在特会「桜井誠」とは ― 2012/12/02
通名に関する拙論に対して、かなりの反応がありました。通名を禁止を主張する団体に「在日特権を許さない市民の会」があります。この関係者が投稿されたのかなあ、と想像しています。
ところでこの「在日特権を許さない市民の会」、略して「在特会」というらしいですが、この会長さん「桜井誠」は、通名です。本名は「木村誠」とも「高田誠」とも各説があるようです。本人は自分の本名を明確に打ち出していないようです。
通名の会長を代表とする団体が、通名禁止を主張するという奇妙としか言い様のない現象です。
この在特会は在日韓国・朝鮮人らの特別永住資格の廃止も主張しています。このことについては、拙稿で批判したことがあります。
「在日特権」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/12/2556636
「特別永住の経過」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/25/1750381
「特別永住制度の変更は非現実的 」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/01/1762857
「在日の法的地位問題は解決済み 」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/08/1781500
この通名「桜井誠」さんの著作は、数年前に読んだことがあります。『嫌韓流 反日妄言撃退マニュアル』というもので、中身は杜撰な本でした。拙論でも少し取り上げたことがあります。
「高野新笠」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/21/373512
「嫌韓本に掲載された閔妃の写真」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/09/15/524834
この拙稿以降、桜井誠なる人物には関心がなかったのですが、今読み返してみて、やはりそういう人物なんだと改めて感じた次第。
砧の新資料(1) ― 2012/12/09

ウィリアム・ジェームス・ホールの写真 朝鮮における砧の最古資料
この頃、まだ本格的ではありませんが、砧の研究を再開しています。8年ぶりになります。
これまでの拙論では、朝鮮における砧の最古資料は、イサベラ・バードの『朝鮮とその近隣諸国』(講談社学術文庫、平凡社東洋文庫では『朝鮮奥地紀行』)に出てくる挿図で、時期は1895年の日清戦争頃としていました。
http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinutazu3
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai
ところが、ウィリアム・ジェームス・ホールという宣教師が朝鮮各地を宣教にまわりながら撮影した写真のなかに、砧の写真を見つけました。それが ↑ の写真です。
彼は1891年に訪韓し、1894年に現地で亡くなっています。つまりイサべラ・バードより古いですから、これが朝鮮の最古資料となります。
もっと資料を探してみたら、さらに古い資料が見つかるかもしれません。
砧の新資料(2) ― 2012/12/10

これは、月岡芳年の「夕霧 きぬたの月」という絵画。時期は明治23年(1890)です。綾巻に布地を巻いて打つⅠ型の砧です。
拙論では、日本では砧を打つ風習は明治時代に廃れたと論じたのですが、明治中期にこのような絵画が描かれていたのです。つまり、明治になっても砧がまだ残っていたことになります。
今のところ、日本におけるⅠ型砧の最新資料ということになります。このⅠ型砧が、現在の日本では実物が全く残っていません。博物館や民俗資料館等にも出てきません。 残念なことです。
砧の新資料(3) ― 2012/12/11

これは西宮市郷土資料館に所蔵されている砧の台。拙論におけるⅡ型です。この台の上に、折りたたんだ布地を置いて、横槌で打つわけです。
昭和12年(1937)に開業し、平成11年(1999年)に廃業したクリーニング屋さんの道具ということです。
これと全く同じ形のものが、江戸時代の絵画資料にあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/kinuta(11)
これは『大和名所図会』という江戸時代の本の中に出てくる絵です。刊行は寛政3年(1791)とされています。ここで描かれる砧の台は、↑ と全く同じです。つまり、この形は200年もの間、形が変化しなったのです。
昭和になっても、細々ながらも砧を打つ人がいたことに、ビックリしました。
砧の新資料(4) ― 2012/12/13

「北海道開拓の村」にある砧。石の台の上に折り畳んだ布地を置いて打つものです。拙論のⅡ型です。
先に紹介した http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527 は上面がかまぼこ型に膨らんでいますが、これは膨らまずに平らであるという違いがあります。
この資料の詳しい時期は分かりませんが、明治以降でしょう。日本では、近代になってもごく一部で砧を打つ風習が残っていたことを示すものです。
砧の新資料(5) ― 2012/12/14

これは浜野壽随という彫金家の作です。刀の柄飾りの一部に、このような砧を打つ場面があります。
http://blog.goo.ne.jp/tsuba_001/e/0bbbe3ffc0d28e776db9407bb7bac44d
浜野壽随は生没年不詳ですが、江戸時代の後期あるいは末頃と思われます。
ここに描かれる砧は、台の上面が平らで広いもので、先に紹介した「北海道開拓の村」にあるものとほぼ同じです。
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/13/6659222
一方Ⅱ型の砧には、上面がかまぼこ型のものがあることも先に紹介しました。
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527
つまりⅡ型の砧は、上面が平らで広いものと、かまぼこ型のものとの二種類があり、江戸時代から近代にかけてこれらが同時並存していたと考えられます。
砧の新資料(6) ― 2012/12/16

