしいと感じる人もおれば、別に構わないと感じる人もいます。それはそれぞれ個々人の事情や考え方によるものであって、周囲はそれを尊重すべきものです。ならば果たして日本名を使うことを「理不尽」と一方的に言っていいのかどうか、疑問です。

 田中記者は「外国籍の教師の利点を生かせるかどうかは、受け入れる日本人側にかかっている」と主張していますが、「外国籍教師の利点」とは一体何なのでしょうか? 日本の学校では、日本語で授業を行ない、良き日本社会構成員を育成するための教育を施すところです。異文化圏で育った外国籍教師なら異文化体験という「利点」はありますが、言葉・習慣・感覚・発想・身のこなし方等々、全く日本人そのものである在日教師に、「外国籍教師の利点」があるのかどうか、疑問です。

 もし「外国籍教師の利点」があるというなら、その利点を使うのは当の教師であるべきでしょう。なぜ「日本人側にかかっている」ということなるのでしょうか?

(参考)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuuichidai

在日は日韓の架け橋か2010/07/11

 1980年代に、民族差別と闘う運動団体では、在日は日韓の架け橋だ、という主張がなされていたことを思い出します。  架け橋になるべき在日に通名を名乗らせることは、架け橋にならないではないか、だから在日は本名を名乗るべきだし、日本も在日に通名を強要してはならない、というような論理だったと記憶しています。

 その時は、そんなものかなと賛成していたのですが、在日自身から次のような話を聞いて、疑問を感じることとなりました。

 近くの小児科に子どもを連れていったら、待合室に十数人ほどがいた。しばらくして、韓国から来たばかりのお母さんが赤ちゃんを抱いて、診察室に入った、しばらくすると、日本語と英語で話す医者の大きな声が聞こえてきた。そして看護婦が待合室に出てきて、「誰か韓国語の分かる人はいませんか?」と繰り返し叫んだ。そのお母さんは日本語が全くできず、赤ちゃんの急変であわてて医者に来たようだった。看護婦は私(本名を名乗る在日)の方を何回も見るのだが、私は韓国語ができず、そのままじっと黙っていた。

 こんな話だったのですが、この時に、在日はその存在だけで日韓の架け橋になりえないことを感じました。

 考えてみれば、日韓の架け橋になろうとすれば、両国の言葉だけでなく、両国の文化・習慣・感性等々をも知っておかなければなりません。これは二つの国の勉強をするということです。つまりは普通の人の二倍の努力をしてこそ、架け橋としての役割を果たせるものなのです。

 しかし当時の差別と闘う運動団体は、在日が本名を名乗り、自らの民族的出自を明らかにすることが日韓の架け橋だと主張していました。  ところが上述の話のように、架け橋として実際に必要な時に、本名を名乗る在日は、何の役にも立たなかったということです。

自分を棚に上げる2010/07/25

 官庁関係の団体に、ある主婦がアルバイトで仕事をしていました。この女性、「税金の無駄使い」をしょっちゅう話をしていました。何か事あるたびに「役所はこんな無駄使いをしている」と大きな声で話をしていました。ホントに喧しいくらいでした。

 ところでこの主婦、通勤手当を電車・バス代(約1万2千円)で貰いながら、実際は自転車で通勤していました。自転車通勤なら月1千円ですから、差額は1万1千円。年間にすると13万円。このアルバイトを数年以上やっていましから、仮に5年間とすると、実に65万円を不正に受け取っていたことになります。官庁関係の団体ですから、その原資は税金です。

 余りにうるさかったので、このことを指摘すると、その後はおとなしくなりました。  しばらくして、通勤実態の調査が全庁的に行なわれたので、このような不正はなくなりました。

 もうだいぶ昔の話です。

 自分のことを棚に上げて、悪口を繰り返すというのは、私には最も嫌なタイプです。

障害者解放運動への疑問2010/07/31

 このところ、私的な昔話の記事ばかりを書いています。  今回も、80年代の古い話をします。

 ある知り合いの女性が、結婚して妊娠した時、風疹の検査をしようとしました。 これを聞きつけた、障害者解放運動団体関係の人が    「その検査は子供が障害者かどうかを検査して、時には堕胎する(子供を殺す)こともある、だから障害者を差別するものだ、そんな検査をしてはいけない、障害者を産んだっていいじゃないですか」  と反対しました。

 女性はビックリ仰天。「あの人たちは、自分らでどんどん障害者を産んだらいいんだ!!」 と、プリプリ怒っていました。

 障害者は自分を恥ずかしいと考えるべきではない、とする考え方までは理解できますが、「障害者を産んだっていいじゃないか」という考え方には、私も理解できませんでした。

 次は私の体験です。 上述とは違う障害者解放運動関係者に、ある時、「今は医学がどんどん発達している。障害を持った方が医学の力で治ったなら、おめでとうと祝福してあげたい」と言ったら、それこそ障害者を差別するものだと批判されました。

 障害者問題は余りにも理解できなかった、というのが正直な感想です。