『言葉のなかの日韓関係』(6)2013/04/17

 宋基燦さんは「在日朝鮮人の朝鮮語教育、その実態と意味」という論文で、日本語を母語とする在日朝鮮人生徒たちが朝鮮学校で朝鮮語を使っていることについて、「英会話教室で同じ母語の受講者同士で、英語の会話をさせられるときがある。その時のぎこちなさと、朝鮮学校の日常言語実践における演劇性とは連関している」(70頁)と論じています。つまり朝鮮学校における朝鮮語の使用は「演劇」なのです。 彼は朝鮮学校で行われた焼肉パーティに参加して、その時に交された学校関係者の朝鮮語会話の経験を次のように記しています。

焼肉パーティに参加した人々が、楽しく飲み食いしながら交す談話に、彼らの母語である日本語ではなく朝鮮語を使うためには、まず参加者にある程度以上の朝鮮語能力が必要なのである。パーティに集まった人々は朝鮮学校の先生や職員、地域の朝鮮青年同盟など、みな朝鮮学校出身であるために、朝鮮語の会話『演劇』が可能になったのだが、彼らのこのような朝鮮語能力は、決して一夜にしてなったものではなく、日々の参加と実践によって身体化したものなのである。    朝鮮学校で行われている日常的実践を『演劇的』と把握すると、反省会のときに激しく批判し合ったりしながらも、仲の良い友達関係が維持されることや、生徒たちが校門を出るや否や即座に日本語使用モードに切り替えることなどの、彼らの一見『奇妙な』行動を理解することができる。あくまで俳優として舞台の上で互いに敵を演じただけだから、舞台の裏で憎み合うことはないし、舞台を下りてからも演技し続ける必要はない。(70~71頁)

 「演劇」だから悪いということではありません。外国語教育にはこのような「演劇」が必要です。しかし朝鮮学校は在日朝鮮人にとって、本来は自分たちの言葉を学ぶ場であって、外国語を勉強する所ではないはずです。にもかかわらず朝鮮学校における朝鮮語教育は、一般の外国語教育と同様に「演劇」となっているということです。つまり朝鮮語は自分の民族語なのに、外国語として学んでいるのです。ここが本国の韓国・朝鮮人や中国の朝鮮族との大きな違いになります。 宋さんは更に次のように記します。

『演劇的』といっても、朝鮮学校における日常的実践と違う点は、生徒の実在性にある。生徒たちは朝鮮学校のなかで『演技』をしながら学習し、人間関係を築き、笑い、泣き、感じ、成長していく。朝鮮学校は舞台の上の仮想の世界ではなく、手でさわることのできる『リアリティ』に満ちた生の空間でもある。だからこそ、その空間のなかで『演劇的』に学習された朝鮮語能力も実在性と実用性を備えているのである。(71頁)‥‥‥朝鮮学校の生徒たちにとって、朝鮮語によって構築される朝鮮学校の公的領域の生活は仮想現実ではない。それは、私的領域として日本社会という世界が実在することと同様にリアルなのである。したがって、朝鮮学校の生徒が自由に往来可能な2つの世界においてそれぞれパフォーマンスを行なうとき、行為主体として生成されるアイデンティティの正当性は、『舞台』の実在によって保証される。(73~74頁)

 朝鮮学校の生徒は、「朝鮮語によって構築される朝鮮学校の公的領域の生活」と「(日本語によって構築される)私的領域として日本社会という世界」との二つの間を「自由に往来」しているのですが、それは朝鮮語を使う朝鮮学校が「演劇」をする「舞台」であるからなのです。