これはアフリカのマリという国での砧打ちの風景。 ある旅行者のブログに掲載されていたものです。 http://sahelnet.org/mt/2006/2007/04/post-274.html
このマリの砧は、洗濯後の砧打ちではなく、布地の染色後の砧打ちです。
洗濯後の砧打ちなら、洗濯作業の延長ですから普通は女性がやるものですのですが、ここでは「染めた布に色が馴染み艶が出るように」とありますから、布地生産の仕上げ工程での砧打ちです。この場合は男性がする場合が出てきます。日本では宮古上布の例があります。
このブログでの解説で気になったところは、「日本でも、かつてはそうして布を打ち和らげていた。」という部分です。辞書等ではそういう解説をするのが多いですが、間違いです。皺をとり艶を出すのが砧の目的であり、和らげるのが目的ではありません。もし布地を打って和らげるとしたら、その布地は擦り切れてしまうでしょう。
ところで道具ですが、台が太い丸太です。また叩く横槌は、叩打部が人の頭ほどの大きさがあります。
外国人の名前が日本文化に馴染まない例 ― 2012/12/17
外国人の名前は、当然日本文化とは関係ないところでつけられていますから、日本ではこんな名前はあり得ないだろう、或いはもし日本で生活したら、からかわれるだろうと思われるものがあります。
例えば「金好美」さんという韓国人はハングル読みすると「キム・ホミ」となります。これは日本の某地方での卑猥語であり、この方がその地方に住むことがあれば、からかわれることでしょう。
昔のプロレスラーで「ボボ・ブラジル」さんがいました。本名かリング名かは分かりませんが、某地方でのプロレス興行は異様に盛り上がったものでした。もしこの人がこの某地方で生活するとしたら、からかわれることは確実です。外国では普通の名前らしいですが、日本ではあり得ない名前です。
フランスの女性哲学者「ボーヴォアール」さんが、かつて日本の各地を講演して回ったとき、ある地方ではちょっと異常な雰囲気となったそうです。
かなり以前に、アフリカの大統領に「チョンベ」さんがいました。このニュースを聞いた某地方の人たちはビックリしたそうです。
このように外国人の名前はその国では何ともなくても、日本文化に馴染まず、日本で住むとしたら、からかいの対象となると思われるような場合が出てきます。といって、外国人登録ではパスポートの名前を本名とせざるを得ず、これで生活するとなると、日常生活に支障が生じる可能性があります。この場合の解決方法の一つとして、通名というのは便利がいいように思われます。
日本名を本名とする在日朝鮮人 ― 2012/12/18
在日韓国・朝鮮人は、本名は民族名、通名は日本名を名乗るものだ、と考える人が多いようです。しかし在日の中には、日本名が本名として登録されている場合があります。
1959年の資料ですが、当時の韓国・朝鮮人外国人登録607,553名のうち、金本や新井などの日本風の名前を本名として登録されているのは22,789名と約4%の割合でした。つまり在日25人のうち1人が、日本風の名前を本名としています。
このような在日が出現した最大の理由は、1940年に施行された創氏改名です。この創氏改名令は、韓国や北朝鮮では当初より遡って無効とされたのですが、日本に居住する在日は無効とされませんでした。在日が設定創氏した日本風の名前は、不動産登記や預金名義等にそのまま使い続けることができたのです。そして終戦2年後の1947年に施行された外国人登録令でも、この日本風の名前で本名登録することができました。
日本名を本名とする在日の方の運転免許証を実際に見たことがあります。氏名欄には「大山昌次」(仮名)とあり、本籍欄には「韓国」とありました。最初は通名で免許証が作れるのかとビックリしたのですが、そうではなく、本名が「大山昌次」なのでした。
朝鮮学校に通ったことのある人に、このような在日が朝鮮学校に入学したら名前はどうなるのかと聞いてみたら、校長先生が朝鮮風の民族名をつけてくれて、それを通名とするということでした。つまり本名「大山昌次」という在日は、「崔昌寿」(仮名)さんという通名を使って生活することになります。
また別に言えば、犯罪者報道で韓国籍の「大山昌次」が出たとしても、これが本名である可能性があります。本名を隠している訳ではないことになります。
こうなると本名・通名問題は、国籍や民族を必ずしも表すものではないということが分かります。少なくとも「通名禁止」を主張する考え方では想定されていない例が実際にあるということです。
「通名禁止」を主張する人は、おそらく「特殊例外」として思考停止にするでしょうが‥。
出自を隠すための通名には事情がある ― 2012/12/21
通名は個々人の様々な事情によってつけられます。職業上のことなど積極的な意味のある通名もあれば、出自を隠したいという消極的な意味の通名もあります。
かなり以前ですが、同和問題の講師をしておられた同和出身の方から、「私の名前は珍しく、私の地方ではこの名前を名乗ると、すぐさま同和地区出身だと分かってしまう。だからこの地区出身者では通名を名乗る人が少なくなかった。」という話を聞いたことがあります。 部落差別は今ではほぼ解消したといっていいですが、何十年か前まではかなり厳しい時代でした。そんな時に、そこの出身であることが分かってしまうような本名を嫌い、通名を使ったというのは、理解できる話です。
ハンセン病(癩病)患者への差別は、日本だけでなく全世界的に厳しかったものです。今でも一部の国では、この差別は厳しいようです。 彼らのほとんどが家族と縁を切るために通名を使い、時には戸籍を変えて本名自体を別名にしていました。なぜならこの病気かかったことが知られれば、家族はもちろん親族に至るまで多大な迷惑がかかるからです。 ハンセン病を発病した人は、周囲に知られないように出奔し、家族とも縁を切るのが普通でした。そのために、家族との関係を示す名前(=戸籍上の名前)は名乗れなかったのです。 ハンセン病者が本名隠し通名を使うのは、日本だけでなく全世界的な傾向でした。
以上は昔の極端な例かもしれません。
しかし本名を隠して通名を使うのは、その人の事情によるものだということは、昔も今も変わらないことです。周囲はその事情を斟酌し、その人の選択を尊重すべきでしょう。